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名 称  日本中央の碑(壺の碑) 別館のブログへ
写 真
所在地  青森県東北町字家ノ下タ39−5

〜コ メ ン ト〜

日本中央の碑は昭和24年6月21日に青森県東北町の石文集落近くの赤川上流で発見

された「日本中央」の四文字が刻まれた高さ約1、5mの石である。発掘当初から平安

時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂が文字を刻んだとされる幻の「壺の碑(つぼのいしぶみ)」

ではないかと一大センセーショナルとなり話題を集めたものである。尚、古歌に詠まれた

名所を歌枕と言うが、数ある歌枕の中で「壺の碑(つぼのいしぶみ)」ほど好事家の話題に

のぼったものはない。この壺の碑(つぼのいしぶみ)を初めて詳説したのは平安末期から鎌倉

初期の歌学者・藤原顕昭で著書・袖中抄の中で「顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼの

いしぶみ有。日本のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央の

よし書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文を

ゑり付たり。其所をつぼと云也。(はるか日本の果てに坂上田村麻呂が蝦夷討伐をした際に

弓の筈(はず)で石の面に日本の中央と刻んだ碑がある。その土地の名はつぼという)」と紹介

している。但し、坂上田村麻呂の陸奥下向は志波城(岩手県盛岡市)までであってそれより

北には及んでいない。このことから田村麻呂に続いて征夷将軍となった文室綿麻呂が

都母村まで進撃していることを田村麻呂の業績と取り違えて伝説化されたものであるとも

言われている。しかしながら、その所在は長い間不明であったが、江戸時代になるとその

所在についての議論がにわかに活発なものとなった。そのきっかけは江戸時代初期に

多賀城跡から出土した石碑(いわゆる多賀城碑)が仙台藩によって「壺の碑(つぼのいしぶみ)」

とみなされ、世に紹介されたからである。これは当時の文人墨客の好奇心を大いに刺激し、

元禄2(1689)年に松尾芭蕉がこの碑の前に立ち「泪も落るばかり也」とその感動を

奥の細道に書き残したり、水戸藩の徳川光圀も伊達綱村に依頼してこの碑の拓本を

送らせたりもしている。一方、南部領七戸村(現東北町)に「坪」「石文」などの地名が

あることなどから「壺の碑(つぼのいしぶみ)」が伊達領にあるのはつじつまが合わないとする

ものもいた。「吾妻むかし話」の松井道圓や「東奥紀行」の長久保赤水らがそれである。

のちに古川古松軒や橘南谿や菅江真澄などがその影響を受け、北国紀行に際して

この地に至り所在を訪ね歩いたが、その所在は分からずじまいだった。さらに明治9

(1876)年には東北巡幸中の明治天皇が宮内省を通じて青森県に「壺の碑(つぼの

いしぶみ)」を探させたが、発見できなかったという逸話も残っている。いずれにしても

この日本中央の碑は発掘以来伝説の「壺の碑(つぼのいしぶみ)」ではないかとされ、

その真贋を巡っては議論が百出、真贋論争が巻き起こったが未だに結論が出ていない。

また、本州の北の外れが「日本中央」というのはおかしい。そもそも日本中央とは何か、

日本は何と読むのかが議論の的となった。「にほん(にっぽん)」なのか「やまと」なのか

「ひのもと」なのか・・・。そんな疑問に対し「七戸町史」では日本(ひのもと)とは日出ずる

意味で東方を指し、平安時代から東北地方は「ひのもと」と呼ばれ、朝廷の中心だった

大和と区別され、豊臣秀吉も書簡にこの言葉を使ったことが知られるなど中央政権の

側でも東国を「ひのもと」と呼ぶ例が多いとしている。つまり「日本中央」の「日本」は

日本国のことではなく「ひのもと」と訓じて東北地方を指す言葉であったと思われる

という。(前述の藤原顕昭も袖中抄の中で「みちの国は東のはてとおもへど、えぞの

嶋は多くて千嶋とも云はば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ(みちの国は

東の果てだが、えぞに島々あること考えれば日本の中央といってもいい)」と述べている。)

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