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墓 所 名 兼好塚(吉田兼好の墓) 別館のブログへ
お 墓 の
様 子
  
 
  
所 在 地 三重県伊賀市種生(草蒿寺跡

〜コ メ ン ト〜

日本三大随筆の一つとされる徒然草の作者・吉田兼好の墓。

兼好は吉田神社の社家卜部家に生まれ、俗名は卜部兼好

といい、出家して俗名を兼好(けんこう)と音読して法名とした。

「吉田」の称は吉田神社の神主の家の出身であることに

ちなむ冠称なので、吉田兼好よりは兼好法師と呼ぶ方が

本来は正しい。兄に大僧正慈遍がいる。兼好は20歳前後に

堀川家に家司として仕え、堀川具守の女基子の生んだ皇子が

後二条天皇となった縁により朝廷に出仕した。左兵衛尉まで

昇進するが、天皇の死により宮廷より退いた。正和2(1313)年

以前に出家遁世しているが、原因・動機・時期等は全くの

不明である。出家後は京都修学院や比叡山横川、山城

双が丘などに隠棲し、文保2(1318)年頃には関東にも下向

している。京都に帰ってからは二条為世に師事し二条派の

歌人として活躍、古今伝授を受け、浄弁・頓阿・慶運とともに

二条門下の和歌四天王と称され、鎌倉末期以降の勅撰集

にも入集した。また、「古今和歌集」「後撰和歌集」「捨遺

和歌集」「八雲御抄」「源氏物語」「栄華物語」などを書写

交合するなど古典研究の成果も多く見られ、洞院公賢は

その日記「園太暦」の中で「和歌の数寄者」「故実家」と称して

いる。徒然草の執筆年代は明らかではないが、40代後半から

50代前半にまとめたといわれている。兼好は歌人として公家

社会だけではなく、北条・足利氏とも交渉があり、高師直が

塩冶高貞の妻に送る恋文を兼好に代筆してもらったが失敗

したという話は有名である。尚、花園の法金剛院にある

過去帳では兼好は観応元(1350)年に亡くなったことに

なっているが、最近の研究では少なくとも観応3(1352)年

まで生きていたとの説もあり、没年は定かではない。ここ

種生の国見山は兼好法師が晩年を過ごした地として広く

知られていて、晩年はかねて相愛であった小弁の局の父、

橘成忠の招きでこの地に庵を開き、 余生を送る傍ら、

徒然草を執筆したとされ、観応元(1350)年に生涯を

閉じたといわれている。現地は「うらさびれた、とてもさびしい

ところ」で、確かに遁世者だった吉田兼好が晩年を過ごしたと

いわれるとしっくりとくるところだった。何の音もしない静寂の

中で兼好塚とひとり向き合っていると、なぜ兼好が世を

儚んで、世捨て人になったのかが素直に理解できるような

気がした…。尚、吉田兼好の墓とされるものは京都市の

右京区にもある。


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