@元寇防塁とは?

 
 文永11(1274)年に蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府が、元の再度の襲来に
 
 備えて、
1276年3月から約半年間で、博多湾の海岸線約20キロ(西の今津

 から東の香椎
まで)に九州九ヶ国の御家人に命じて築かせた石造りの防塁の

 こと。(当時は
石築地と呼ばれていた)これを元寇防塁と呼ぶ。これは元軍の

 上陸を防ぐための
防衛施設であり、九州各国はその分担地区の警備を受け

 持った。弘安の役では
元寇防塁が日本軍の重要な防衛拠点となり、この

 元寇防塁や鎌倉武士の元船への攻撃に阻まれ、元軍は文永の役の時と

 違って、博多に上陸することができなかった。



A元寇防塁が造られた理由


 
第一回目の蒙古軍襲来(文永の役)において、日本軍は蒙古軍に易々と

 上陸を許し、内陸を蹂躙された。この苦い経験から幕府は九州各国の

 御家人らに対して石を積み上げて造る防壁の築造を命じた。当時これを

 石築地と称した。高さ約1m〜3mで、幅約1m〜2mに石を積んだ防塁は

 蒙古軍上陸が予想される博多湾に沿い、総延長約20キロにまで及んだ。

 八幡愚童記には弘安の役における防塁の様子が次のように記述されている。

 「もとより海ばたには石築地を、面は急に一丈より高く、此方はのべ(なだらか)

 にして、馬に乗りながら馳せのぼり、賊船を見おろして、下げ矢に射るように

 こしらえたり」石築地は海側が蒙古軍の騎兵団を阻めるよう、およそ2mの

 高さの絶壁で内側は馬で駆け登り蒙古軍を見下ろせるよう、緩やかな傾斜に

 なっていたという。


B元寇防塁はどのように造られたのか?


 
鎌倉幕府は九州各国の御家人らに対して博多湾岸に防塁を築造するように

 命じた。築造は国別に以下のように分担地区が割り当てられた。

今    津 3km 日向・大隅
今    宿 2.2km 豊前
生 の 松 原 1.7km 肥後
姪    浜 2km 肥前
西新(百道) 2.3km 不明
博    多 3km 筑前・筑後
箱    崎 3km 薩摩
香    椎 2km 豊後

 鎌倉幕府が命じた石築地役は所領一段(反)につき一寸の長さを築くという

 もので、九州の各国はそれぞれの分担地区におもむき、文永の役の翌建治

 元(1276)年3月から8月までの約半年という短期間で防塁を完成させ、

 その後は分担地区の警備をつとめた。このように半年間という短い期間で

 築く必要から各国同時着工したと思われ、それぞれの地区によって築造の

 工法・構造が異なっていることが分かっている。


C各地に残る元寇防塁

 『福岡県』
今津元寇防塁 今山元寇防塁 今宿元寇防塁
生の松原
元寇防塁
姪浜(向浜地区)
元寇防塁
姪浜(脇地区)
元寇防塁
西新(百道)
元寇防塁
西新元寇防塁 地行元寇防塁
箱崎(地蔵
松原)元寇防塁
博多小学校
石塁遺構
西南学院大学内
元寇防塁

『長崎県』 『佐賀県』 『山口県』
逃の浦の石塁
(元寇防塁)
星賀海岸の
元寇防塁
長門の元寇防塁

D元寇防塁のその後


 弘安の役の後も元は日本征服をあきらめなかったため、鎌倉幕府も防衛

 体制をゆるめることができなかった。博多湾の元寇防塁はその後も増築・

 補修が続けられ、
鎌倉幕府滅亡後も建武政権、室町幕府によって修復が

 加えられた。元寇防塁である石築地が長年にわたって補修されたことは、

 正安4(1302)年8月28日付の薩摩国守護代・酒匂本性の覆勘状や延元3

 (1338)年閏7月付の足利直義が豊後の守護・大友貞宗に宛てた文書で

 確認できる。前者は薩摩国の御家人・延時成仏に宛てたもので、この時

 成仏は三丈二尺(約10m)の石築地を修理しており、同じ年の10月15日

 には、肥前国五島の住人・白魚行覚が姪浜に一尺七分(田地二町分)の

 石築地を構築して、肥前国守護代の平岡為政より覆勘状を受け取っている。

 他にも築城郡吉富村を本拠とした成富氏が、乾元2(1303)年に今宿地区の

 防塁の修理を完了したという古文書もある。また、後者は鎌倉幕府が滅亡

 したあとも石築地の修築が行われたことを示すもので、足利直義が大友

 貞宗に少弐頼直と協力して年内に補修を完成せよと命じている。同様の

 文書は康永元(1342)年5月3日付で、足利尊氏が大友氏泰に対して鎮西

 要害石築地の修固を命じたものもある。このように室町時代になっても元寇

 防塁の修理が行われ、蒙古に対する警備体制が続いていたが、1368年に

 元が滅びると元寇防塁もいつしか忘れ去られ、江戸時代の初めには砂の

 中に埋まってしまったと言われている。遺存状況は都市部では悪く、福岡・

 博多町民が建築材や日常に必要な石材として運び出したとされるほか、

 江戸時代の福岡城築城の際に、石垣の石として防塁の大半が失われたと

 考えられている。

前のページへ戻る

トップページへ戻る

このサイトの
管理員の詳しい
プロフィール

元寇史跡マップへ

『元寇防塁を訪ねる』