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墓 所 名 細川京兆家の墓
(三春藩城代・大老)
お墓の様子
所 在 地 福島県三春町荒町171(高乾院)

〜コ メ ン ト〜

細川京兆家の墓。細川氏は足利一族で南北朝時代に頼之が

三代将軍・足利義満の後見となり管領として幕政を主導。以後、

嫡家である京兆家は室町幕府の三管領家の一つとなり、摂津・

丹波・讃岐・土佐の守護を世襲、京兆家を中心に一族で阿波・

備中・淡路・和泉など9ヶ国の守護となり、幕府内で有力な

地位を占めた。しかしながら応仁の乱後、京兆家・庶家ともに

衰退した。最後の管領といわれる細川昭元は、将軍・足利義昭

から昭の諱を受け織田信長と戦ったが、後に投降して、信長の

妹お犬と結婚し、さらに信長から諱を授かり信良と名を改めたが

豊臣秀吉の時代になると、聚楽第に秀吉の悪口が落書きされた

事件で捕縛され、まもなく病死した。昭元とお犬の子は、長女が

秋田実季の正室円光院で、次女は加賀藩主・前田利常の正室

珠姫に仕え、長男元勝は豊臣秀頼に仕えたが、京都で亡くなり

京兆家は没落した。しかしながら、信長の妹の一人である

お市が、浅井長政との間に徳川秀忠の正室お江らを産み、

このお江の子である徳川家光と円光院と実季の子俊季は

又従兄弟という関係となった。秋田氏がこの由緒により外様

大名から譜代並大名へと格上げされると、元勝の子細川

義元は秋田家に迎えられた。その後、細川氏はいわゆる

家老である年寄衆より上席で別格の御両家として代々

荒木氏とともに城代あるいは大老を勤め明治維新を

迎えた。尚、義元の次男元明は分家を興し、本家と

並んで重職につき、桜谷細川と呼ばれた。

(※
桜谷細川家の墓は、本家の墓のすぐ隣にある)


※細川氏の系図についてはこちらをご参照下さい。

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