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墓 所 名 天草四郎時貞の墓
お墓の様子
所 在 地 長崎県南島原市南有馬町乙

〜コ メ ン ト〜

天草四郎時貞は小西行長の家臣、益田甚兵衛好次の

子で、本名は益田四郎時貞といい、洗礼名はジェロニモ

であるとかフランシスコなどといわれている。時貞は

比較的恵まれた幼少時代を送り、教養も高かったと

いわれ、一説には長崎へ行って勉強したともいわれて

いるが、詳細は不明である。時貞は島原の乱に際し、

若干15才という若さで一揆軍の総大将(但し、総大将

とは言うもののシンボル的な存在であり、実際に指揮を

執ったのは、父甚兵衛をはじめとする側近たちであった

といわれている)として幕府軍と対立し、3万7千人の

民衆を率いて88日間原城に籠城したが、圧倒的な

幕府軍の総攻撃により落城し、時貞は本丸で首を

切られ、長崎でさらし首にされた。この墓碑は西有馬町

にある民家の石垣の中にあったものを原城に移した

ものであるといい、表面に「○保○年 天草四郎

時○○ ○二月廿八○母」と書かれている。

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