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墓 所 名 諏訪頼重の墓
お墓の様子
所 在 地 長野県茅野市宮川

〜コ メ ン ト〜

諏訪頼重の墓。正慶2・元弘3(1333)年5月の新田義貞の

鎌倉攻めによって北条高時以下一門283人が自害し、

鎌倉幕府が滅亡した際に、あくまでも再挙を期した高時の

弟・泰家は高時の次男・亀寿丸(のちの時行)を諏訪

盛高に託して落ち延びさせ、亀寿丸(のちの時行)は

諏訪大社上社の大祝・諏訪頼重に匿われた。このことを

盛高に命じた泰家は鎌倉幕府と親密な関係にあった

西園寺公宗の許に身を寄せた。泰家は西園寺公宗・

諏訪頼重らと連絡を取り合い、各地の北条与党を

糾合して、一斉に蜂起して京都・鎌倉の両地を奪取する

北条氏再興の秘策を練った。しかしながら、直前の

建武2(1335)年6月に陰謀が発覚、公宗は捕らえられ、

泰家は逃亡した。信濃では公宗に通謀していた頼重が

その子・時継、滋野一族らと北条時行を擁して7月

14日に挙兵した。信濃守護・小笠原貞宗の軍勢を

撃破した時行軍は破竹の勢いで進撃、武蔵女影原・

小手指原・府中で足利軍を破った。当時鎌倉を守って

いた足利直義は自ら武蔵井出の沢に出陣したが

敗れたため、幽閉中の護良親王の殺害を命じて

鎌倉を出奔し、時行軍は7月25日に鎌倉を占拠した。

挙兵からわずか10日後のことであった。しかし、

時行の鎌倉占領は長くは続かなかった。直義の敗報を

受けた足利尊氏がただちに京都から大軍を率いて

下向してきたのである。これを迎え撃つ時行軍は

苦戦となり、各地で次々と撃破され、8月19日には

鎌倉を奪回された。諏訪頼重・時継以下43人は鎌倉

勝長寿院の大御堂で自害して果て、時行は遁走した。

この戦乱は「中先代の乱」と呼ばれている。北条氏を

「先代」、足利氏を「後代」とみて、その間の時行を

「中先代」と呼んだものである。また、時行軍が鎌倉を

占拠したのは20日余りだったため、「二十日先代の乱」

とも呼ばれている。尚、中先代の乱において若年の

時行は名目的な首将でしかなく、実際の指揮を執った

信濃勢の総大将は頼重とされるなど、頼重はまさに

中先代の乱の中心人物であったといえる。

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