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墓 所 名 北畠親房の墓
お墓の様子
所 在 地 奈良県室生村室生(室生寺)

〜コ メ ン ト〜

北畠親房の墓。親房は鎌倉後期から南北朝時代の公卿で万里

小路宣房、吉田定房とともに「後三房」と称された。後醍醐

天皇の信任が篤く、第二皇子である世良親王の養育を任されて

いたが、元徳2(1330)年の親王の早世より出家し、世俗から

離れた。建武政権が樹立すると再び政治の表舞台に立ち、

後醍醐天皇の皇子・義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて、

陸奥守に任じられた長男・顕家とともに奥州に下向、多賀城を

国府として東国経営に努めた。建武2(1335)年に足利尊氏が

鎌倉で建武政権に反旗を翻すと直ちに上京し、顕家が尊氏を

追撃して九州へと敗走させたのちも親房は京に残った。しかし

ながら、九州に逃れた尊氏が反転攻勢して東上し、これを

迎え討った楠木正成を自害させ(湊川の戦い)、光厳上皇を

奉じて京を奪うと、次男・顕信とともに伊勢へ下って抵抗の拠点

づくりに着手するも戦局は安定せず、逆に長男・顕家、新田

義貞らの戦死によって南朝の軍事的劣勢が明らかになった。

親房は起死回生を賭して東国における南朝の軍事力を再建

するために義良親王・宗良親王を奉じて顕信・結城宗広らと

ともに50余隻の船団を率いて伊勢を出帆したが、暴風にあって

船団は四散し、親房だけが目的の常陸に上陸することが

できた。常陸の霞ヶ浦に漂着した親房は神宮寺城、次いで

小田治久の小田城に入り、東国経営の拠点とした。神皇

正統記
はこの小田城で執筆したものという。親房が最も頼りに

していたのは結城宗広の嫡子である結城親朝で、親房から

親朝あての書簡は著名な「関城書」を含めて70通近くが現存

しているが、親朝は言を左右にして一向に動かなかった。

親房の書状によると、「武士はあくまでも公家に奉仕すべき

存在であり、高位高官に就くべきものではない。古来風儀を

墨守して高望みせず、重代弓箭之家として名誉を重んじ、

恥知らずなことをしないで公家に召し使われるべきだ」と

説いている。また、新恩給付を条件に寝返りを申し出てきた

武士に対して「降参の法は所領の半分、三分の一安堵が

古来風儀であり、本領安堵してやっただけでも有難いのに、

新恩を望むとはひとえに商人のごとき所存であり、弓箭の

恥辱だ」などといって却下したり、官途の昇進を望む武士を

過分の儀だといって認めなかったりしている。こうした現実的な

対応を怠り、観念的な世界を強要する親房の時代錯誤な

要望に東国武士が応じるわけがなく、親房は次第に孤立して

いった。これに対し北朝方では高師冬を派遣し、攻勢を強めた。

興国2(1341)年にはついに小田治久も北朝方に通じたので、

親房は小田城を去り、関宗祐の関城に逃れた。そしてこの城を

拠点として、下妻政泰が拠る大宝城と連携して、さらに2年間

抗戦をしたが、興国4(1343)年6月には結城親朝も北朝方に

降ってしまい、11月になると関城、大宝城ともに相次いで落城し、

親房の東国経営は完全に失敗して吉野への帰路についた。

吉野に帰還後はすでに死去していた後醍醐天皇に代わり、

まだ若い後村上天皇を補佐して南朝の中心人物となったが、

武士を公家の道具としてしかみない観念性は相変わらずで、

正平3(1348)の四條畷の合戦では南朝股肱の臣である

楠木正行を勝ち目のない死地へと出陣させた。楠木正行を

自害させた北朝方の高師直は勝ちに乗じて吉野に攻め込み、

吉野の朝廷は火を放たれて灰燼に帰し、後村上天皇以下、

南朝の首脳はさらに奥地の賀名生に逃れざるを得ない結果と

なった。もはや再起は不可能であると思われる壊滅的な被害を

受けた南朝方であったが、北朝方の足利尊氏、足利直義

兄弟の激しい確執から観応の擾乱と呼ばれる幕府を二分する

大規模な内紛が発生し、尊氏、直義がともに相手を倒す手段

として相前後して南朝方に降伏するという事態が発生した。

このため幕府が支えていた北朝方は南朝により接収される

ことになり、親房は京都に入り、後醍醐天皇時代の「元弘一統の

初め」に回帰する政策を次々と実施した。正平6(1351)11月7日

には北朝の崇光天皇および皇太子・直仁が廃され、観応という

北朝年号が停められ、南朝年号たる正平に統一された。また、

北朝が行った叙位・任官はすべて否認され、両朝分裂当時に

戻された。これを正平の一統といい、幕府の内部分裂に乗じて

南朝の一統および京都回復作戦など一連の工作を主導した

功により親房は准三宮となった。しかしながら、尊氏が直義を

殺害して所期の目的を達成すると、必然的に双方の和睦は

破綻し、親房は後村上天皇とともに賀名生に帰ることに

なったが、この際に親房は北朝方の三種の神器に加えて

光厳、光明、崇光の三上皇ならびに直仁親王を連れ去り、

北朝方の天皇空位という状況と皇位継承に関わる有資格者

不在という北朝および北朝に征夷大将軍に任命される幕府の

正統性を著しく弱める手を打っている。尚、賀名生に帰った

のちの親房の動静を記す史料はなく、これより2年後の正平9

(1354)年に没したとされている。尚、この五輪塔は大正5

(1916)年に確認のための発掘調査が行われ、五輪塔内部

からはていねいにつくられた木製五輪塔が発見された。さらに

この木製五輪塔の下2輪(地輪・水輪)の内部がくり抜かれ、

水晶製五輪塔が納入されていることもわかったという。また、

塔下からは納骨壺が見付かり、中に水飴状の液体と少量の

骨片のあることが確認された。結局、この調査では埋葬者を

確定することはできなかったが、墓の形式から考えても室町

時代初期を下らないものと評価されているという。

※親房の墓とされるものは西吉野の賀名生にもある。

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