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墓 所 名 赤松(円心)則村の墓
お墓の様子
所 在 地 京都府京都市東山区
小松町597(建仁寺久昌院)

〜コ メ ン ト〜

赤松則村(円心)の墓。円心は元弘の乱に際し、護良親王の

令旨を受けて山陽地方では最も早く宮方(南朝方)につき、

正慶2・元弘3(1333)年1月に苔縄城で挙兵した。以後は

護良親王方の最有力武力集団として山陽道を攻め上り、

足利高氏(尊氏)と共に六波羅を攻め落とすなどの大手柄を

立てた。鎌倉幕府の滅亡を受け、帰京の途についた後醍醐

天皇と福厳寺で対面した円心は「天下草創の功、偏に汝等

贔屓の忠戦による。恩賞は望みに任す」との言葉を賜った。

この功により建武政権より播磨国守護職に補せられたが、

建武政権内で護良親王が失脚すると、円心は播磨国

守護職を召し上げられ、強い不満を持つようになった。

そのため、建武2(1335)年に足利尊氏が建武政権に

反旗を翻すと円心もただちに応じた。翌建武3(1336)年に

一旦入京した尊氏が敗れて西走するとこれを兵庫に迎え

入れ、この時円心は尊氏に実に重要な献策をしている。

一つは「ひとまず西国に陣を移して戦備を整え、兵馬を

休ませてから再起を期すこと」で、もう一つは「大覚寺統の

後醍醐天皇に対し、持明院統の光厳上皇を味方につけ、

その院宣を賜って朝敵の汚名から逃れること」の二つで

あり、後醍醐天皇と足利尊氏の争いを皇統が二つに

分裂しているのを利用して、大覚寺統と持明院統の争いに

巧妙にすり替えたのである。南北朝の長い対立は円心の

この言葉によって引き起こされたといっても決して過言では

ない。その後、尊氏追討のため、新田義貞率いる大軍が

播磨国に侵攻してくると白旗城でこれを迎え撃った。この時

円心は義貞のもとに家臣を遣わせて「建武政権に叛いた

のは本心ではありません。もし今、播磨守護職の綸旨を

いただけるのならば、もとのごとく後醍醐天皇に忠節を

尽くしましょう」と申し出た。これは義貞を欺くための謀略で、

義貞が綸旨を得るのに約10日費やしている間に守りを

固め、「播磨守護職はすでに尊氏公より賜っている。手の

裏を返すような綸旨は信用できない」と言い放ち、尊氏

追討軍の進撃を阻んで、尊氏の再上洛を助けた。このように

円心は鎌倉幕府の滅亡と室町幕府の創設に大きく関わり、

足利尊氏を補佐して幕府の基礎固めに尽力し、終始幕府の

中枢にあって権勢を誇った。中でも、三管(管領=斯波

細川畠山)四職(侍所所司=赤松、一色山名、京極)

の要職に赤松氏を押し上げたのはひとえに円心の功績で

あるといえる。

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