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●コラム66 名草サイクリングの巻き●

足利名草の青面金剛

 足利市の北部、名草地区をサイクリングしました。

 名草は、周りを山に囲まれた細長い地形で、名草川に沿って集落が点在する山あいの地区。
 山里の風景を眺めながらの、のんびりサイクリングに適した場所で、好きなコースの一つです。

 今回は、名草地区にある庚申塔のうち、とくに青面金剛像を探しながら走ってきました。 

大坂の青面金剛。  今回の目的は、『足利の庚申塔』(田村允彦・星野光行著 随想社 2002年)に紹介されている名草地区の青面金剛像を見ることである。
 『足利の庚申塔』は、足利市全域の庚申塔を調査・研究し、その成果をまとめた本である。合計2,341基もの庚申塔が収められている。長い年月と多くの協力者を得て集成された労作である。
 造立時期や形態、刻まれた文字、地域分布などによる分析がなされ、珍しい庚申塔や特徴のある青面金剛像が詳しく紹介されている。
 さらに、旧町村をもとにした地域ごとの一覧表が所収される。所在地、塔形、彫像・銘文、寸法などが一表にまとめられ、この表は庚申塔観察をするのにとても便利で役に立つ。石仏好きにとっては非常にありがたいデータベースとなっている。(左写真は、大坂の青面金剛像)

名草地区の景観。小坂橋から南を望む。 さて、『足利の庚申塔』のなかで「名草地域の庚申塔一覧」に収めらている青面金剛像は全部で11基ある。うち1基は個人宅のものなので、これをのぞいた10基の青面金剛像を写真に収めるべく、名草に向けて自転車を走らせる。
 石仏は必ずしも県道わきにあるとは限らない。未舗装路や悪路を走ることも想定しMTBで行くことにした。私の古いMTBは自転車自体も重いのだが、今回は背負ったリュックに石仏本2冊が入り、さらに重くなった。
 ところで、なぜ足利市全域のうちで名草なのか?といえば、これまでに何度か自転車で走ったことがあり、単になじみがあったというだけのことである。
 名草地区は、名草川に沿った県道218号名草小俣線を中心に、その県道沿いに集落が点在する。東西と北を山に囲まれ、南側だけが開けている。

藤坂峠。 三方を山に囲まれた地形だけに山稜をはさんで隣接する地区をつなぐ峠道が幾筋か通じている。
 藤坂峠(北に松田、小俣へ通ず)と須花坂(東に旧田沼町下彦間に通ず)は、現在も県道として利用されている。他に田保坂峠(東に飛駒に通ず)や大坂(東に下彦間・閑馬に通ず)、西側の田島や月谷に通じる山道などがあったようである。(『足利の庚申塔』P312)
 いつものように松田から藤坂峠を越えて名草に下った。

金剛院跡の石仏群。  小坂、金剛院跡
 藤坂峠を下り、藤坂橋で名草川を渡ると、左手に厳島神社や名草の巨石群へ向かう道が分岐する。この分岐を過ぎて緩やかな坂を気持ちよく下る。
 「名草地域の庚申塔一覧」では、塔の所在地は名草川の上流域から下流域に向かって順に並んでいる。藤坂峠を下った後で最初に見る青面金剛像は、金剛院という寺院跡にあるはずなのだが、この寺院跡がよく分からず、だいぶ下流まで下ってしまった。

金剛院跡の青面金剛像。金剛院跡の青面金剛像。頭部。  行きつ戻りつしながら、それらしきお堂を見つけた。小坂橋という橋から細道を少し西側に入った山の麓に古びたお堂と数基の石仏が見えた。
 場所と佇まいから判断してそこが金剛院跡らしかった。お堂に続く細道は民家の軒先をかすめるようにして通じている。
 お堂のわきに、自然石の百庚申塔や首の落ちた地蔵像、台座から倒れてしまった如意輪観音などとともに青面金剛像があった。像容や銘文は風化が進行して判然としない。頭部には蛇がとぐろを巻いたような造形が見られた。
 『足利の庚申塔』によれば、造立は「元文五申年四月吉日」、「藤坂 小坂 坂本 勘定谷戸 講中三十八人」なる銘が刻まれている。

大橋付近の景観。北を見る。  大橋
 大橋という集落に名草地区でもっとも古い庚申塔があり、これも青面金剛像(延宝二年)だという。他に元禄期の青面金剛があるらしかったが、先の金剛院跡のものと同様にすぐには見つけられなかった。
 「大橋」というバス停はすぐに目に付いた。最初は県道西側の民家が立ち並ぶ辺りを探してみたが、見つからなかった。

大橋の庚申塔群。  『足利の庚申塔』に掲載されている地図(これが小さくて分かりづらい)をよく見ると、塔の所在地は名草川の左岸(東側)である。そこで県道から東に外れ名草川に架かる小さな橋(広木橋)を渡った。地図にしたがい川沿いの小道を南に進んでみた。すると、花火工場の門に突き当ってしまう。これは違うと思い引き返す。
 引き返す途中で道からやや落ちくぼんだ草むらに数基の石仏が並んでいるのを見つけた。「なんだ、こんなことろにあるのか」といった感じの場所である。

大橋、青面金剛。元禄十三年。大橋、青面金剛。延宝二年。  左の像が名草地区でもっとも古い青面金剛像(庚申塔のなかでも最古)で延宝二年(1674年)造立。右の像は、元禄十三年造立、写真には写っていないが、笠付きの塔である。
 とくに延宝二年の像は、像容の面でも珍しいという。頭部は帽子をかぶったような造形で、その中央にどくろを表した彫刻があり、これが人面にも猿の面にも見え、特異な例とのことである。また、像の右下に猿が一匹だけ彫られている点も珍しいそうである。

大橋の庚申塔。頭部にどくろの模様。大橋の庚申塔。一猿。  左写真は頭部の拡大。写真では分かりづらいが、どくろか人面のような模様が彫られている。
 右の写真は下部の拡大。青面金剛の足下に折り膝をして座る猿が彫られている。

 須花の庚申塔群
 須花坂は、足利名草と旧田沼町下彦間を結ぶ主要な峠道である。現在の県道208号飛駒足利線であり、峠付近には須花トンネルが通じている。名草小俣線と飛駒足利線との分岐には大正十一年造立の道しるべが残り、「右 新合飛駒方面 左 上名草松田方面」の文字がある。須花坂が旧来からの要路であったことを示すものといえよう。
須花庚申塔群で最大の文字塔。高さ192センチ。須花の庚申塔群。 この道しるべから200メートルほど田沼方面に進んだ左手(北側)の山すそに「須花の庚申塔群」がある。須花薬師堂の周囲の斜面に140基ほどの大小様々な庚申塔が点在している。「須花の庚申塔群」を見るのは今回が初めてである。山の斜面に数多くの庚申塔が立ち並ぶ光景はなかなか壮観であった。
 とくに目を引いたのは、写真右の庚申文字塔(寛政七年)で、庚申塔群の最上段中央に位置していた。とにかく巨大である。『足利の庚申塔』によれば、高さ194センチ、幅92センチで足利を代表する大きさとのことである。これほど大きな庚申塔は太田や桐生地域では、あまり目にしたことがない(私が見ていないだけかもしれないが)。

須花庚申塔群の青面金剛。須花庚申塔群の青面金剛。頭部。 140基の庚申塔のなかに、1基だけ青面金剛像がある。この像は小ぢんまりとしたもので、高さ50センチほど。顔の造形が宇宙人のようにも見え、どことなくユーモラスな風があった。
 庚申塔に象られる青面金剛像は六臂のものが多いが、この像は四臂である。年号は彫られていないが、造立者の名前と思われる「杉江藤吉」の文字は明瞭である。

宝禅寺、青面金剛。  廻り沢、宝禅寺
 「須花の庚申塔群」を見終わると、午後の3時を過ぎていた。これ以上続けると帰りが遅くなるため、これより南の地区は後日巡ることにした。須花坂より北の地区で、あと1基、宝禅寺という寺院にある像が見つけられずに残っていた。
 宝禅寺の場所がよく分からず、近くまで行って地元の人に訪ねる。教えられた通りに進むと、道の舗装は途切れ、うす暗い山中に分け入ってしまう。車も入れない細道である。「こんな奥にお寺があるのか」という疑念が頭をもたげ、夕刻も近くなって心細くなり、少々不安な心持ちがした。
 坂を登って高台に出る。小さなお堂があった。宝禅寺という名から大きな寺院を想像していたのだが、小堂があるだけの無住の寺であった。その堂よりさらに一段高い斜面、木立ちの間に墓地が見える。
 青面金剛像(元文二年)は難なく見つかった。笠付きの立派な像である。他に庚申の文字塔が2基あった。

 宝禅寺を後に県道に出る。来た道と同じく藤坂峠、松田を走って帰る。
 (走った日 12/9/15 総走行距離58キロ)
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