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●コラム58 根本沢の巻き●

根本山信仰の跡を辿る

 根本山信仰にかかわる石造物を探しながら根本沢を歩いてみました。

@ 根本山と根本山神社
下野国根本山神社境内図。 根本山の信仰に関しては、『山田郡誌』をはじめ種々の地誌書等に解説がある。とりわけ『桐生市史別巻』の「神社」編において多くのページが割かれている。『山田郡誌』には、根本山と根本山神社について以下のようにある。
「根本山は本郡及その接壌地域内に於ける最高峯にして、海抜一、一九七米、北は十二山より氷室山を以て足尾の諸山に、南は熊鷹、丸岩、野峯を以て栃木縣の諸山に連る。山嶺を行者山といふ。その下方約百米桐生川の渓谷に臨む岩頭に根本山神社を祀る、社域方四間許り側壁は硅岩の岩塊創立して鐵梯子鐵鎖の外登降至難なり」
(上図 「下野国根本山神社境内図」)


根本山神社奥の院。 根本山神社の歴史は古く、鎌倉末から室町期に桐生城の北の守りとして祀られていた山神が、その発祥であろうと伝えられている。(右写真 現在の根本山神社、奥の院)
 戦国末期の天正年間に天台宗派修験の霊場として開山され、別当として大正院が置かれた。大正院では、桐生とその周辺地域の住民を信徒にして修験者による活動が展開されたという。
 根本山信仰の最盛期は、江戸後期の文政年間から安政年間にかけての時期である。根本山神社の信仰者が桐生川の流域を中心に増え始め、その信仰が徐々に浸透し広まりを見せたのは、天明年間から文化年間の初め頃とされている。その後、文政・天保期にかけて根本山信仰は関東一円に拡大し、各地に講が組織された。
 最盛期は、江戸開帳が計画された安政7年(万延元年、改元月は3月)の頃で、根本山参詣の道中案内書である『根本山参詣ひとり案内』が刊行されたのは、安政6年である。(青木裕偏『根本山参詣ひとり案内』みやま文庫 P80〜85)
 開帳とは、寺社が秘蔵する神仏を公開し、他所の人々に広く礼拝させるための行事であって、根本山神の開帳が江戸市中において計画されたということは、この時期における根本山信仰が隆盛を誇り、講社の組織力や影響力が強大であったことを示すものである。
 なお、この時の江戸開帳は、領主井伊直弼(当時、根本山神社の社地は彦根藩の領地であった)が桜田門外の変で暗殺されたために中止となった。
 また、井伊直弼は、天保2年に将軍家慶(12代)の側室が病気になった際、大正院九世の永良を江戸城に呼び病気治癒の祈祷をさせたという話が伝わる。
 明治以後は、神社の社地も、その信仰も縮小したが、興味深い話としては、根本山では博打が盛んに行われたということがある。『桐生市梅田町の民俗』P5には
・八十八夜の前日には東京から列をなして通った。
・博打を打ちに来る者に、「バクチ餅」「チョウハン餅」を売りに行った。
・博打打ちによる賽銭が叺(かます)で運ぶほどあった。
などの聞き取り事例が紹介されている。
 同書P49には
「梅田もヤマチの道の栄えたのは根本さんの信仰があったことで、チョウハンが禁止になるまでは大ぜいの人が登って行った」とある。
 また、P77に
「昔日には十二山は原っぱであるのでバクチが行われた」とある。

A 『根本山参詣ひとり案内』
 『根本山参詣ひとり案内』という書物は、江戸から根本山へ参詣に行く際に利用された道中案内書で、いまでいう旅行ガイドブックのような体裁の書物である。
 江戸から根本山に行くには、中山道を熊谷宿まで下り、熊谷宿より妻沼、太田を経て、桐生新町に入り、桐生新町からは桐生川に沿って北上し根本山神社に至る。同書では、この根本山参詣の行程が示され、各宿場間の里程(距離)が記されている。同書の目的は、各宿場における宿泊所や休憩所、飲食店などの提示であり、これらの店先の絵図が簡単な紹介文とともに並べられている。
 『根本山参詣ひとり案内』は、根本山参詣に行く人々の旅の便宜を図る目的で編集された冊子であり、信者や講社の人々が参詣の旅の際に利用したものである。
 『根本山参詣ひとり案内』に所収された絵図から江戸後期の宿場の様子を垣間見ることができる。とくに、当時、桐生新町から根本山までの街道筋にあった旅籠屋や店舗などが細かに描かれており、また、最盛期の根本山神社の全体図(「根本山御山惣絵図面之写」下図)もあって、とても興味を引かれる。
根本山御山惣絵図面之写。 現在の根本山神社は、根本沢の源頭上部の岩稜に木造の社殿と鐘楼が建ち、さらにその上部の岩場に奥宮の石祠があるのみだが、最盛期の神社境内には、山稜と谷が入り組む地形を利用して、社殿や鳥居をはじめ多くのお堂や石段などが巧みに配置されていたようだ。いまは、わずかに残る石段や苔むした燈籠、石塔、鉄梯子などから当時の姿をしのぶ他はない。
根本山御山惣絵図面之写。 「下野国根本山神社境内図」に記された当時の建物等の名称を、絵図に重ねて表示してみた。
 御本社、ツリガネ堂(釣鐘堂)、奥の院、コモリダウ(籠り堂)、女人ダウ(女人堂)、行バ(行場)などの文字が見える。
 図左下には道しるべが描かれ「是ヨリ日光へ十一リ」とある。「是ヨリ日光へ」とは、どのような経路を指しているのだろう。当時の人々の間では、根本山から尾根伝いに日光まで歩くということも普通に行われていたのであろうか。
 絵図だけを見ると、かなり大規模な神社があったように見受けられるが、狭く急峻な根本沢の地形を鑑みるに、間口の広い木造建築物の建造が可能であったとは到底考えられず、絵図中で最も大きく描かれている籠り堂でさえ、実際は、小庵程度の規模だったのではないか。

B 『ひとり案内』にみる根本道
 『根本山参詣ひとり案内』に所収された絵図のうち、桐生天満宮以北を描いた絵図を見ながら、当時の根本道の様子を垣間見たい。
「三峯山道」の道しるべ。湯沢観音橋。 湯沢観音橋を描いたもの。「小休 青木政兵衛」とある。中央に描かれた橋が当時の観音橋で、その下を流れる川が桐生川ということになる。
 旅人二人が立つ左手に道しるべがあり、「右根本山道 左三峯山道」とある。いまも、ほぼ同じ場所に「三峯山道」と彫られた文政九年の石塔(上写真)が現存する。石塔の側面には「根本山迄四里半余」の文字がある。


高沢入口。 高沢入口(左)と同所(湯沢)名物根本煎餅(右)の図。
 高沢入口は「休 川嶋屋すみ」の店があり、湯沢には「根本せんべい」を売る「永橋堂」という店があったようだ。根本山の名物(?)としてせんべいが売られていたらしい。
 高沢の「川嶋屋」の奥には、寺院の絵が描かれ、「セイウンジ」の文字がある。説明文には「是より右 浅部村 青雲寺行基菩薩の御作 太子堂へ一丁通りぬけなり」とある。


二渡 白幣宮の一の鳥居。 二タ渡り(左)と二タ渡り 白幣宮一の鳥居(右)の図。
 「前原徳右衛門」の休み処と「湯元清兵衛」が描かれる。「湯元清兵衛」は忍山温泉にあった温泉宿であろう。白幣宮とは残馬山神社のことである。(※『桐生市史別巻』P339、「残馬山神社」の項に「根本山神社は古く梅田町今倉の里宮(大正院)を中心に、北に根本山これを黒幣山と称し、東に上飛駒村町谷の青幣山(城址)、南に赤幣山の赤なぎ、西に白幣山の残馬山神社をおき、修験の霊場としたという」とある) 当時は、忍山入口に残馬山神社の一の鳥居があったことが分かる。
 図中の道しるべには「右根本山道 左湯元ミち」とある。図上の説明には「白幣宮一の鳥居あり 山ミち廿丁行 忍山温泉湯元清兵衛宅」とある。


山地村。 山地村の休み処2軒が描かれている。
 左は「園田屋岩吉」の店で、右は「ゑびす屋栄助」の店である。
 「ゑびす屋」前の道しるべには「右 佐野道 左 根本山道」とある。「右 佐野道」とあるので、現在の梅田湖付近にあった店だろうか。
 「園田屋」の看板には「御酒肴」とあり、店の横には、大きな石燈籠が描かれている。


大正院入口の道しるべ。山地村、根本山。 根本山 本坊入口(左)と山地村 大正院入口(右)の図。
 「本坊入口」の図には「上州山田郡より下野安蘇郡への国境の橋なり」という説明文がある。描かれる川が桐生川で、橋の手前が山田郡、橋の向こう側が安蘇郡ということだろうか。とすれば、図の奥側に大正院があるということになる。図中の道しるべには「是ヨリ左根本山 二里二七丁」とある。
 右は「藤屋亀司」の店である。店先の道しるべには「大正院入口 是ヨリ二里廿七丁」とある。これと同じ内容の文字を刻んだ道しるべ(上写真。正面に「二里廿七丁」、向かって右側面に「大正院入口 根本エ通り…」、左側面に「天保三 壬辰年」の文字が読める)は、いまも梅田湖の右岸、県道沿いの路傍に現存している。
大正院。大正院。 根本山本坊 大正院の図。
 梅田ダムが建設される以前に今倉(桐生川左岸)にあった根本山里宮である。
 『根本山参詣ひとり案内』の解説によれば、図の中央に描かれている坊に、根本山に参詣に訪れた人々が宿泊したという。
 写真は、今倉にあった根本山神社里宮の様子(『桐生市梅田町の民俗』P82)
 撮影年代は明記されていないが、『桐生市梅田町の民俗』の発行が昭和45年なので、昭和3、40年代頃のものと思われる。現在は移転しているので、この写真は貴重かと思う。
 同書によれば、写真の手洗いには「武州中山道 上尾宿」「天保二卯年」などの銘があるという。


津久原、根本山御本社一の鳥居。 津久原(左)と根本山御本社一の鳥居(右)の図。
 津久原の休み処は「橋本屋長次郎」の店。店先の看板に「寿し」とある。この店が根本参詣道で最奥の店である。
 右は、根本山神社一の鳥居を描いたもの。現存しないので、どの辺りにあったのか不明だが、大正院から津久原までの間に根本山神社一の鳥居が置かれていたようだ。
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