@ 高山彦九郎「沢入道能記」と「寝釈迦のみち」歩き
「沢入道能記(そうりみちのき)」は、彦九郎36歳の天明2(1782)年4月に、現在のみどり市東町沢入を訪れたときの旅日記である。
沢入の白蛇塔(現在は相輪塔と呼ばれる)は、自然にできた奇岩として当時からその存在が知られていた。
天明2年4月7日、彦九郎は太田宿から大間々に出て、足尾銅山街道を歩いて沢入宿に向かった。沢入で一泊し、翌8日に案内の者を頼み、塔ノ沢を遡り白蛇塔を見物した。「沢入道能記」には、この旅の様子が詳細に再現されている。
日記には、天明期における銅山街道沿いの宿場の状況や沢入宿から相輪塔までの道中の様子、当時広まっていた相輪塔に関する言い伝えなども事細かに記述され、その記述から当時をうかがい知ることができる。
私は、11月23日に、袈裟丸山塔ノ沢登山口から塔ノ沢を歩いて寝釈迦と相輪塔を見物し、そこから賽ノ河原まで足を伸ばした。賽ノ河原で昼食を摂り、同じ道を登山口まで戻った。
帰宅後に「沢入道能記」を読んだ。すると、塔ノ沢の様子や相輪塔および寝釈迦のことがかなり細かに記述されていることが分かった。自分が歩き見てきたばかりでもあり、230年近くの昔に、彦九郎が同じ場所を歩き、同じ景色を見ていたということが感慨深く感じられた。また、当時を知り、現在の状況との比較ができるという意味でも興味深く面白く思えた。
そこで、「沢入道能記」中の記述を引きながら、過日の沢歩きを思い起こし「寝釈迦のみち」の印象などを記してみたい。
A 「沢入道能記」の概要
参考までに「沢入道能記」に書かれるあらましを示しておきたい。
天明二年四月六日の日記。沢入の自然塔(相輪塔のこと)を見に行くことになったいきさつが書かれる。太田の橋本氏の家に行き、もてなしを受ける。酒宴の際、彦九郎が沢入の自然塔を見たいと言うと、橋本道乗に自分も見たいので連れて行ってくれと頼まれる。翌日に沢入へ行くことになり、その夜は橋本家に泊まる。
四月七日。道乗とともに橋本家を発つ。太田宿から大嶋(大島)、鳥山、二郎右衛門橋(治良門橋)、成り塚(成塚)、藪塚、浅美(阿左美)を経て岩宿を過ぎる。雨沼新田(天沼)から大間々に至る。桐原から日光坂の峠を越えて神梅村へ。深沢本宿、城下を通って沼田街道に至り、水沼、荻原を経て花輪宿に到着する。花輪で休憩する。
花輪宿については「南北につつき(続き)たる町なり」「大間々より三里半といふ、塩原通にてわたらせ川をわたりちかしといふ」とある。「塩原通」とは、塩原村、塩沢村(現みどり市大間々町)を抜けて荒神山の西の鞍部(塩沢峠)を通る道のことだろう。「塩原通りで渡良瀬川を渡ると近い」とあることから塩沢峠が銅山街道のバイパス的な道として利用されていたことが分かる。
花輪を出て中野などを通り、神戸に至る。神戸に着く前、山間で鉄砲の音が多く聞こえたと書いている。神戸については「此所町並にて花輪より一里十丁の所也、泊屋あり馬次にはあらず」とある。当時の神戸は、町並みが続き宿屋もあったことが分かる。神戸の酒店で休む。ここで、花輪より先は「清みたる酒なくミな濁酒なり」(清酒は無く、どぶろくである)と書いているところが面白い。おおよそ九盃飲んだ、とある。彦九郎日記には酒を飲む場面がけっこう多い。
神戸から大草木村を経て、日暮れ頃に沢入宿に到着する。問屋の松島氏に宿を紹介してもらう。沢入宿について「二十四五軒の町也、足尾より二里半の馬借也、日光へ八里半とぞ、花輪より沢入迄三里半艮(うしとら 北東)に来る」と書いている。また、草木と沢入の間の様子について「草木より沢入へ入らんとしてもり(森)のしんしん(森々、深深?)たるを経る」とあり、山深い場所であったことが知れる。この辺りは、いまでは草木湖の湖底に沈んでいるのだろう。
宿の主人に白蛇塔のことを聞くと次のような言い伝えを語った。婦人を塔へ参詣させようと行者が月経のない婦女子らを連れて行ったら無事に戻れた。その後、多くの婦女子を参詣させたところ空が曇り、氷が降ったので、以後、婦女子の参詣はなされなくなった。
四月八日。案内人を頼み、宿の子供を連れて白蛇塔へ行く。半里ほど行くと「いぼ沢」という沢があった。この沢を渡ると右に五間くらいの大石があった。前はこの場所に白蛇塔があったが、飛んで行っていまの場所に移った、という話が伝わる。
さらに半里で不動滝という滝があった。石の不動像がある。そこから北に一里半で白蛇塔に着く。白蛇塔のある場所は「山の中腹にあり実に深山幽谷の地なり」と記している。白蛇塔は沢入宿より北西に二里ほどで遠い、ともある。白蛇塔の名称に関して「此辺に白蛇住めばとて白蛇塔と号し又そう輪塔ともいひ又沢入に在はとて沢入塔共いふなん、此沢を塔の沢といふ」(この辺に白蛇が住むので、白蛇塔と呼ぶ。また、相輪塔とも言う。また、沢入に在るので沢入塔とも言う)と書いている。昔から沢入の山中に屹立する奇岩の塔が相輪塔と呼ばれ、そこに至る沢の名もいまと変わらぬ「塔の沢」であったことが分かる。
沢を渡り岩山の上にある寝釈迦を拝す。道を戻り日中になって沢入の宿に帰った。この後は渡良瀬川沿いに草木、神戸、花輪と歩く。花輪で赤城参詣から帰る人々に多く出会った。しかし、白蛇塔に行く者は少なく、塔の沢から沢入宿まであまり人に会わなかった。神梅で日が暮れた。桐原の知人宅(深沢氏)で風呂に入り、酒のもてなしを受ける。その晩は、深沢家に泊まる。
四月九日。深沢氏に縮緬を織る道具を見せてもらい、太田に帰る。太田に着いたのは「八ツ半」(3時頃)であった。その後、太田で寄り道をして暮れに細谷の高山家に戻った。
※参考 「沢入道能記」(『高山彦九郎日記 第二巻(日記編)』 千々和實 萩原進 編 西北出版 1978年)、「群馬県内の旅日記 『沢入道能記』」(『王政復古の先駆者 高山彦九郎』 萩原進 群馬出版センター 1993年)、「旅と旅日記」(『明治維新の先導者 高山彦九郎』 正田喜久 みやま文庫 2007年)