@ 石切場とは
菅塩の石切場跡を歩いた。だが、石切場に関する解説板などは設置されておらず、石切場についての説明がまったくない。遊歩道の案内図に「石切場1」「石切場2」と表示されているだけだ。「石切場」と言われても何のことだか分からない。これは、少し不親切ではないか。
石切場とは何か。要は、石材の採掘場所である。コンクリートやブロックが普及する前の時代には、建築物の土台やかまどに石が使われていた。このための石材を掘って切り出していた場所が石切場である。
藪塚の滝之入地区、藪塚温泉の北側の場所に大規模な採石場があった。このあたりで「石切場」と言えば、普通はこの場所を指す。石の切り出しが行われていたのは、明治の終わり頃から戦前までである。最盛期は、大正の頃という。
この採石場から産出された石材を「藪塚石」という。大谷石に似ているらしい。凝灰質の堆積岩で、柔らかい。水には弱いが、火に強いという性質があるそうだ。
藪塚石切場の入口には、解説板がある。石切場の歴史や藪塚石の性質などが簡潔に説明されている。現地に行ってこの解説板を読むか、解説板の文章を載せているサイトもあるので、これらを読むなどすれば、藪塚石と石切場のことは、だいたい分かる。とすれば、以下に書くことは、まったくの蛇足とも思えるのだが、まあ、お付き合い下さい。
藪塚の石切場については、すずきさんのブログをお勧めします。写真が豊富で、きれいです。(石切場そのものは、きれいな場所とは言えません。が、見方によっては美しい場所かもしれません。)
菅塩の石切場については、こちらです。
A 「藪塚石材之碑」について
藪塚駅から藪塚温泉に向かい、温泉街(というほど大きくも賑やかでもないが)の入口にさしかかる。すると、左手に、雑木の茂る小丘がある。藪塚温泉の、縦長の大きな看板が丘の上に立ち、よく目立っている。この小さな丘は、古墳である。西山古墳という。この古墳の一角に、石碑が建てられている。「藪塚石材之碑」である。
碑には、石切場と、藪塚石を運んだ鉄道の歴史が刻まれている。この鉄道は、現在の東武桐生線である。藪塚石の碑に、鉄道の歴史が刻まれているのは、碑の文案を作ったのが鉄道会社の社長でもあった葉住利蔵ということもあるが、藪塚石と桐生線には、密接な関連があったためである。それは、もともと桐生線は藪塚石を運ぶ目的で敷設された鉄道であり、東武鉄道が太田まで開通し、太田−藪塚間に石材運搬専用軌道が建設されたことによって、藪塚石の販路が拡大し、石切場が活況を呈するようになったという歴史的な経緯があるからである。
碑が建てられたのは、大正10年12月である。篆額(てんがく 石碑の上部に篆書−漢字の書体の名−で記した文字)は渋沢栄一、撰文は葉住利蔵、書は高野野光である。
渋沢栄一は、深谷市出身の実業家である。経歴などについては、詳しいサイトがたくさんあるとは思うが、手持ちの日本史辞典(角川)から簡単に書いておく。
天保11年の生まれ、尊攘運動に加わり、その後、一橋家および幕府に仕える。維新後、大蔵省に出仕。退職後、実業界に。第一国立銀行、王子製紙など近代企業の確立に尽くす。名を連ねた会社は500に及ぶという。昭和6年没とあるから、この碑の建立にかかわったのは、死の10年ほど前ということになる。この時は、実業界は引退しており、財界の顧問格の立場にあったようだ。(『藪塚本町誌』)
葉住利蔵は、太田市出身の実業家である。太田の近代化に貢献した人物として、中島知久平らとともに有名である。
慶応2年の生まれ。金融、電気、鉄道、政治、教育文化など多方面で活躍した。明治31年、新田銀行(現群馬銀行)を設立、明治43年、利根発電(後に東電に合併)を創立。鉄道事業では、藪塚石材軌道株式会社(後に太田軽便鉄道、東武桐生線)を創業、東武鉄道が足利から太田まで延長するに際し誘致をおこなった。ほかに、県議、衆議院議員もつとめた。太田中(現太田高)を誘致し、金山図書館を設立したのも葉住である。(『太田市史』、『まんが太田の歴史』)
高野野光は笠懸村の村長であった。
B 「藪塚石材之碑」に書かれること
では、「藪塚石材之碑」には何が書かれているのか。その内容を記す。原文は漢文。以下は要約である。
「群馬県新田郡の藪塚および強戸から産出する石材は、水成岩で凝灰質である。価格は安く、寒さや熱に耐えうる。建築材や鉄道、港湾などの基礎に用いられる。往時より採掘がなされたが、規模は小さく、近隣の村々の需要を満たすに過ぎなかった。
明治36年に、資本金一万円で藪塚石材株式会社が創立された。採掘や販売に努力したが、運輸が不便で、石材の搬出が困難であった。
明治42年、太田に東武鉄道が開通した。資本金六万円で藪塚石材軌道株式会社が創立され、太田藪塚間に専用軌道が敷設された。これにより販路は、埼玉、東京方面に拡大した。
また、太田相老間にも鉄道の延長敷設を願い出て、大正元年に許可を得た。社名を太田軽便鉄道株式会社に改称した。後に、東武鉄道に権利を譲渡した。大正2年3月、太田相老間が竣工した。
交通の便は、飛躍的に向上した。しだいに、石材の採掘に従事する者は増え、産出量も増加した。販路は、東京、神奈川、千葉、茨城、埼玉、栃木、長野の諸県に拡大した。藪塚石の名は広まり、働く者は常時数百名を数えたが、それでも社会の需要を満たすには足りないほどであった。」
碑文により藪塚石と、それに関連して伸長した鉄道の歴史を知ることができる。碑文にないことを以下に補足しておく。
碑に、明治42年に藪塚石材軌道株式会社が創立された、とある。設立したのは、当時、衆議院議員であった葉住利蔵である。設立は、同年7月20日。石材輸送の確立が急がれたため、会社設立後、鉄路敷設工事は、急ピッチで進められた。そして、鉄道省の認可を待たずに開業した。
路線の相老延長と、社名変更については以下の通りである。
明治44年10月1日、藪塚石材軌道は、社名を太田軽便鉄道に改称する。翌年に相老までの路線延長に加え、蒸気機関車導入の認可を受ける。ところが、資金難のため、大正元年11月29日、社長が葉住利蔵から東武鉄道の吉野伝治に代わる。東武鉄道の援助のもとで、工事が進められ、大正2年3月19日に太田−相老間が開通した。また、太田軽便鉄道は、石材部門が太田石材株式会社に、鉄道部門が東武鉄道に買収された。これで、太田−相生間を結ぶ鉄路は、東武桐生線となった。(「群馬の鉄道 歴史と現状 東武鉄道桐生線」大島登志彦 1992年5月16日付け上毛新聞)
C 石切場の民俗
石切場における採掘の実態と、そこで働いた人々の風俗などについて、『藪塚本町誌』の民俗のページに解説があるので、興味を引かれた点をいくつか拾っておこう。
石を切り出す権利を持った者を「元締め」と称したらしい。明治36年創立の藪塚石材株式会社は、これら元締め諸氏が集まって設立されたようだ。石碑には、「明治三十六奉同志相謀以資本金壱萬圓創立藪塚石材株式会社」(「明治36年、同志、あい謀り奉り、資本金一万円をもって、藪塚石材株式会社を創立」と読むのか?)とある。元締めの下で、職人を使う親方を「山先」といった。山先は、伊豆や愛知の人が多く、大谷で石切りの経験を積んだ者が多かったという。また、職人も栃木出身の人が多く、大谷で石切り仕事をやった後で、藪塚に来ていた。地元の人のなかにも、大谷で修業をしてから職人になる人がいた。
石の切り出しには、様々な形状のつるはしを用いた。石の長さは、3尺と決められ、幅と厚さの組み合わせにより、商品のヴァリエーションがあった。
職人の手間賃は高く、普通の土木作業の倍くらい(農家の日傭取りが30銭、土木作業が50銭の時に、石切りは1円20〜30銭ほど)で、羽振りがよかったらしい。「石屋様かい神様かい、天皇陛下のおじさんかい」とうたわれ、「仕事が嫌いな女は石屋のかみさんになれ」と言われたという。
石切り職人は、ばくち、芸者遊びなどをした。石切場の穴の中や古墳の石室の中で、隠れてばくちを打ったという話が伝わる。けんかや金銭をめぐるトラブルも多く、手取りが多い反面、仕事の性格上、おそらくは事故も多く、危険な職場だったと思われ、鉱山仕事などと同様に、いくぶん荒っぽい側面が強かったのではないか、ということが想像される。
石材は、馬車で運搬した。当初は、馬車で熊谷あたりまで行ったというが、鉄道が開通してからは、東武線で浅草に出荷された。石切場から藪塚駅までは、トロッコの線路が敷かれ、馬でトロッコを引いたようだ。このように石材運搬の仕事もあったが、石切り職人と比べると、重労働のわりに稼ぎは少なかったという。藪塚の石切場から駅までは、そう遠くはないが、菅塩や北金井からでは、ずいぶんと距離がある。強戸あたりの石切場からの運搬は大変だったろう、と思う。
(記 10/06/26)