@ 寄日の、観音および勢至菩薩石像

まず、これら二体は何の石仏だろうか。向かって右側のもの(写真右)は、その姿形から勢至菩薩と考える。左側のもの(写真左)は、ハスのつぼみを左手に持つところから一見して聖観音の坐像かと思った。だが、右手に何かを抱える点が聖観音像と異なる。また、一般に聖観音像は立像である。左手にハスのつぼみを持ち、右手は手のひらを前方に向けて下に降ろしている姿が多い。
この寄日の観音は何を抱えているのだろうか。見ようによっては赤子のように見える。石仏に関するウェブサイト(「庶民信仰のこころ 『石 仏』」)を開設する方に訪ねたところ、子安観音ではないかという見解をいただいた。子安観音は「安産や幼児の成長を守護するという観音様で、子供を抱く姿で彫られる」という。また「子安講という、安産祈願のために、婦人が集まって子安神を祭る信心講」があり、「観音経信者の子安講の人々が建てた石仏」であろうとのことである。
A 観音信仰と「普門品供養塔」
これら勢至菩薩、子安観音の二体の石像は、広く言えば観音信仰に基づくものであろう。観音信仰とは、いわゆる「観音さま」に対する信仰である。辞典には「仏教の諸菩薩のうちの一つ、現世・来世利益のほとけとして信仰されてきた観世音菩薩、観音に対する信仰」(『日本民俗大辞典』の「観音信仰」門馬幸夫による)とある。
この信仰は、通称『観音経』とよばれる「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」(みょうほうれんげきょう かんぜおんぼさつ ふもんぼん)の教説に基づく。「観世音菩薩」の名を一心に念ずれば、難を逃れ、利益が得られると説く。これに来世信仰、浄土教信仰が加わり、観音信仰は現世の利益とともに来世救済の信仰へと変化していった。
この寄日の石仏には側面に「普門品供養」と刻まれている。複数のウェブサイトによれば、災厄を除き、福を招くため、村人が「普門品」を念じ、これを記して建立されるものに「普門品供養塔」がある。村全体の安泰を願って建てられるという。この寄日の石仏は「普門品供養塔」とは異なるだろうが、観音経を信仰する村人の講によるものであり、村の除災厄と招福を願うという点で石仏造立の根底にある村人の心意としては共通のものがあろう。
B 天明の大飢饉
それでは、当時の山地、入彦間の村民が勢至菩薩や観音の像を建立し、取り除こうとした災厄とは何か。あるいは供養しようとした「諸亡霊」とは、どういった原因で亡くなった人の霊なのか。
建立されたのは天明7(1787)年の1月である。よって災厄は前年の天明6(1786)年以前に起こったものであろう。天明年間(1781〜1788)には自然災害が頻発し、その影響により深刻な飢饉が各地を襲った。いわゆる「天明の大飢饉」である。群馬県では天明3(1783)年に浅間山の噴火があり、冷害と複合的に作用して大飢饉が発生した。山間部ほどその被害が大きかったという。
高山彦九郎の『北上旅中日記』に沼田地域における飢饉の様子が記述されている。同日記は彦九郎が利根郡大原村(沼田市利根大原)に住む友人、金子照泰を訪ねた際の日記である。天明5(1785)年7月13日から同18日までの記録である。日記中には利根郡片品川流域での飢饉の深刻さについて以下のようにある。
・樫山村(桐生市黒保根町)では葛を掘って命をつないだ。ふすま(小麦を粉にひいたあとの皮のくず)を食べた。
・根利村(沼田市利根町根利)では餓死した者があり、他所へ越した者が多く空家が目立つ。
・沼田山中では餓死者のない村はなく、土出村、越本村(利根郡片品村)では3歳以下の多くの子供を川に流した。12、3歳の子を流した者もいる。
・大原村では餓死者はないが、毎年7、8人の子供が生まれるところ去年(天明4年)は2人しか生まれなかった。
・根利村では死者は7、80人で餓死者は4、50人とも60人とも言われる。
桐生地域において飢饉による餓死者が出たという史料は見ていないが、根利村などと地勢的な条件が似ている桐生の山村でも、類似の状況であったことが推察される。このことから勢至菩薩や観音の石像建立により取り除こうとした災厄とは、当時頻発した自然災害や凶作、それらが引き起こした飢饉や生活難であり、供養しようとした「諸亡霊」とは飢饉による犠牲者ではないか。観音像が赤子を抱く「子安観音」であることは、乳幼児の犠牲者が多かったからではないか。それに加えて、今後新たに子供が生まれることによる将来的な村の繁栄への願いも込められていた。とりあえず、このような推測が成り立つ。
C 天明6年という年
さらに付け加えたい点がある。高山彦九郎の『北上旅中日記』は天明5年に書かれたものであり、天明4年の状況が記されている。では、寄日の観音像が建立された前年の天明6(1786)年とはどんな年であったのか。
同年は例年になく水害が多かった年である。7月に関東・信濃などで大雨洪水があり、9月は全国的な風水害、10月には再び関東で洪水があった。桐生地域では7月14日から大雨となり、15、16日と大洪水に見舞われた。その後も雨天続きで、秋の収穫は不作であった。
これにより米、麦などの食料品を始めとして諸物価が高騰した。翌年(天明7年)の1月になると、米価はさらに暴騰したという。
D 桐生新町打こわし事件
このような状況下において、天明7(1787)年1月25日午前2時ごろ、桐生入彦間・山地・二渡・浅部地域の百姓3〜400人が一団となって桐生新町に乱入し、穀商、酒商など複数の商家を打ちこわし、金品を強奪するという事件が起こった。この事件で22人の村民が逮捕され処刑された。なお、『桐生市史 中巻』本文には「処刑された」とあるが、収録された史料(『上菱村星野氏日記』の「打毀詳細記」)には「牢死」とある。
事件の背景は明らかである。天明元(1781)年以来続く自然災害と天候不順、これらによる凶作、それに連鎖する諸物価高騰や生活難、さらには飢饉、これらが複合した形での社会不安などがある。直接的な契機は前年夏秋の水害・凶作とそれによる物価の高騰だろう。
この事件が起こったのは、寄日の観音および勢至菩薩石像に刻まれる「天明七丁未年 正月二十五日」と同日である。石像側面には「山地 入彦間両村 講中」とあり、山地・入彦間村の村民によって建てられたものであることがわかる。石仏に刻まれた日付と同日に、刻まれた村域の村民らが打ちこわし事件を起こしている。これは果たして偶然だろうか。
『観音経』「普門品」を念じるのは、目の前にある災厄を除外し厄難を逃れ、将来の益や福を招き引き寄せるためである。経を唱えた後に供養塔を建てる。これに対して現実の災厄を除外する実際的な行為として、山地や入彦間の村民が選択せざるをえなかったのが打ちこわしであったのだろう。
もちろん、石仏の建立と打ちこわし事件との直接的な結び付きを証明するものはないが、日付と場所の一致から何らかの関連があるものと推測するのも突飛な発想ではないだろう。
よって、寄日の観音および勢至菩薩石像は、この桐生新町打こわし事件の碑とも考えられる。
峠歩きの途中に偶然見かけた石仏によって以上のような想像をめぐらせてみた。
※参考文献
『群馬県史 通史編6近世3』(群馬県 1992年)
『桐生市史 中巻』(桐生市 1959年)
『菱の郷土史』(菱町郷土史編纂委員会 1970年)
『高山彦九郎日記 第1巻』(千々和實 萩原進 編 西北出版 1978年)
『日本民俗大辞典』(吉川弘文館 1999年)より「観音信仰」(門馬幸夫)の項
『国史大辞典』(吉川弘文館 1989年)より「観音信仰」(中村康隆)の項
『日本民俗学概論』(吉川弘文館 1983年)より「寺と仏」(星野英紀)
『野仏の見方』(外山晴彦ほか 小学館 2003年)
※参考HP
「狭山市の石仏
経典供養塔 普門品読誦供養塔」(『狭山市公式ホームページ』内)
「普門品供養塔」(『神社・野仏ウォッチングのすすめ』内)
「庶民信仰のこころ 『石 仏』
」