電撃! 激坂調査隊が行く

トップページ>コラムもくじ>コラム46 1>コラム46 2

●コラム46 寄日峠の巻き●

忍山から寄日への道

 忍山の奥、大茂(だいもん)から忍山川左岸の山陵を越え、桐生川の谷へ下ってみました。

 峠を越えると、桐生川の右岸、寄日(よっぴ)の集落に降りることができます。

 この峠を寄日峠と称するようです。

 峠部分は、残馬山への登山道として歩かれることがあるようですが、往時の峠道は、ほぼ廃道の状態でした。

@ 寄日峠と忍山山脈、峠の名前のこと
寄日峠周辺略図。 忍山の大茂より忍山山脈を越えて寄日の集落に下る峠道を寄日峠というらしい。大茂峠とも呼ばれるようだ。この尾根越えの道を、地元でこのように峠名で呼んでいたかどうかは不明である。他所の者(特に登山者)が便宜上、峠付近の地名によってそう呼び始めたのではないかという気もする。
(残馬山の西にも大茂峠と呼ばれる鞍部がある。こちらは忍山から座間に抜ける峠道であったようだ。現在、道跡は不詳らしい。) 
 麓集落の人は、単に「寄日(あるいは大茂)に行く道」とだけ言っていて、峠という意識は特に持ち合わせてはいなかったのではないか。というのも、この峠が、わざわざ峠名で呼ぶまでもないような小さな峠だからである。
 もうひとつには、以前、小夜戸や塩沢で地元の方に『山田郡誌』に書かれている峠の場所を尋ねたことがあった。「○○峠とはどこですか?」と聞くと、そういう場所は聞いたことがないと言う。「ここから山向こうの○○の集落へ行く道は?」という聞き方をすると、質問の意図を理解してもらえたのである。つまり、集落間の山越えの道あるいはその場所を「○○峠」というように明確な地名としての峠名では呼んではいないということなのである。昔から○○集落へ行く山道はあったが、峠の名前は特にないと言われたことが二度ほどあった。
 麓集落の人が主に行き来するだけのような小さな峠道は、特に名前を付けるまでもなかったのではという気がしている。そういった場所が峠名で呼ばれるときは、他所の者が便宜上、名を付した例が多いのではないか。
 なお、忍山山脈というのも便宜的な呼び名らしく、『山田郡誌』の記述以外ではあまり耳にすることはない。『郡誌』には「忍山山脈は残馬山の余脈の桐生川と忍山川との間を南に延びて梅田村大字二渡に至り桐生川に終わるもの」とある。要は残馬山から南に延びる忍山川左岸の尾根筋である。

A 旧地形図に見る寄日峠
旧五万図より寄日峠周辺。  大茂から寄日に至る道は、昭和初期の五万図には点線の道として示されている。
(左図参照)
 周辺には、大茂から西に向かい忍山川と高沢川の間の尾根筋を越えて鍋足に向かう道や寄日から南西に向かい忍山山脈を越えて湯本に至る道などがある。
 いずれの道も尾根の鞍部を越えて山陵の向こう側の集落に降りるという点では、峠的な道である。




B 残馬山登山記に見る寄日峠
 『山田郡誌』の「残馬山」の項に、岩澤正作氏による残馬山の登山記(昭和10年11月10日 初出『毛野時報第八号』)が収録されている。忍山川沿いに遡行し残馬山山頂に至るまでの記録である。そのなかに大茂から寄日に至る道について記述された箇所がある。以下に引用する。

 「(忍山館を出て忍山川沿いに進むと)字大茂に着いた。茲(ここ)に二三の人家がある。(中略)人家を離れると右に岐路があり、道路は橇路(そりみち)で材木輸出の林道らしいので、歩を反し一人家に入り登路を聞くと、右は寄日(よつぴ)道で橇道が本道と(教えられた)」とある。

  すなわち、昭和10年当時、大茂には2、3軒の民家があり、民家を過ぎた先に分岐があって、直進が残馬山へ向かう道で、右折路が寄日に至る道であったことがわかる。

 『私が登った群馬300山 下巻』(横田昭二著 上毛新聞社 2005年)の「残馬山」では、大茂から往時の峠道と思われる経路を伝って峠に出て、そこから忍山山脈の尾根を辿って残馬山山頂に至るコースが紹介されている。そのなかから寄日道に関わる箇所を拾ってみる。

 山光館を過ぎ「ひと曲がりするとすぐ先に小沢」があって、ここが入口である。杉林のなかの道は「古い林道のように広くなるが」、すぐに「転石の沢になり、上部は草やぶになる」。沢の右より「杉林に上がり、踏み跡を斜上する。山道らしくなるとすぐに峠に出た」。

 今回は以上を参考に、大茂より峠に登り寄日の集落へ下るものとする。

 ※関連HP
「残間山(サン)を歩く」(『桐生山野研究会』)
「残馬山」(『桐生山野研究会』)
「残馬山 1107.4メートル」(『オッサンの山旅』)
「残馬山〜座間峠」(『あにねこ登山日誌』)

次ページ へすすむ>

<はじめに にもどる
<コラムもくじ にもどる