@ 金沢峠について
金沢峠は、『山田郡誌』に「梅田村大字上久方字湯澤より川内村大字山田字名久木に通ず」とある。
『山田郡川内村郷土誌』(川内郷土研究会 1993年)には「大字山田村ヨリ隣村ニ通スル道路数條アリ」として「梅田村ニ通スルハ字名久木ヨリ金沢峠ヲ越エ」とある。なお、『山田郡川内村郷土誌』は、明治42年9月に、県より郡市町村、市町村立小学校あてに出された通達に基づいて作製された郷土誌である。この写し(役場もしくは小学校に保管されていた)を、川内町2丁目の個人が所蔵しており、これを複製したものである。
昭和初期の五万図には実線の道として示されており、当時、梅田と川内をつなぐ要路であったことが読み取れる。(下図参照)
金沢峠の東北、直線距離にして約800メートルの場所に三峯山(2万5分の1地形図で697のピーク)がある。『山田郡誌』に「鳴神山脈中、鳴神山に次ぐ高峯にして海抜八〇八米」とあるが、この標高は間違いだろう。梅田村上久方・高澤と川内村名久木に跨り、野牛が横になっているような山容をしているとある。山貌が秩父の三峯山に似ているために昔から三峯という呼称があったが、文政年間に秩父の三峯神社を分祀し、三峯山という山名が定まったと書かれている。
B 三十六童子
三峯山より西方に下ると、下るに従い斜面に並んで置かれている三十六童子の石塔群を見ることができる。自然石に童子の名を刻んだ石塔が大半で、石像も数基見られる。現在では三十六童子全てを確認することはできないが、おおよそ20基前後の石塔が確認できる。大崩地区の奥から三峯社山頂までの登拝路に沿って祀られたものであろう。
左の写真は、「金剛童子」の石塔で「安政三丙辰 九月吉日」の銘がある。高さ約80センチ。この塔が最も大きく状態もしっかりとしている。他の多くは倒れていたり、半ば土に埋もれており、童子の銘が確認できるものは少ない。
ところで、『桐生市史別巻』には、この三十六童子の石塔群について「多くは川内側の人々によったもので愛児の霊を祀るためのものではないかと思われる」とある。確かに幼くして亡くなった者の戒名に「○○童子」と付けられることは多いが、名久木の三十六童子は、亡き児童の慰霊や供養のためのものとは別のものではないだろうか。おそらくは修験道に影響を受けた不動信仰に拠るものと思う。
三十六童子の石塔群の頂点には不動明王の石像が祀られている。三峯社から下れば、最初に不動明王を見て、その後次々に三十六童子の石塔に遭遇する。逆に大崩から登るとすれば、三十六童子の石塔群を拝みつつ登り、登拝路の最終地点である三峯社の山頂直下に不動明王を見ることになるのである。
大崩林道を起点より少し進んだ地点の沢沿いに、石の道標が残り「右 三峯山 金沢」「左 御嶽山 石尊宮」と刻まれている。御嶽山、石尊山ともに修験道や山岳信仰と関係の深い山名である。御嶽山や石尊山がどの峰を指すかはわからないが、三峰山への登拝路の途中かその周辺の岩峰が御嶽山や石尊山と呼ばれたのであろうことは確かである。
以上のことから、名久木の三十六童子は修験道や不動信仰の影響のもとで、登拝路の頂点近くに不動明王の石像を置き、明王に付き従う眷属としての三十六童子を、登拝路に沿って上から順に配置し祀ったものと考えるのである。
なお、市史には三十六童子は「川内側の人々によったもの」とあるのだが、私が確認したところ、石塔の裏面に「江戸 鶴沢勘五○(郎か?) 野州 生方源之助」と刻まれているものがあり、おそらくは願主の名と思われる。「江戸」や「野州」とあることから、三十六童子の石塔設置は必ずしも川内の人だけによるものではなかったのではないか。信仰の広がりは桐生地域に限定されるものではなく、もう少し広かったのではとも考えられよう。
金沢峠には鏡石の伝承がある。『山田郡誌』の「鏡岩(梅田村)」には以下のようにある。城山の連山に大形山というかなり高い山があり、その中腹に大きな岩がある。一間四方ほどの大きさで、一方は平面になっている。この岩が鏡岩と呼ばれている。昔、桐生城主の奥方が大きな鏡を求めたが、手に入らなかったので、この岩を磨いて鏡にし、時々訪れて姿を映した。
昭和初期の登山ガイド『新しき山の旅』(ハイキングペンクラブ編 昭和書房 1942年)の「鳴神山」(矢島市郎)の紹介で、金沢峠が「鏡石峠(堂場と茂倉を絡げる峠)」と表現されている。なお、三峯山は高畑山と書かれている。鏡石がある峠だから鏡石峠なのだろうが、金沢峠をこのように呼ぶことはあまりないように思う。左図は、そこに掲載されていた「鳴神山概念図」の一部。
峠に「鏡岩(石)」があり、その岩に伝承が伝わる例は、他にもあるようだ。鈴鹿峠(三重県、滋賀県)の「鏡岩」には、昔、盗賊がこの岩に映る旅人の姿を見て追いはぎをしたという伝説がある。本坂峠(静岡県、愛知県)の「鏡岩」には、大名の姫君がここで化粧を直したという話が伝わる。(『神と自然の景観論』野本寛一 講談社 2006年) 本坂峠の伝承は、金沢峠のものとよく似ている。野本氏によれば、「峠の石」は「峠神の依り代」「磐座」であり、「峠神の座」として祀られたものであるという。金沢峠の鏡石も、神が降りる場所として人々に崇められ、神秘的な伝承が形成されていったものなのだろうか。
なぜ峠には伝承石が多いのかという問いに対し、「峠神の依り代」として祀られたものであるからという解釈は、もちろん妥当であるとは思うが、金沢峠の場合(鈴鹿峠、本坂峠も含めて)、なぜそれが特に「鏡岩(石)」でなければならないのかという疑問が残る。峠神が降りる場としての岩であるならば、別の形の「○○岩(石)」でもよかったではないか。たまたま峠近くにあった岩が、鏡のように光る平面状の岩だったからなのか。「鏡」になにか意味があるような気がするのだが、よくわからない。「鏡」に何らの意味もないとすれば、「人の姿を映す鏡のような岩」という類似し共通した伝承が、他の地域の峠にも同じく伝わっていることの意味がなくなり、単なる偶然ということになってしまう。峠と伝承石、峠と鏡岩の関係など調べてみれば面白いという気もするが、勉強不足でそこまで至っていない。
※参考文献(文中に表記したもの以外)
「峠通過の儀礼と文学」(野本寛一 『国學院雑誌78‐3』 1977年)
「境界としての『峠』と『塞神』‐峠に祀られる石仏の諸相‐」(松尾翔 『日本の石仏 No86』 1998年)
『西上州山村の石仏たち』(松尾翔 青娥書房 2007年)より「西上州山村に密集して祀られる不動明王」
『伊勢崎の近世石造物』(伊勢崎市 1985年)より「明王」の解説
『群馬県史 資料編26民俗2』(群馬県 1982年)より「その他の山々の信仰」(都丸十九一)
『埼玉大百科事典』(梶拓二編 埼玉新聞社 1975年)より「三峯講」の項
『日本民俗大辞典』(吉川弘文館 1999年)より「三峯信仰」(西海賢二)の項
『日本民俗辞典』(大塚民俗学会編 弘文堂 1972年)より「不動信仰」(宮家準)の項
『修験の世界 始原の生命宇宙』(久保田展弘 講談社学術文庫 2005年)
『修験道』(宮家準 講談社学術文庫 2001年)
※関連HP
「桐生・吾妻山周辺の小さな峠 / 小倉峠(桐生峠)・村松峠・金沢峠」(『峠のむこうへ』)
「三峰山」(『やまの町 桐生』)
「梅田 兼(金)沢を歩く」(『桐生山野研究会』)
「三峰山調査山行」(『桐生山野研究会』)
「川内名久木から三十六童子へ」(『桐生山野研究会』)
「三十六童子」(『ハイトスの里山山行記』)