電撃! 激坂調査隊が行く

トップページ>コラムもくじ>コラム45 1>コラム45 2

●コラム45 金沢峠の巻き●

金沢峠から、三峯社と三十六童子

 金沢峠の周辺を散策しました。

 金沢峠は、梅田と川内を結んでいた峠道です。峠北方の頂には、奥秩父の三峯神社を勧請した三峯社が祀られています。

 また、三峯社より西方に下ると、山道に沿って三十六童子の石塔群があります。

 川内町、名久木の大崩地区から峠に登り、三峯社と三十六童子を巡ってみました。

@ 金沢峠について
金沢峠周辺略図。 金沢峠は、『山田郡誌』に「梅田村大字上久方字湯澤より川内村大字山田字名久木に通ず」とある。
 『山田郡川内村郷土誌』(川内郷土研究会 1993年)には「大字山田村ヨリ隣村ニ通スル道路数條アリ」として「梅田村ニ通スルハ字名久木ヨリ金沢峠ヲ越エ」とある。なお、『山田郡川内村郷土誌』は、明治42年9月に、県より郡市町村、市町村立小学校あてに出された通達に基づいて作製された郷土誌である。この写し(役場もしくは小学校に保管されていた)を、川内町2丁目の個人が所蔵しており、これを複製したものである。
 昭和初期の五万図には実線の道として示されており、当時、梅田と川内をつなぐ要路であったことが読み取れる。(下図参照) 旧五万図より金沢峠周辺。















  A 金沢峠と三峯社
三峯山にある神像。 金沢峠の東北、直線距離にして約800メートルの場所に三峯山(2万5分の1地形図で697のピーク)がある。『山田郡誌』に「鳴神山脈中、鳴神山に次ぐ高峯にして海抜八〇八米」とあるが、この標高は間違いだろう。梅田村上久方・高澤と川内村名久木に跨り、野牛が横になっているような山容をしているとある。山貌が秩父の三峯山に似ているために昔から三峯という呼称があったが、文政年間に秩父の三峯神社を分祀し、三峯山という山名が定まったと書かれている。
 金沢峠道の梅田側の入口(兼宮神社わき)に「秩父分地三峯山道」と刻まれた文政9(1826)年12月建立の石柱があり、金沢峠は梅田と川内を結ぶ交通路としての役割の他に、三峯社への参道としての役割も果たしていたことがうかがえる。
 『桐生市史別巻』の「三峯神社」の項には、三峯山は修験道との関わりが深い山であり、往時は、金沢に行屋(修験者の修行場)があったこと、名久木から三峯山への登拝路の途中に籠屋や滝の修行場があったことなどが記されている。
 籠屋や滝があった名久木からの登拝路は、大崩地区の奥より金沢峠道を経由する道とは別の道である。梅田側にも峠道を経由する登拝路とは別に、梅田より尾根伝いに直接山頂に達する道もあったらしく、桐生山野研究会のHPに報告がある。

 ところで、三峯信仰とは、埼玉県の奥秩父、大滝村(現秩父市)三峯山に鎮座する三峯神社に対する信仰をいう。この信者を組織化した講が三峯講である。三峯講が盛んになるのは近世中期以降とされている。江戸を中心に関東甲信越、中部地方一円に広まった。
 オオカミを「お犬さま」「狼さま」(大口真神‐おおぐちのまがみ)として神の使いと定め、オオカミの御札を信者に配り、広く信仰されるようになった。古くは、中世の修験者により神社が祀られ、山岳信仰から猪鹿除けの狩猟の神、農耕の神として農山村へ伝えられたという。
 桐生地域でも三峯講は盛んであったらしく、『桐生市梅田の民俗』(群馬県教育委員会 1970年)に報告がある。石鴨や馬立での聞き取りとして、年に三回(3月、5月、7月の19日)代参に出かけていた、村の三峯社に札箱があり、その箱を持って参拝に行き中の御札を交換した、講から戻ると村中集まり飲食をした、昭和17、18年ごろ戦争による食料難のために中止した、などの事例が報告されている。
 また、『群馬県の祭り・行事』(群馬県教育委員会 2001年)に桐生、金沢組合が行う行事として「三峰さまと山の神などの祭りの統合。供物を供え、三峰山の神の石宮まで登り参拝する」といった紹介がある。
 祭事の具体的な様子については『あすへの遺産 第三集』(桐生市老人クラブ連合会 1990年)所収の「金沢の三峯様」(梅田町一丁目 小島明子)によって知ることができる。それによると、三峯さまのお祭りは、毎年4月19日に行われていた。組合の者が酒、肴、強飯、料理を背負って三峯社まで登る。社へは金沢峠から登った。三峯さまの手前に釣鐘があり、登拝した者は皆、この鐘をついた。参拝後、社の広場で御神酒を飲み、飲食をした。昭和16年に戦争のために中止となり、以来祭事は行われていないという。

B 三十六童子
金剛童子の石塔。安政三年。  三峯山より西方に下ると、下るに従い斜面に並んで置かれている三十六童子の石塔群を見ることができる。自然石に童子の名を刻んだ石塔が大半で、石像も数基見られる。現在では三十六童子全てを確認することはできないが、おおよそ20基前後の石塔が確認できる。大崩地区の奥から三峯社山頂までの登拝路に沿って祀られたものであろう。
 左の写真は、「金剛童子」の石塔で「安政三丙辰 九月吉日」の銘がある。高さ約80センチ。この塔が最も大きく状態もしっかりとしている。他の多くは倒れていたり、半ば土に埋もれており、童子の銘が確認できるものは少ない。
 ところで、『桐生市史別巻』には、この三十六童子の石塔群について「多くは川内側の人々によったもので愛児の霊を祀るためのものではないかと思われる」とある。確かに幼くして亡くなった者の戒名に「○○童子」と付けられることは多いが、名久木の三十六童子は、亡き児童の慰霊や供養のためのものとは別のものではないだろうか。おそらくは修験道に影響を受けた不動信仰に拠るものと思う。

不動明王の石像。 三十六童子の石塔群の頂点には不動明王の石像が祀られている。三峯社から下れば、最初に不動明王を見て、その後次々に三十六童子の石塔に遭遇する。逆に大崩から登るとすれば、三十六童子の石塔群を拝みつつ登り、登拝路の最終地点である三峯社の山頂直下に不動明王を見ることになるのである。
 「童子」とは「仏・菩薩・明王などに仕えて使役に当たるもの」(『日本国語大辞典』小学館)であり、矜羯羅(こんがら)童子・制多迦(せいたか)童子など不動明王に仕える八大童子などがその例である。『国史大辞典』(吉川弘文館)の「不動明王」(真鍋俊照)の項には「不動明王の眷属は八童子の二童子(矜迦羅 こんがら、制多迦 せいたか)が知られ、不動三尊を形成する。ほかに三十六童子、四十八使者がある」とある。すなわち、三十六童子とは不動明王の眷属である。
 不動明王は修験道の本尊である。修験道では修行者の姿は不動明王をかたどったものであり、山伏の衣体も不動明王の姿を示すとされる。不動信仰は、平安時代以降に密教や修験道を中心に盛んになった。不動明王もこれを通じて民間でも広く信仰されるようになる。例えば、近世の里修験は庶民の災厄からの救済のために儀礼を行った。そこでは、災厄の原因は邪神、邪霊などが祟ったり、憑依したためと解釈された。これを鎮め、憑依したものをおとすために加持祈祷、呪法が行われた。この呪法に際し、修験者が不動明王と同化し、不動明王の力を用いて邪神、霊を退治し、憑き物をおとすとされた。このように不動明王は修験道において崇拝の対象とされ、修験者の活動のもとに、広く庶民に信じられるようになったのである。
 三峯信仰は、もともと修験道との関わりが深い信仰である。中世、天文年間に、秩父三峯山に堂宇を再建したのは天台派の修験者であり、その後継者は天台修験聖護院派に属したと伝えられる。
 桐生に三峯山が勧請された時期は、修験者の活動が盛んであり、その信仰が庶民の間に浸透しつつあった。根本山の隆盛により桐生川の谷に修験者が多く入っていた。このような時期に修験道の一定の影響のもとで三峯社が分祀された。以上のことが『桐生市史別巻』において示唆されている。
 名久木から三峯山の登拝路の途中には、小規模ながら滝や荒々しい岩峰など修験道で行場とされたような景観の場所が随所に見られる。実際に滝の修行場や行場があったことが『桐生市史別巻』に記されている。

大崩林道わきにある石の道標。 大崩林道を起点より少し進んだ地点の沢沿いに、石の道標が残り「右 三峯山 金沢」「左 御嶽山 石尊宮」と刻まれている。御嶽山、石尊山ともに修験道や山岳信仰と関係の深い山名である。御嶽山や石尊山がどの峰を指すかはわからないが、三峰山への登拝路の途中かその周辺の岩峰が御嶽山や石尊山と呼ばれたのであろうことは確かである。
 以上のことから、名久木の三十六童子は修験道や不動信仰の影響のもとで、登拝路の頂点近くに不動明王の石像を置き、明王に付き従う眷属としての三十六童子を、登拝路に沿って上から順に配置し祀ったものと考えるのである。
 なお、市史には三十六童子は「川内側の人々によったもの」とあるのだが、私が確認したところ、石塔の裏面に「江戸 鶴沢勘五○(郎か?) 野州 生方源之助」と刻まれているものがあり、おそらくは願主の名と思われる。「江戸」や「野州」とあることから、三十六童子の石塔設置は必ずしも川内の人だけによるものではなかったのではないか。信仰の広がりは桐生地域に限定されるものではなく、もう少し広かったのではとも考えられよう。

  C 金沢峠の鏡石
鏡石。峠道の右手。  金沢峠には鏡石の伝承がある。『山田郡誌』の「鏡岩(梅田村)」には以下のようにある。城山の連山に大形山というかなり高い山があり、その中腹に大きな岩がある。一間四方ほどの大きさで、一方は平面になっている。この岩が鏡岩と呼ばれている。昔、桐生城主の奥方が大きな鏡を求めたが、手に入らなかったので、この岩を磨いて鏡にし、時々訪れて姿を映した。
 一方の川内村では以下のように伝わっている。昔、桐生親綱の夫人が戦いの際、城から逃れた。城の北一里の梅田村と川内村の境にある大きな石の下に、いつも使用していた円鏡を埋めて自害した。よって鏡石といわれる。
 『桐生市梅田の民俗』にも同様の伝承が報告されている。郡誌にない事項としては、峠を越えるための荷物が擦れて光るようになった、桐生城が映るといっていぶした、などがある。

鏡石峠と書かれた地図。  昭和初期の登山ガイド『新しき山の旅』(ハイキングペンクラブ編 昭和書房 1942年)の「鳴神山」(矢島市郎)の紹介で、金沢峠が「鏡石峠(堂場と茂倉を絡げる峠)」と表現されている。なお、三峯山は高畑山と書かれている。鏡石がある峠だから鏡石峠なのだろうが、金沢峠をこのように呼ぶことはあまりないように思う。左図は、そこに掲載されていた「鳴神山概念図」の一部。

 峠に「鏡岩(石)」があり、その岩に伝承が伝わる例は、他にもあるようだ。鈴鹿峠(三重県、滋賀県)の「鏡岩」には、昔、盗賊がこの岩に映る旅人の姿を見て追いはぎをしたという伝説がある。本坂峠(静岡県、愛知県)の「鏡岩」には、大名の姫君がここで化粧を直したという話が伝わる。(『神と自然の景観論』野本寛一 講談社 2006年) 本坂峠の伝承は、金沢峠のものとよく似ている。野本氏によれば、「峠の石」は「峠神の依り代」「磐座」であり、「峠神の座」として祀られたものであるという。金沢峠の鏡石も、神が降りる場所として人々に崇められ、神秘的な伝承が形成されていったものなのだろうか。
 なぜ峠には伝承石が多いのかという問いに対し、「峠神の依り代」として祀られたものであるからという解釈は、もちろん妥当であるとは思うが、金沢峠の場合(鈴鹿峠、本坂峠も含めて)、なぜそれが特に「鏡岩(石)」でなければならないのかという疑問が残る。峠神が降りる場としての岩であるならば、別の形の「○○岩(石)」でもよかったではないか。たまたま峠近くにあった岩が、鏡のように光る平面状の岩だったからなのか。「鏡」になにか意味があるような気がするのだが、よくわからない。「鏡」に何らの意味もないとすれば、「人の姿を映す鏡のような岩」という類似し共通した伝承が、他の地域の峠にも同じく伝わっていることの意味がなくなり、単なる偶然ということになってしまう。峠と伝承石、峠と鏡岩の関係など調べてみれば面白いという気もするが、勉強不足でそこまで至っていない。

 ※参考文献(文中に表記したもの以外)
 「峠通過の儀礼と文学」(野本寛一 『国學院雑誌78‐3』 1977年)
 「境界としての『峠』と『塞神』‐峠に祀られる石仏の諸相‐」(松尾翔 『日本の石仏 No86』 1998年)
 『西上州山村の石仏たち』(松尾翔 青娥書房 2007年)より「西上州山村に密集して祀られる不動明王」
 『伊勢崎の近世石造物』(伊勢崎市 1985年)より「明王」の解説
 『群馬県史 資料編26民俗2』(群馬県 1982年)より「その他の山々の信仰」(都丸十九一)
 『埼玉大百科事典』(梶拓二編 埼玉新聞社 1975年)より「三峯講」の項
 『日本民俗大辞典』(吉川弘文館 1999年)より「三峯信仰」(西海賢二)の項
 『日本民俗辞典』(大塚民俗学会編 弘文堂 1972年)より「不動信仰」(宮家準)の項
 『修験の世界 始原の生命宇宙』(久保田展弘 講談社学術文庫 2005年)
 『修験道』(宮家準 講談社学術文庫 2001年)

 ※関連HP
「桐生・吾妻山周辺の小さな峠 / 小倉峠(桐生峠)・村松峠・金沢峠」(『峠のむこうへ』)
「三峰山」(『やまの町 桐生』)
「梅田 兼(金)沢を歩く」(『桐生山野研究会』)
「三峰山調査山行」(『桐生山野研究会』)
「川内名久木から三十六童子へ」(『桐生山野研究会』)
「三十六童子」(『ハイトスの里山山行記』)

次ページ へすすむ>

<はじめに にもどる
<コラムもくじ にもどる