電撃! 激坂調査隊が行く

トップページ>コラムもくじ>コラム37>コラム37補足>コラム37補足2

●コラム37 小夜戸峠2の巻き●

小平から小夜戸道を歩く 「左さやと」の道しるべ

 小夜戸峠道の2回めです。

 昨年の秋に小夜戸峠道を歩き、小夜戸地区から尾根まで登りました。

 今回は、それとは逆に小平の小友地区から尾根まで歩くことにします。
 ●1 今回の峠歩きの経緯と目的●

@ 小夜戸峠(小友峠)の小平、小友側の道
 大間々町の小平、小友地区から旧東村小夜戸地区への道をたどってみた。『山田郡誌』に小夜戸峠(小友峠)と書かれている旧峠道である。
 昨年(2007年)の10月に、この峠道のうち小夜戸側の一部を歩いた。今回は小友側から小夜戸方面へ向かう。前回に歩いた部分と合わせて峠道の経路を貫徹しようという試みである。

A 落合橋「左さやと」の道しるべ
道しるべの「左さやと」文字。 ところで、『群馬の峠』(須田茂著)では、小夜戸峠の名こそ挙げられていないものの、旧五万図に小平より小夜戸へ至る道が描かれ、小平の落合橋のたもとに「右山道、左さやと」と刻まれた近世の道しるべがあることから、小平と小夜戸をつなぐ峠道の存在が示唆されている。
 群馬県教育委員会による『道祖神と道しるべ』にも、小平の落合橋にある「左さやと」の道しるべについての報告がある。


B 今回の目的
 昨年の秋に小夜戸地区から旧峠道の尾根に登り、ともに稜線上にある小夜戸村の石祠と道しるべを兼ねた馬頭観音の石塔を確認した。
 前回とは逆に小友側から石祠と馬頭観音のある場所まで行き、前回の峠歩きを完結させるというのが、本峠行きの主たる目的であり、上記の落合橋の道しるべを確認するというのが、それに付随した目的である。

 ●2 峠歩きの報告●

@ 小友の石仏と「左さやと」の道しるべ
 落合橋は、県道334号小平塩原線の終点付近よりやや手前に架かる橋である。県道の終点は林道小平・座間線の起点でもある。小平塩原線を北に向かい「小平の大杉」で右(東)に折れる。とりあえず落合橋を目指す。まずは「右山道、左さやと」の道しるべを見ようと思う。

 橋の右手(南側)に、いくつかの庚申塔や石仏が並んでいる。青面金剛像や馬頭観音像、如意輪観音像などそれぞれが大きく、浮き彫りの像もはっきりとしている。そのため、これらの石造物群はかなり目立つ。台座には宝暦、寛政などの文字が見える。
 だが、これらの石造物のなかに目当ての道しるべは見当たらなかった。台座の部分に行き先の地名が刻まれ、道しるべを兼ねるような石仏も多いので、それを注意して見たが、「右山道、左さやと」の文字は見えなかった。

落合橋のたもとにある道しるべ。 あたりを見回す。橋を渡った左手(北側)に一軒の民家がある。この家の石垣の前に自然石の道しるべがあった。もとは、道の端に立っていたように思えるが、いまは倒れてしまったらしく、石垣に立てかけてある。注意して見なければ、道端に転がる大きめの石のようにしか見えない。小さな角柱型の道しるべを想像していたので、その石が道しるべであることを見出すのにしばし時間を要した。
 形状は自然石をそのまま用いたものだが、文字が刻まれた面は平らに加工された風がある。確かに「右山道、左さやと」の文字が読める。大きさは、高さ93センチ、幅35センチ(最も幅広の部分で)である。厚みは、最も厚い部分で28センチほど。どっしりとした感じを与える。

A 旧道沿いの廃屋と墓地
坂道の途中から落合橋方面。 道しるべが指し示す通り、落合橋を左に折れ、コンクリート舗装の急坂を登り始める。数分歩くと、右手(東側)に墓地があり、そのやや先の左手(西側)に民家があった。
 これまでは、落合橋のたもとの家が小友地区で最奥の家と思っていた。どうやら急坂の途中にあるこの家が真の最奥の民家にあたるようだ。


廃車と廃屋。 しばらく行くと、道の先に黄色い軽自動車が、さらにその奥に錆びたトタン屋根が見え始めた。この奥にもまだ民家があるのかとも思ったが、近づいてみると廃屋である。先に見えた軽自動車はその家の庭先に放置されていたものであった。フロントガラスには昭和52年の車検ステッカーが残る。
 この廃屋のさらに奥にも、古い墓地の跡や往時に建物があったらしい石積みなどが見られた。

 曇天のため昼近くなっても冷え込んだままである。ほぼ無風で、あたりは静かであった。枯れた小枝が落ちる音や飛び立つ鳥の羽音に時おり、ぎくりとさせられる。
 簡易舗装は終わり、土の道に変わっていた。 旧道とおぼしき道は重機に踏まれている。おもに山仕事の作業道として使われているようである。

B 分岐の庚申塔・供養塔と道しるべ
「左小夜戸道 右山道」と刻まれた道しるべ。 落合橋から15分ほどで、道は二手に分かれる。道が分岐する左手(西側)に大きな石造物が二基、それに小さな道しるべが置かれていた。
 石造物のうちの一つは2メートル近くある大きなもので、霊場巡りの供養塔のようである。「西国 秩父 阪東 百番供養塔」と大きく刻まれる。明治期のものらしい。もう一つは「猿田彦大神」とあるので庚申塔であろう。明治二五年三月とある。角柱型の小さな道しるべ(高さ40センチ、幅24センチ、厚さ14センチ))には「左小夜戸道 右山道」とあった。
 この小夜戸へ向かう旧道は、いまは歩く人もないようだが、このようにかなり奥の場所まで、石仏や道しるべ、先ほど見た墓地や民家の石積み跡などが見られることから旧来は人の通行が多くあったことがうかがわれる。
 この旧道の往来の具体的事例については、茂木峠のページで『大間々町誌 基礎資料Z 大間々の絵図・地図』(大間々町誌編さん室編 大間々町誌刊行委員会 1997年)から民俗的な報告を数例引用したので、興味のある方は参照されたい。

 道しるべに導かれて左の道を選ぶ。道は、木材の運搬車両や伐採作業の重機がたびたび往復しているらしく、ごく一般的な作業道のようで往時の峠道という雰囲気は感じられない。
 百番供養塔と猿田彦大神の分岐より4分ほどで作業道が途切れた。この先は伐採地で、落ち葉に覆われた比較的なだらかな斜面が広がっている。稜線も見えている。樹木がほとんどないために、稜線まで容易に登れるようにも見受けられた。地形図と照合するに、作業道終点の位置から見上げて、その左手から正面に続く稜線が旧山田勢多郡界の尾根のようである。

C 旧山田勢多郡界の尾根と旧道の跡
 伐採地であるため、どこをどう歩いても尾根には到達できそうだが、斜面上に尾根まで達するような旧道らしき道筋は見当たらない。地形図によると、点線の道は左手(西側)の尾根に出るように表記されている。そこで、伐採地の斜面を左手の方向に登る。
 数分で尾根上に出たが、地形図の点線の道の表記とはやや異なる経路で尾根に達したらしい。足もとには境界の赤い杭、木々の枝にはピンク色のテープが見える。この尾根が旧郡界尾根であるのは確かなようだ。現在位置に間違いがなければ、少し北に歩くと、アンテナが立つ標高800メートルの小ピークに至るはずである。

アンテナのある小ピーク。 案の定、尾根に乗った地点からわずかに北に進むと、広場のようになったやや平坦な小ピークに着いた。ピークに立つアンテナは小規模なもので、その形状からテレビ電波を中継するもののようだ。

 北側は冬枯れの樹間から赤城や袈裟丸、男体山をはじめ日光方面の山々が望める。それらの下方には、おそらくは花輪あたりと思われる道路や家並みが渡良瀬川沿いに長く続いているのが見える。雑木が完全にないとすれば、なかなか展望に優れた場所のように思える。

D 道しるべの馬頭観音と小夜戸村の石祠まで
樹間に小夜戸地区を見下ろす。 小夜戸へは、ここから左側(ほぼ真西の方向)に下る。小ピークを下るにつれ、しだいに溝状にくぼんだ旧峠道の道跡が明瞭になってくる。道跡はややへこんだ形でくぼ地状に残るため、落ち葉が積もっていて歩きにくい。つづら折れにくねくねと下ってゆく。

 アンテナの小ピークから10分ほどで、見覚えのある場所に着いた。昨年の10月に小夜戸地区から登り、道しるべを兼ねた馬頭観音の石塔と小夜戸村の石祠を確認した場所である。昨年の秋とは異なり、葉をすっかりと落とした雑木のすき間から下方の集落が意外なほど近くに見下ろせる。

E 鞍部から小友へ下る
 これで昨年10月に歩いた小夜戸側の道と今回の小平小友側の道がつながったことになる。よって、この場所で来た道を引き返す。
 帰る途中で、先ほど強引に登ってしまった伐採地のほかに、旧郡界尾根から小友地区へ下る道が残っているかどうかを確かめることにしよう。地形図によると、点線の道は、来る時に尾根に乗った地点よりもやや南側の鞍部で尾根筋を東側に外れて小友方面へ下っているように読める。
小友方面へ下る鞍部。 アンテナの小ピークから7分ほど南へ歩く。そこが大きな鞍部になっていた。その鞍部から小友方面への踏み跡がかすかに残っている。踏み跡をたどり、植林地のなかの沢状の場所を下る。わずかで作業道に合流した。
 その作業道は、来る時に歩いた小友の落合橋から続いている道であった。作業道の終点からほんの少し集落寄りの場所である。つまりは、いま下ってきた踏み跡が旧小夜戸道の道跡なのだろう。そこより15分ほど下って落合橋に戻る。(訪問日 2008/01/19)

 ※今回歩いた経路の地図と石仏等の写真を補足ページに掲載しています。
 ※本ページアップ後、2009年11月に小友の民家で峠道の往来についての話を聞きました。そのことを補足ページ2に書きました。


補足ページ へすすむ>
補足ページ2 へすすむ>

<はじめに にもどる
<コラムもくじ にもどる