@ 岩佐氏が歩いた経路
まず、岩佐氏が歩いた経路を検討してみる。桐生の市街地から広見橋で桐生川を渡り菱町へ入る。そこから現坂西桐生線に出て、現群大グランドわきを左折し、上小友へ向かったことが推察される。「…学校の前で、幸橋を渡って来た県道と合流し、東へ進むとやがて丘陵地帯になり、それを越えてバス停の横から左の山の間へ進み入る」とある。「学校」というのは菱小、中のこと、「幸橋を渡って来た県道」は坂西線をさし、「東へ進むとやがて丘陵地帯になり、それを越えて」とあるのは八王子坂を登り降りしたということであろう。
県道を左折した後は「車一杯のデコボコ道」を「一粁程で車を降り」とある。県道から1キロ程度進んだということは、いまでいうと上小友地区の住宅地の奥で、舗装道が白葉峠に向かって直角に右折(東へカーブする)あたりの手前で車を降りたということになろう。
そこから「澄んだ小川に沿って歩」むと「辻になった」とある。「澄んだ小川」とは小友川のことであろう。現在は、この付近の小友川は河床も岸もコンクリートで固められた用水路のようになっており、「澄んだ小川」とはとてもいえないのだが。
白葉峠へはこの辻を右に曲がったとある。辻には「松の生えた岩」があり、「石仏と小地蔵が祀って」あったらしい。ここから300メートルほど進むと、再び辻になり「道しるべ」が立っていて、その道しるべが示す通り左へ登ったと書かれている。
この先からは山間の道で「小松や雑木の浅い背をゆるやかに」歩いたと記されている。峠の手前はやや急であったらしく「山の中腹を少し這い登って」峠に到着したという。
峠の様子については「切通しの左上に石宮が三柱並んでいて、その一つに白羽山と彫ってあった」と記述されている。峠からの眺めに関しては、東側(足利市小俣町)は2、3の小山の重なりしか見えないが、西側(桐生市)は市街地が見渡せたと記されている。
A 白葉峠旧道(桐生側)の道筋
以上から白葉峠旧道(桐生側)の道筋を整理してみる。
@ 上小友地区の奥の辻(石仏、小地蔵あり)を右(東)へ。
A @の辻から約300メートル進んだ分岐(道しるべあり)を左(北か?)へ。
B 緩傾斜の小尾根上を進む。(「浅い背をゆるやかに」とある。他に「山と言ってもこの辺は丘である」との印象も記される。)
C 傾斜がやや急な場所を登って峠に着く。(「山の中腹を少し這い登って、やがて…白葉峠につく」とあるため、峠直下は急勾配であったことが推測される。)
@ 桐生側の道 峠まで
つぎにブログ『自転車で峠越え』「白葉峠旧道と猪子峠、行道峠」の記事についてみる。桐生側から登って足利側に下っている。
まず、白葉林道の道端(峠に向かって左‐北側)に立つ菱町カルタの解説板「白葉峠に製鉄遺跡」の後ろ側から踏み跡をたどる。やぶと倒木の多い道を15分ほど登って舗装路に合流する。
舗装路を峠に向かい、少し進んだ場所で右に続く踏み跡に入る。10分ほどで再び舗装路に合流する。合流点は峠より100メートルほど手前の位置であった。
A 峠から足利側の道
一方の足利側については以下のようになる。
峠直下の斜面を下り、旧道らしき踏み跡を見つける。その付近を下り、沢筋に出て、舗装路に合流する。
合流点に石仏があった。舗装路と交差し、舗装路から沢をはさんだ対岸にある旧道を下る。300メートルほどで再び舗装路に合流する。
@ 五万図における峠道の表記
ここで昭和初期の五万図を見る。下図参照、峠道を表すと思われる点線を赤線でなぞった。
上小友から白葉峠へは点線の道の表記がある。丘陵上をほぼ真東に進むように描かれている。
地形的には、最初は、群馬栃木県境の、白葉峠のある尾根筋から西に派生するなだらかな小尾根を、尾根筋に沿って東に登り、途中から尾根筋を外れてやや南に方向を変え、斜面の中腹を巻いて峠に到達するような表記になっている。
足利側は、峠道のほとんどは沢に沿ってつけられているようである。峠の直下ではやや屈曲がある。そこを過ぎると、沢に沿って東の方向に下る。
ブログ『自転車で峠越え』の記述も、足利側の後半は沢筋に沿っているように読める。また、峠直下より斜面を降りて旧道をたどった際、舗装路との最初の合流点のところに石仏があったとあるので、この点も旧道の道筋を推測する上での手がかりになる。
@ 岩佐氏の記述から気付くこと
岩佐氏は、石仏のある最初の辻を右折した後、2番めの辻を左に入ったと書いている。2番めの辻とは、現在菱町カルタの解説板の立つ場所のような気がするのだが、どうだろう。ブログ『自転車で峠越え』ではカルタの解説板の後から踏み跡に入ったとあるが、この解説板は道の左手に立っており、その後ろ側の踏み跡に入るということは、辻を左折するという形になる。
また、岩佐氏が「石仏と小地蔵が祀ってある」と書いた最初の辻についてだが、この辻は、いま現在これらの石造物が置かれている場所とは少し位置が異なるのではという気もしている。なぜなら、本文中にも書いたが、いま現在の石造物の位置関係や周りの様子が岩佐氏の写真とは明らかに違っているからである。石仏らは後の道路工事等の際に移されたのではないか。
では、岩佐氏のいう最初の辻とは、現在ではどの場所にあたるのか。それは白葉橋の南東側のたもと付近ではないか。そこには、石祠が一つ残っており、首のない石仏らも、当時はその場所に一緒に置かれていたのではないだろうか。といった想像をしてみた。が、あくまで想像で確かな根拠があるわけではない。
A 旧道の道筋を推測
上記のことを総合して白葉峠旧道の道筋を推測(下図)してみた。
灰色線-現白葉林道(舗装路)
茶色線-旧道(と思われる道)
@首なしの石仏、小地蔵など
A菱町カルタの解説板「白葉峠に製鉄遺跡」
B白葉林道開設記念碑(桐生市建立)
C白葉峠、白葉峠改修記念碑(足利市建立)と白羽山の石祠他
D石仏、庚申塔など
B まとめ
以上、岩佐氏の『群馬の峠』に収録された「白葉峠」行きの記述やブログ『自転車で峠越え』の白葉峠旧道の記事を旧地形図と見比べながら、現舗装路開発以前の白葉峠道の道筋について検討してみた。
細かな部分は実際に歩いてみなければ何とも言えないのだが、白葉峠旧道は、現舗装路とはやや異なる道筋をたどって峠に達していたようである。ただし、完全に経路を異にするというわけでもなく、実際に踏破を試みたブログの報告にもあるように、つかず離れずといったふうに途中で合流したり分岐したりを何度かくり返しながら峠を越えていたということがいえそうである。