電撃! 激坂調査隊が行く

トップページ>コラムもくじ>コラム25 1

●コラム25 遠入坂の巻き●

あかがね街道 遠入坂探訪記

 大間々町桐原にある遠入坂(えんにゅうざか)を歩いてみました。

 前回の峠行きでは、大間々から燧坂(ひうちざか)峠を越えて下神梅に下ってみました。燧坂峠について調べるなかで、峠の南の場所に遠入坂という坂道があることを知りました。

 遠入坂は、近世の頃に銅山街道として使われていた坂道で、旧街道は、下神梅から燧坂峠を越えた後、この遠入坂を下って桐原宿に入っていたようです。

 大間々町2丁目から遠入坂を登り、坂道の上にある瀬戸ヶ原周辺を歩いてみました。
 ●1 遠入坂という坂道●

@ 燧坂峠とひうち坂
 前回の峠行きでは燧坂(ひうちざか)峠(日光坂峠とも)へ行った。
 燧坂峠は、近世の頃は銅山街道の峠道として使われた。1901(明治34)年、渡良瀬川の右岸に神梅新道(現国道122号線)が開通するまでの間、大間々・桐原と下神梅・水沼を結ぶ主要路として機能していた。
 前回は、大間々方面から燧坂峠に向かい下神梅へ下ってみた。 その際、峠道のルートについては『群馬県歴史の道調査報告第1集 足尾銅山街道』(群馬県教育委員会 1978年)に解説された銅山街道のルートと経路地図を参考にした。そのルートとは、現在の大間々警察署のやや南の場所から桐原配水場を経て、瀬戸ヶ原の集落を通り、手振山西方にある峠に向かうというものであった。
 上記の報告集によれば、このルート上の、配水場のわきから瀬戸ヶ原集落へ登る坂道がひうち坂と呼ばれていたらしい。燧坂峠とは、旧銅山街道が手振山から西に続く丘陵の鞍部を越えている場所で、近世の頃の桐原村と下神梅村の境界部分をいう。正確には燧坂峠とひうち坂は場所が異なるようである。

A 遠入坂という坂道が気になる
 銅山街道のうち桐原〜下神梅間の経路について書かれた他の資料(平凡社の『群馬県の地名』や須田茂氏の『群馬の峠』)を見ると、下神梅から山道を登って燧坂峠を越えたあと、峠から南に向かい遠入(えんにゅう)坂を下って桐原へ出たとある。
 高山彦九郎の日記『北上旅中日記』や『沢入道能記』にも、桐原から遠入坂を登って神梅村へ抜けたという記述がある。これについては前回にもふれた。ここにいう遠入坂という坂道が前回から気になっていた。

B 『山田郡誌』における遠入坂
 遠入坂について調べてみた。『山田郡誌』第一篇自然界 第二章地形の「手振山」の項に
「西麓の山道は舊時の足尾銅山街道なり。北は燧坂峠を經て勢多郡黒保根村大字下神梅に通じ南は遠入坂をすぎて桐原に至る。」という記述がある。
 さらに「遠入坂(遠繞坂)」という項目に、以下のような説明がある。
「大間々町大字桐原字上の臺より手振山丘陵を横断して勢多郡新里村大字奥澤に入るものにして、舊時は大間々町より赤城山を經て沼田方面に入る唯一の道路なり、嶺頂右折して前記燧坂に通ずるものは所謂銅山街道なり。」
  平凡社『群馬県の地名』の「手振山」の項とほぼ同じ内容であり、『群馬県の地名』における手振山および遠入坂の記述は『山田郡誌』の記述を参照にしたものと思われる。

C 桐原村への銅蔵変更と街道経路の変遷
 また、『山田郡誌』第二篇人文界 第九章交通及通信の(四)銅山街道に、1747(延享4)年、大間々村が幕領から前橋藩領に移管された際、大間々村にあった銅問屋が幕領の桐原村に変更になり、それに伴い「銅山街道も圓入坂下より右折して桐原宿に入る」ようになったとある。
 銅山街道の経路は時代とともにさまざまな変遷があり、また同時代においてもその時々の状況により複数のルートが存在し、その経路は一定ではないというのが定説のようである。
 『群馬県歴史の道調査報告第1集 足尾銅山街道』の経路地図にあるように、銅蔵が大間々村にあった頃は燧坂峠から東に向かい、ひうち坂を下って大間々村に入るという経路が多く使われていたのではないか。1747(延享4)年以降、燧坂峠から南に進んで遠入坂を下って直に桐原宿に入るという経路がしだいに使われるようになった。その後は神梅から桐原に抜けるに際しては遠入坂を通る経路のほうが主流になっていったのだろう。
 ただし、後述するように1732(享保17)年にはすでに桐原の村民が遠入坂の道普請をおこなっていたという内容の文書もある。よって、1747(延享4)年以降に銅山街道の経路が遠入坂に変更になったとは断定できない。それ以前からも何通りかの道筋があったと考えるほうが自然だろう。
 以上のように、遠入坂は燧坂峠やひうち坂から少し離れた場所にあるようである。燧坂峠よりもやや南に位置し、桐原宿に入る手前の場所にあったらしいことがわかる。

 ●2 遠入坂の位置●

@ 遠入坂の位置を推測する
 つぎに遠入坂の位置を特定したい。『山田郡誌』中の遠入坂に関する記述を念頭におき、古い地図を確認する。下記の3種の地図を比較してみた。

 a 「大間々町迅速測図」(2万分の1 1885(明治18)年測量)
 b 「桐生及足利」(5万分の1 1907(明治40)年測量、1929(昭和4)年1934(昭和9)年修正測量、1952(昭和27)年応急修正)
 c 「大間々町都市計画図」(3千分の1 1957(昭和32)年測量) 
(※ cについては『大間々町誌 基礎資料Z 大間々の絵図・地図』に掲載されていた縮小版で確認した。
※ 地図 aはこちら。地図 bはこちら。ただし、cは現地形図とそれほど変化はないので省略する。)

 これらの地図に、燧坂峠から南に向かって桐原の上ノ台へ抜ける道が確かに描かれている。この道を現在の2万5千分の1地形図「大間々」(1970(昭和45)年測量、2001(平成13)年修正測量)にあてはめて、その道筋を追ってみる。(※ 地図はこちら。)
 まず、燧坂峠のある手振山西方の丘陵鞍部から南東に下り、瀬戸ヶ原集落西端の瀬戸ヶ原配水池があるあたりまで進む。峠のすぐ南東には数棟の、地図記号でいうところの「温室・畜舎・タンク等」の記号が見える。これは、大規模な鶏舎である。峠から配水池まで直線距離で約700メートル。
 そのあと瀬戸ヶ原集落の西側を通って集落の南端まで行く。この区間は段丘上のやや平坦な場所である。距離は550メートルほど。
 そこからさらに南東の方向に坂を下り、桐原の上ノ台地区の西側に出る。この区間は、等高線から判断するに標高差40メートル程度の急崖になっている。
 この急崖を下る部分の道は、地図上ではアルファベットの「V」字型に表現されている。いったん南に向かって傾斜を下り、崖の中腹で折り返すようにして北東に向きを変えて崖下の位置まで下っている。これは道が急勾配になるのを避けるためであろう。それでもかなり急な坂道であろうことが、等高線の詰まり具合から読み取れる。坂道の距離は道なりに700メートルくらいか。
 坂を下り終えたあと、250メートルほど東に進んでかつての桐原宿の通りに出る。その通りを横切ってそのまま東に進むと、400メートルほどで大間々町2丁目、国道122号線(大間々市街地の中央の道路)に行き当たる。この区間は住宅地である。桐原宿の通りから大間々町2丁目までの道は、標高差10メートル程度の小さな坂道になっている。
 大間々の市街地の西側は段丘状の地形になっている。市街地から一段上の段丘面が桐原であり、そのさらに上の段丘面が瀬戸ヶ原である。各段丘間は急な崖になっている。この崖部につけられた道は当然坂道になる。桐原の段丘面と瀬戸ヶ原の段丘面をつなぐ道が、距離もあり勾配もやや急な坂道となっている。
 『山田郡誌』等の資料には、峠から南に向かい遠入坂を下って桐原に入るとあるので、遠入坂とは、この桐原の段丘面と瀬戸ヶ原の段丘面のあいだの、地形図上で「V」字型に表現されている坂道(以下これを「V」字坂とする)をさしているのではないか。ただ、地形図には坂の名前までは表記されていない。よって、この段階では、この「V」字坂をとりあえず遠入坂と仮定しておく。

A 「足尾通見取絵図」にみる遠入坂
 「足尾通見取絵図」という絵図がある。江戸の文化期(1804〜1818年)に作成されたものである。
 「絵圖并大概書」という絵図の作成経緯を記した史料の訳文(『足尾通見取絵図 全五巻』 東京美術 1993年)によると、寛政期(1789〜1801年)に幕府の命を受け、五街道とそれに付属する道路の絵図を制作し、1806(文化3)年の冬に幕府の書庫に収めたとある。「足尾通見取絵図」もその一部ということであろう。当時の足尾銅山街道とその沿道の状況が詳細に描写されている。
 この絵図のうち大間々町域の部分が『大間々町誌 基礎資料Z 大間々の絵図・地図』に掲載されており、絵図上に遠入坂の描写が見える。
 絵図の現物は東京国立博物館に所蔵されているらしい。これを復刻して解説版を付属させたものが東京美術から刊行されている。
 『大間々町誌 基礎資料Z』掲載の図版は絵図を縮小したものらしく、絵図中の文字までは判読しにくい。よって、東京美術の版を見ながら、その解説版(解説 井上定幸 岡田昭二 滝沢典枝)も参考にしつつ、遠入坂の位置を確定させたい。

B 「足尾通見取絵図」と地形図の照合(1) 桐原宿から遠入坂へ
 絵図と現在の地形図を照合させる。銅山街道の道筋といまの道路との位置関係や絵図上の遠入坂と当時からあっていまも現存する主要な建物、例えば寺院、神社などとの位置関係から、絵図上の遠入坂が現地形図上ではどの場所に相当するかを検証してみる。
(※絵図の略図はこちら。)
 まず、絵図上で桐原宿から遠入坂に向かうことを想定する。絵図の描写から桐原宿の中心は世音(せおん)寺の周辺であったことがわかる。世音寺のすぐ右下に高札(こうさつ―禁令などを板に書き民衆に掲示したもの)が描かれている。高札は集落の中心に立てられることが多かったらしい。また、世音寺の向かいには銅問屋の藤生家と銅蔵があった。
 絵図上では、遠入坂は世音寺前から街道を右に向かい、少し行ったところで街道が上に向きを変えたその先にある。絵図は東斜め上の位置から街道を鳥瞰したように描かれている。よって、絵図上の方角は絵図上部が西、下部が東、左側が南、右側が北である。とすると、遠入坂は桐原宿通りを北上したあと道が西に向きを変えたその先の場所にあることになる。道が西に向きを変える手前で、東の方向より大間々村から来る道が合流している。
 これを現在の地形図上で追ってみる。世音寺前から少し北に進み、そこから西に向かう道をさがす。世音寺から北に500メートルほど進んだところに十字路があり、そこを左折して西に向かうと、例の「V」字坂につながる。他にも桐原宿の通りから西に向かう道は何本かあるが、どれも崖にぶつかり、途中で行き止まりであり、そのまま道なりに進んで瀬戸ヶ原方面に抜けている道は「V」字坂以外にない。

C 「足尾通見取絵図」と地形図の照合(2) 大間々村から遠入坂へ
 つぎに当時の大間々村から遠入坂へ向かうことを想定する。
 絵図上で大間々村から遠入坂への道は、大間々村を左右(南北)に貫く大きな通りから上(西)にのびている。光栄寺からやや右(北)寄りの横町である。横町が本通りから分岐するすぐ下の位置に「二丁目」の文字がある。この横町を上(西)に進むと、桐原宿の通りと合流する。その先は上記の桐原宿から遠入坂に向かう道と同じである。
 絵図によると、大間々村二丁目から桐原宿に向かう道は、まっすぐな道ではなく、道の半ばあたりがやや屈曲している。この部分は坂道になっているようである。道の中央に短い横筋が数本描かれ、そこが傾斜した道であるよう絵図の表現が工夫されている。坂道の右手(北側)に山伏良源寺、大日堂が見える。
 この道筋を地形図に対応させる。まず、大間々村の本通りから遠入坂へ向かって西に折れる地点は、光栄寺のやや北側の位置であることから、いまの大間々町2丁目のバス停のすぐ北側であることがわかる。現在の大間々町の〇〇丁目という区画は、近世の頃に町割りしたときの区画構成が元になっているようなので、当時の大間々村二丁目は現大間々町2丁目とほぼ同じ場所である。
 そこから分岐する横町の通りを西に進んで、上ノ台を通過し旧桐原宿の通りに出る。そこで道は旧桐原宿の通りと直交し、通りを横切り西進すると、例の「V」字坂にさしかかることになる。
 これらのことから遠入坂=「V」字坂と断定してもよいのではないか。

D 「足尾通見取絵図」と地形図の照合(3) 遠入坂の形
 また、絵図と地形図で遠入坂の道形を比べてみても、遠入坂=「V」字坂であることは明確である。ここでいう道形とは、真上から見た場合の道筋の形状のことである。
 絵図においては、遠入坂の道形はひらがなの「く」の字のような形状に描写されている。崖をその中腹まで斜めに登り、そこから折り返すように方向を変え、坂の頂上まで登り詰めるように表現されている。絵図では「く」の字だが、これを現在の地図のように北が上になるよう図を回転させれば、道の形状はちょうど「V」字型になる。よって、先に遠入坂であろうと仮定した「V」字坂が絵図上で「く」の字に表現された遠入坂と同形状であることは明らかである。
 以上みたように「足尾通見取絵図」の大間々・桐原村部分のうち遠入坂が描かれた付近の様子と現在の地形図を見比べてみると、上ノ台の西側から瀬戸ヶ原の南端に至るくだんの「V」字坂が、近世の頃には遠入坂という名前であったことがわかる。これで遠入坂の位置が確定した。

E 文政期の町並みと遠入坂への道
 遠入坂の位置を示す資料をもう一点あげる。「文政年間町割概略図」(『大間々町誌 基礎資料Z 大間々の絵図・地図』「在郷町大間々の社会構成」に収録。斎藤厳氏が『大泉院日記』により作成、1827(文政10)年の町並屋敷配置絵図及び旧名称等を2500分の1地図に記入したもの。)という図である。
 この図に遠入坂に向かっているように表記された横町が記載されている。この横町は大日横町(中井辻子)という名称であったようだ。大日横町から須永惣右衛門と金子平右衛門の2軒の大きな屋敷をはさんだ南側に光栄寺がある。つまり、光栄寺から2区画分北側の横町の道が遠入坂に続く道であったことが読み取れる。この通りは、いまの大間々町2丁目から大日堂の南側を通過して桐原へ向かう道である。この道を道なりに進むと、遠入坂に行き着くことになる。
 よって、この「文政年間町割概略図」からも遠入坂の位置が特定できるのである。

次ページ につづく>

<はじめに にもどる
<コラムもくじ にもどる