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●コラム21 開拓地市野倉の巻き●

旧陸軍の飛行場跡をめぐる

 旧新田町の北部に市野倉という地区があります。

 この地区は、周辺の区画から斜めにずれた特殊な地割りで、なぜ斜めなのだろうと以前から不思議に思っていました。

 調べてみると、市野倉は戦後に開発された新しい農村集落で、もとは旧陸軍の飛行場であったことがわかりました。

 この旧飛行場跡地を自転車で1周してみました。
 ●1 生品村の飛行場●

@ 上州の諸街道
 戦時中に生品(いくしな)村(現太田市新田市野井(にったいちのい)、新田市野倉(にったいちのくら)など)の北に陸軍の飛行場があったことは『上州の諸街道』(相葉伸編 みやま文庫 1971年)という本を読んで知った。

 『上州の諸街道』には、群馬県内の、近世に発達したおもな街道のうち中山道、三国街道、日光例弊使街道をのぞいた諸々の街道が紹介されている。
 知名度や歴史上の重要性などを考慮し、街道の格付けをすもうの番付に例えるとするならば、上記3街道は横綱・大関にあたろう。それら3つの街道よりもやや格下の関脇・小結あたりに相当するであろういくつかの街道が取り上げられ、その歴史や道筋などが解説されている。
 群馬県東部の街道では、足尾銅山街道、古戸(ふっと)街道、会津裏街道(および根利(ねり)道)の3街道が紹介されている。

 足尾銅山街道は足尾銅山と利根川の平塚河岸(現伊勢崎市境平塚)・前島河岸(現太田市前島)を結ぶ。足尾の銅を江戸へ運ぶための道である。
 古戸街道は桐生と古戸の渡し(現太田市古戸、利根川にかかる刀水橋(とうすいばし)付近にあったとされる)を結ぶ。桐生の絹織物を江戸へ運ぶ際に利用された道である。桐生道ともいう。太田金山産のマツタケを将軍に献上するための行列も通った。
 会津裏街道は大間々から赤城山の東麓を通って片品川沿いに会津方面へ向かう道である。会津からの物資や沼田のまゆが大間々の市へ運ばれた。また、沼田方面から日光へ参拝する人々も歩き、日光裏街道とも呼ばれた。おおまかま道筋としては、ほぼ現在の主要地方道62号沼田・大間々線にあたる。

A 飛行場跡の開拓地
河岸街道。通称、蛙又(かえるまた)三さ路。 『上州の諸街道』の足尾銅山街道の章に、岡登景能(おかのぼりかげよし)により大原宿が整備される以前に銅輸送に使われたとされる道、河岸街道(かしかいどう―左の写真、場所は太田市新田多村新田)について述べるなかで「その南東には昭和12年に(建設された)熊谷飛行学校新田分教場跡に開拓地市野井(ママ―市野倉のことか?)がある。」という記述がある。
 また、古戸街道の章に、古戸街道の脇道として使われた道を紹介するなかで「この道は、山之神(やまのかみ)で旧生品飛行場を横切り松尾神社から小金井に入った。」とある。
 これらに熊谷飛行学校新田分教場跡と旧生品飛行場という言葉が出てくる。旧生品飛行場とは一体どこのことだろうと思ったが、場所から判断していまの市野倉地区のことだと気づいた。これを読んで思った。市野倉は、もとは飛行場だったのか、と。

B 斜めにずれた区画
 市野倉については、周辺の道路から斜めにずれた特殊な区画を前々から疑問に思っていた。なんでこんな地割りになっているのだろうと。
 旧新田町の地図を見ると、町の北部に、東西南北の方向にほぼ真っ直ぐ道路が走っている地域のなかで、一区画だけ道路が斜めにつけられている地区が目に入る。碁盤の一部を長方形にくり抜いて、その長方形だけを少し回転させ、再び貼りつけたような格好になっている。ここが市野倉である。(市野倉の地図はこちら航空写真はこちらを参照。少々サイズ大きいです。)
 区画内の道路は規則的な碁盤割りになっている。地区の東端に自動車部品の工場などがあり、他は畑が広がる地域である。ヤマイモや飼料用の作物の畑がおもである。土壌の質が稲作には適さないためか田んぼは見当たらない。酪農や食肉用の大規模な牛舎も目立つ。

C 市野倉マジック
 以前、太田市に越してまもない頃、サイクリング中に市野倉を通り過ぎたことがあった。市野倉地区を抜けると、思っていた方向とだいぶずれた場所に出てしまい、直進したはずなのにおかしいなと思ったのを覚えている。
 地区全体が斜めに傾いているため、市野倉地区内の道路は南北に走っているように見えても実際は南東から北西に抜けている。東西の道は北東から南西方向に向かっている。真っ直ぐ北に向かって走ったつもりでいたのだが、実際は北西に走っていたのである。思いのほか西に出た。
 慣れていないと、ここでは方向感覚が狂う。あとで地図を見て、このわけに気づいた。これ以後、この現象を自分のなかで市野倉マジックと呼ぶことにした。 

 ●2 市野倉地区の変遷 その1●

@ 彦九郎日記と広大な松原
 ここで市野倉地区の変遷をふり返ってみたい。開発が進められる以前は、この周辺は広大な平地林であった。松原が広がっていたという。『上州の諸街道』に「この街道(河岸街道)付近はかつては深い平地林であり、江戸時代には御用材として江戸送りされていた。」とある。

 高山彦九郎の日記『忍山湯旅の記』に江戸中期のこの周辺の様子が記録されている。1775(安永4)年の7月13日、彦九郎は、桐生忍山温泉からの帰り道にこのあたりを歩いている。その時の様子をこう記録している。
「是レより左り山を見て南へ行く松森へ入る、是れより阿佐美の生品森よし、石鳥井有り、…猶南へ行きて山の神ノ通りへ出す、西十八丁(約2キロ)斗り大原、巽(南東)二里大田也、酒屋にて酒のミて尾嶋の方への道なり、左り巽へ向ふ、細谷に至るまで巽に向かふなり、松原を三十丁 (約3.3キロ)斗り経て小金井村也」
 最初の「左り山を見て」の山は、八王子丘陵の西部の山、荒神山あたりをさしているのだろう。「阿佐美の生品森」というのは石鳥居があると書かれているので、いまの笠懸町阿左美の生品神社のことだろう。「松森へ入る」とあるので、生品神社の周辺はマツの林が広がっていたことが想像される。

A おじま街道
 『藪塚本町誌』の近世の編、「交通と通信」の章に「おじま街道」が紹介されている。その道筋は牛の塔から南下して山之神を通り、村田、木崎を経て前島河岸へ続いていたとある。
「寛政の偉人高山彦九郎が日記の中で『赤城行』『忍山湯旅の記』の帰路、『北上旅日記』の往復、『赤城從行』の帰り道、一休みし或いは酒を呑んで行く姿が見える。」
とあり、彦九郎が忍山からの帰り道に通ったのは、この「おじま街道」であろうと推測している。

 1885(明治18)年の迅速図(地図 こちらを参照。少々サイズ大きいです。)を見ると、牛の塔から山ノ神村に出て、そこからほぼ真南に進む道が書かれている。山ノ神村の南で南東方向に分岐する道も見え、彦九郎の日記中の「猶南へ行きて山の神ノ通りへ出す、…尾嶋の方への道なり、左り巽(南東)へ向ふ」という記述と合致する。
 これにいまの市野倉周辺の地図を重ねてみる。(こちらを参照。少々サイズ大きいです。)すると、彦九郎が歩いたであろうとされる道は、山之神から市野倉に向かい、市野倉の北端の角から真っ直ぐ南進し、ちょうど市野倉の中心あたりで南東に方向を変えることになる。つまり、彦九郎は、いまの市野倉地区の中央あたりを北から南へ縦断するように歩いているのである。

 山ノ神村を過ぎた後の様子について「松原を三十丁斗り経て小金井村也」と記述している。このことから山之神から小金井に至るまでの3キロ弱の地域(=現在の市野倉)には、当時、マツの林が続いていたことがわかる。地図で測ると、山之神から小金井まではちょうど3キロほどである。
 迅速図の記号を見ても、この周辺は樹林帯であったことが読み取れる。

B 蛙又の道しるべ
蛙又(かえるまた)三さ路の道しるべ。北大原ヲ経テ大間々、西南綿打村金井ヲ経テ境、東南市野井ヲ経テ木崎などの文字がある。 市野倉地区の一番西の角から少し北西に進んだ場所に石柱の道しるべが立っている。この場所は、蛙又(かえるまた)三叉路と呼ばれているようである。
 この道しるべには「昭和八年六月建立 生品村山林保護組合」といった銘がある。現在、このあたりに山林はなく、いまの様子から「山林保護組合」とは全くピンとこないが、昔この一帯が平地林であったと聞けば納得がいく。

C 松原の片りん
二ツ山古墳付近の松並木。 ほんのわずかではあるが、いまもマツの木が残っている場所がある。市野倉の南東、二ツ山古墳があるあたりと市野倉の南西、主要地方道39号足利・伊勢崎線の北側のあたりである。
 畑の間を抜ける作業道の両側などに松並木のような形で、ところどころマツの疎林が点在している。このわずかばかりのマツの林にかつての広大な松原の片りんがしのばれる。

 ●3 市野倉地区の変遷 その2●

@ 陸軍熊谷飛行学校と新田分教場
 生品のマツの森に1935(昭和10)年、陸軍の飛行場が建設されることになる。正式には陸軍熊谷飛行学校新田分教場といったらしい。
 『埼玉大百科事典』(埼玉新聞社 1971年)には陸軍熊谷飛行学校について
「昭和10年(1935)大里郡三尻村(現熊谷市三尻)に設立。主として少年航空兵の教育に当たった。」とある。
 要は軍のパイロットを養成するための学校であり、その飛行場は、戦闘機の操縦を習うための練習場であった。熊谷飛行学校の跡地には1954(昭和29)年に航空自衛隊熊谷基地が置かれた。自衛隊に隣接して御稜威ヶ原(みいずがはら)工業団地が整備され、日立金属や秩父セメント(当時)の工場をはじめ、多くの工場が進出している。

A 消えた山林
 旧生品村の北部の平地林に建設された飛行場は、熊谷飛行学校の分校のような施設だったのだろう。
 『新田町誌』によれば、飛行場の建設予定地は「当時、生品村北東部で旧強戸村、藪塚本町に隣接する広範な平地林の一部」であり、4分の3が松林で、残りはナラなどの雑木林であったという。飛行場の建設により生品村北部山林の約6割が消えることになったらしい。
 飛行場の大きさは、東西約1850メートル、南北約1350メートルで、総面積は約249万平方メートルであった。工事は2年間にわたっておこなわれ、1938(昭和13)年3月に最初の練習機が飛んだという。

B 練習機の写真
 「同飛行場に関する資料は軍事機密のため、何一つ残されていない。」とあり、唯一の資料として町民の方の提供による練習機の写真が掲載されていた。陸軍九五式一型乙練習機という名の飛行機で、オレンジ色の機体から「赤とんぼ」と呼ばれていたそうだ。
 その写真は生品村の上空を飛行中のものらしく、背景には畑や雑木林が見える。旋回する瞬間を撮ったものか、機体がやや斜めに傾いている。画質も鮮明で、プラモデルの箱の画に使われてもおかしくないほどにきれいに撮影された写真である。

C 赤とんぼのプラモデル
 プラモデルで思い出したのだが、小学生の頃、この「赤とんぼ」のプラモデルを作ったことがあった。自衛隊熊谷基地のさくら祭りの露店で購入した。
 自衛隊のさくら祭りというのは、年に一度だけ自衛隊の敷地を一般に開放するイベントで、熊谷基地内にサクラの木が多いことから、確か4月の1週目の日曜日におこなわれていたように思う。
 そのプラモデルはかなり精巧な作りのもので、難しすぎて完全には作れなかった。なんとか飛行機の形にだけは仕上げて、天井から釣り糸で吊るして悦に入っていたように記憶している。
 昔、飛行学校で使われていた練習機のプラモデルを、その跡地にできた自衛隊のお祭りで売っていたというのは妙な符合を感じるが、単なる偶然であろう。

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