●コラム18 彦九郎の旅『忍山湯旅の記』の巻き●

高山彦九郎『忍山湯旅の記』の跡をたどる

往路編その2 松原の渡し〜忍山温泉


 高山彦九郎の日記『忍山湯旅の記』の跡をたどる試みの3回目です。

 前回の続きで、渡良瀬川から忍山温泉までの区間を走りました。

 日記の記述を参考にしながら、彦九郎が歩いた跡を訪ねてのポタリングです。今回は忍山温泉があったあたりも探索してみました。



●1 松原の渡しから境野村へ―昔の街道はずいぶんと狭かった●

@ 忍山温泉の跡を見に行くことにする

 高山彦九郎の日記『忍山湯旅の記』を読みながら、彦九郎が歩いた跡を、自転車で走ってみるという試みの3回目である。『忍山湯旅の記』は、彦九郎が桐生の忍山温泉を訪ねた際に記した旅の日記である。

 前回は細谷村を出発してから松原の渡しで渡良瀬川を越えるまでの区間を走った。細谷村は彦九郎の生家があった村で、現在の太田市細谷にあたる。松原の渡しは、渡良瀬川にかかる渡し場で、現在の松原橋よりも少し上流に位置していた。今の太田頭首工(農業用水を取水するための堰)のあたりとされている。


忍山温泉の薬師堂。

 今日は、渡良瀬川を渡ったところから忍山温泉までの区間をたどるつもりである。忍山温泉といっても、今はないので、正確には温泉宿があったあたりである。忍山温泉は、江戸時代には数軒の温泉宿があり、ずいぶんとにぎわっていたらしい。その後、温泉は出なくなった。最後まで営業していた旅館も戦後には廃業したという。

 桐生市の北部、忍山川が桐生川に合流する場所から忍山川に沿って、約2キロほど北にさかのぼる。車道わきの斜面の草むらに、温泉をくみ上げていた井戸の跡がある。井戸のすぐ後には温泉明神と薬師堂(左の写真)が残っている。日記の記述によると、彦九郎が滞在した温泉宿はこの温泉明神から約650メートルほど南にあったようだ。

 彦九郎は、松原の渡しから境野村、新宿村、桐生新町(現在の桐生市本町)を通り、忍山まで歩いている。というわけで今回は、渡良瀬川から桐生の本町通りを経て、忍山温泉の跡まで行ってみたい。


A まずは松原の渡し 松原橋を渡って川の対岸へ

 朝6時に自宅を出発した。前回の続きなので、松原橋まではノンストップで来た。堤防上のサイクリングロードを太田頭首工の対岸の位置まで走る。松原橋と頭首工のゲートとの距離はほんのわずかである。このわずかな間にも犬の散歩やウォ―キングをする人たち数人とすれ違う。

 家を出た頃は、上空には均一でうすい雲がかかり、東の方向の低い空は、乳白色にけむっていた。一日中曇り空かと思われたが、しだいに陽が差して、明るくなってきた。空に青い部分が見え始めている。9月も2旬めに入るが、依然として残暑が厳しい。今日も暑くなりそうだ。

 彦九郎らは、渡良瀬川を渡った後、境野村と新宿村を経て、桐生新町に向かっている。境野と新宿は今も桐生市の町名としてそのまま使われている。桐生新町までは、当時街道だった桐生道を普通に歩いて行ったのだろう。桐生道の経路については、前回同様『群馬県歴史の道調査報告第8集 古戸・桐生道』(群馬県教育委員会 1981年。以下『古戸・桐生道』)を参考にした。

B 境野の白滝神社 わずかに残る旧道の面影


 『古戸・桐生道』によれば、桐生道の境野・新宿の区間は、住宅の造成や新道の建設が進み、旧状をとどめている場所はごくわずかという。境野町の白滝神社のわきの小路は、そうした旧道の原形が残るわずかな場所のうちのひとつだそうだ。今では当然、アスファルトで舗装されているわけだが、道幅や道の曲がり具合から、旧道のもとの形状をうかがい知ることができる。

 サイクリングロードを外れて、土手を降りる。境野の中学校と小学校が並んでいる。学校の西側の道路に沿って、北西に少し走り、白滝神社の小路に入る。道路から斜め右に折れている小さな路地で、うっかりすると見落としてしまうようなか細い道である。

 桐生道の標準的な道幅は1間半(約2.7メートル)であったという。実際に走ってみると、小路の幅は、軽自動車1台がやっと通れるくらいである。しかも直線の部分というのはなく、全体に緩やかなカーブを描いている。現代の感覚からすると、この道の幅はごくごく狭い。

境野の白滝神社。この脇の小路は旧状を残す。

●2 境野村から新宿村へ―水車で糸を繰るとは?●

@ 昔、水車がまわっていた境野、新宿あたり

境野町2丁目、桐生・岩舟線の北側の通り。  写真は境野町2丁目、主要地方道67号桐生・岩舟線のすぐ北側の通りである。この通りも昔の桐生道の面影を残す場所のひとつであるらしい。道幅は変わっているものと思われるが、経路はほぼそのままであるようだ。

 彦九郎が歩いた頃には、この道の端に水車が並んでいたという。いまは何も変わったところのない静かな住宅地である。通りの写真など撮っていると、不審者扱いされかねないようなごく普通の家並みが続いている。

 日記には、境野・新宿村では道の両側の家々は織物業を営んでいる家が多く、道の端に水路が流れ、水車を使って糸繰りをしていたとある。また、人の身なりもこぎれいで、特に絹織りをしている女性は、外に出ることがないので、肌の色が白く、美しいとも書かれている。


A 水車は糸繰り作業に使われていた

 江戸時代の桐生には、町の至るところに水路があった。渡良瀬川や桐生川から取水した水を水路に流して水車を回し、その動力を機織りに利用していた。 水車は昭和の初期まで使われていたらしい。最盛期には数百台の水車が稼動していたという。特に多かったのが新宿や境野あたりの地区だったという。

 こうした桐生の水車利用の歴史については、HP『新・あすへの遺産 桐生織物と撚糸用水車の記憶』に詳しい。 右の写真は天満宮の境内にあった複製の水車。

 彦九郎が歩いた当時は、糸繰り行程に水車が使われていた。彦九郎は、水車を使って糸繰りをする様子を

「家の前小溝流る水車を以て綱を家に引はゑて糸をくる、奇異なる業なり」

と記している。ここでいう「糸をくる」とは「かせ状の生糸を枠に巻き取る作業で、機織の準備行程」(『桐生織物と森山芳平』 亀田光三著 みやま文庫 2001年)のうちの一つである。

(後日、昔使われていた織物の機械や道具が展示されている資料館、織物参考館“紫”へ見学に行きました。その時の様子はこちらで。)

天満宮の境内にあった水車。

B 彦九郎の見た水車から画期的な発明が生まれた

 桐生の織物の歴史が書かれた本や資料を読むと、水車式八丁撚糸機(はっちょうねんしき)の話が必ずといっていいほど紹介されている。水車式八丁撚糸機は1783(天明3)年に岩瀬吉兵衛によって発明されたと伝えられている。岩瀬吉兵衛は織物用機械を作る職人であった。この発明により、桐生の織物づくりの生産性は飛躍的に向上したとされている。

 八丁撚糸機とは、撚糸(ねんし)を大量に生産することのできる紡車をいう。紡車とは糸によりをかける時に使う道具のこと。絹糸は一本一本では細いので、数本を束ねてよりをかけ、太い糸にして使う。特にちりめんを織る場合には、メートルあたり何千回もの強いよりをかけた糸が必要とされる。八丁撚糸機は、大きな車を回転させることにより、十数本の糸を一度にまとめてよることができた。

 八丁撚糸機の大車を回すには力がいる。それまでは人が車を回転させていた。この動力に水車を利用したのが水車式八丁撚糸機である。屋外の水路に設置された水車と屋内に置かれた撚糸機をシャフトとチェーンでつなぎ、水車の回転力を撚糸機の車に伝えるという構造になっていた。

 彦九郎が桐生を歩いたのは1775(安永4)年。水車式八丁撚糸機が開発される8年前のことである。この頃、すでに多くの水車が町中で活躍していたのである。

 水車式八丁撚糸機の開発と普及は、桐生の織物産業における産業革命ともいわれる。新しい発明というのは、何もないところからいきなり生じるものではない。すでにあるものどうしを関連づけたり、組み合わせることによって、これまでとは違う画期的なものが新たに生み出されるのである。

 水車を動力とした画期的な織物機械が発明され、その機械の普及により桐生の織物産業が急速に発展した。その数年前には、それを可能にする環境的な条件がすでに整っていた。こうしたことが、彦九郎の見聞した境野・新宿村における水車利用の状況から読み取れるのである。

●3 桐生新町へ入る―江戸時代の計画都市 ●

@ 盛運橋のあたりが桐生新町の玄関口

 この後、桐生・岩舟線に合流し、400メートルほど走ったところで、桐生・岩舟線から斜め右に分かれる道を北西に向かう。ほぼ道なりに進むと、桐生の本町通り(主要地方道66号桐生・田沼線)に行き当たる。この間は住宅や小さな工場が並ぶ。本町通に出る手前は昔ながらの小さな商店街である。


橋の端にあったタイル画。昭和の初めの盛運橋。  本町通りに出て、少し北に行くと、新川にかかる盛運橋を渡る。川といっても水は流れていない。もとは川だったのであるが、1972(昭和47)年から1979(昭和54)年にかけて工事がおこなわれ、水は地下を流れるようになった。

 新川は、中世の頃、桐生氏により桐生城を守るための堀として開削された水路である。昔は下静堀と呼ばれていた。いま見ると、周りの道路から一段低くなったくぼ地の底に細い道が続いているような感じである。もとは川だったといわれれば、なるほどとうなずける。

 橋のたもとにライオンズクラブの石碑があって、1933(昭和8)年5月当時の盛運橋の風景がタイル画に再現されていた。


A 本町通りが広く、まっすぐな理由

 本町通りは、道の両側に、さまざまな商店や多くの飲食店が並ぶにぎやかな通りである。広い道路が天満宮の大鳥居まで続いている。盛運橋から天満宮までの距離は約1.8キロ。その間は全く曲がった場所のない同一幅のまっすぐな道である。

 この道がかつての桐生新町の中心道路であった。いまも桐生のメインストリートであることには変わりはない。本町通りがこうした道幅の広い直線道路であるのには理由がある。桐生新町は、江戸時代の初めに幕府の役人によって計画的に作られた町だからである。

 江戸幕府が開かれ、桐生とその周辺の村々は幕府の直轄地となった。いまの桐生市、大間々町、東村の一部が含まれる。かつて桐生氏の領地だったこの地域の首都となるべき町を作り上げるため、代官大久保長安の手代(代官の下で実務を担当した役人)であった大野八右衛門という人物が町づくりにあたったと伝えられている。

現在の本町通り。盛運橋から写す。

B 道の両側を長方形に区画し、分譲した

 新町の建設予定地は、それまで荒戸原と呼ばれていた場所だった。その地名から想像されるとおりの手つかずの土地であったという。大野八右衛門はまず、新町の中心となる通路を計画した。荒戸原の北端から南へ直線の通路を引いた。通路の距離は16町(約1750メートル)、道幅は5間(約9メートル)であった。

 さらに通路の両側の土地を間口6間、奥行き40間の長方形に区切り、それを1区画とした。1間を1.8メートルとして計算すると、間口10.8メートル、奥行き72メートルの土地になる。面積は777.6平方メートル、坪数でいうと約236坪。現代の感覚からいっても、1軒の宅地の面積としてはずいぶんと広い。かなり細長い形状ではあるが…。ここに近隣の村々から移住者を募り、人口を増やし、町を形成していった。

C 天満宮を起点に番号町名をふる

 また、通路の北端の天神社を町の起点とした。現在の天満宮である。天神社から順に1丁目から6丁目までの番号町名をふった。いまも本町通りを北に向かうと、天満宮の大鳥居の正面に突き当たる。現在の桐生・田沼線は天満宮の鳥居前で右に迂回する格好になっているのである。

 彦九郎は桐生新町について次のように記述している。

「新町は南北への通り也、六丁ばかり人家多フし、町の中溝流る、是レも水車を以て糸をくる、富家多フし」

 ここで通りの距離を六丁(町)と書いている。天満宮から南に6町(約650メートル)というと、町の長さは現在の3丁目あたりまでしかなかったことになる。いまの本町通りの半分くらいの規模である。それとも南北の通りのうち6町ほどの間に人家が集中していたという意味だろうか。


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