●コラム16 彦九郎の旅『忍山湯旅の記』の巻き●

高山彦九郎『忍山湯旅の記』の跡をたどる

往路編その1 細谷村〜松原の渡し


 高山彦九郎の日記『忍山湯旅の記』の跡をたどる試みの2回目です。

 今回は往路編その1として、生家のあった太田市細谷から渡良瀬川までの区間を走りました。

 日記の記述と旧い地図を参考にしながら、彦九郎が歩いた跡を訪ねてのポタリングです。



●1 細谷村を出発―百姓もしやがらずに●

@ 高山彦九郎の旅 村では評判が悪かった

 高山彦九郎は幕末の志士達に多くの影響を与え、明治維新を導いた尊王思想の先駆者で、全国をくまなく歩き、数多くの人々と交流した旅の思想家(『高山彦九郎記念館 常設展示案内』の清水聖義太田市長のあいさつ文から)ということになっている。彦九郎の生家は豪農で、彦九郎が生業ももたず、武士でも学者でもないのに全国各地を旅してまわれたのは、家が裕福であったからである。家業を手伝わずにあちこち歩き回っていたので、当時、地元の村では彦九郎の評判は甚だ不評だったらしい。司馬遼太郎の「高山彦九郎の旅」(『街道をゆく3 陸奥のみち、肥薩のみちほか』 朝日新聞社 1978年 に収録)にこんなくだりがある。

 「(彦九郎は)上州新田郡細谷村で大きな耕地をもつ百姓の次男坊であった。(中略)

 彦九郎は気ずい気ままに諸国をほっつき歩いていたが、その故郷の村では当然のことだが、ひどく評判がわるかった。彦九郎は、旅費は家から持ち出してゆく。まじめに百姓をしている兄こそたまらなかった。

 ―百姓もしやがらずに。  と、兄はたまに彦九郎が帰ってくると咆えたてて叱った…」

 高山彦九郎「忍山湯旅の記」の跡をたどるという試みの2回目である。今回は細谷の家を出発してから渡良瀬川を渡るところまでの間をたどってみた。前回の鳴神山登山は徒歩だったが、今日は自転車で行くことにした。

A まずは彦九郎宅跡へ 現在は畑、隣に記念館


解説板の奥の畑が彦九郎宅跡。  彦九郎の生家は現在の太田市細谷町にあった。まずは彦九郎宅跡へ向かう。宅跡は、現在は畑である。畑の南側の生け垣のところに、宅跡であることを示す石柱や高山彦九郎についての解説板がある。

 今の時期は畑の東半分がムギ畑になっていた。畑の北の端に井戸の跡がある。といっても地面に穴があいているわけでもなく、少し地面がくぼんでいるだけである。井戸跡と刻まれた石柱に囲まれていなければ、畑の他の部分と見分けはつかないだろう。畑の西側に一軒の農家(蓮沼家―高山家の本家にあたる)をはさんで高山彦九郎記念館がある。

 1775(安永4)年の秋に、彦九郎は叔父の萬郷と桐生の忍山温泉に遊びに行く約束をした。日記の冒頭には「叔父萬郷君のさそいに因て忍山湯入の定めありぬ、(略)五ツ(午前8時)過ぎに叔父萬郷細谷村に至り玉ひて、四ツ(午前10時)時分に細谷村を立ツ」とある。由良(ゆら)村から新野(にいの)村、鳥山村を経て、強戸(ごうど)村へと向かっている。


B 旧い地形図を見ながら彦九郎の跡をたどる

 今回、彦九郎が歩いた跡をたどるにあたり、明治の頃の地図のコピーを携帯してきた。これは、彦九郎研究会の方々が「忍山湯旅の記」の跡を訪ねるといった企画の際に使用した資料らしい。以前に高山彦九郎記念館を訪れた際、係の方からいただいた。

 研究会で忍山温泉を訪ねた時には、その係りの方は記念館に在籍されていなかったそうで、資料の詳細はよくわからないとのことだったが、見たところ1885(明治18)年の迅速図(二万分の一の縮尺の地形図。地図の角に参謀本部陸軍測量局と印字されている。)の太田町、桐生新町、境町(大日本測量株式会社 1970年復刻)などを貼り合わせて、縮小コピーしたもののようだ。係の方が、彦九郎が歩いた(であろう)道を蛍光のマーカーでなぞってくれた。

 現在の地図と見比べてみると、当然のことながら、だいぶ様子が変わっている。由良、新野のあたりの道で、当時から残っていて、見てすぐにそれとわかるのは日光例弊使(にっこうれいへいし)街道くらいか。よって、彦九郎が歩いた道をそのままたどるというわけにはいかない。だが、昔の村の名前は現在も町名や字名としてそのまま残っている。そのため、だいたいの経路は想像がつく。そこで、日記に書かれた村の位置を、旧い地図上で確認して、コンパスを使って進む方向だけ合わせ、適当な道を走ることにした。


●2 由良村から新野村へ―金男根大明神とはなんぞや?●

@ 最初はとにかく真北へ向かう

 迅速図を見ると、村々の間は田んぼと林である。由良村と新野村は、細谷村から見てほぼ真北にあたる。始めのうちはとにかく真北へ向かえばいいのだなと思い、彦九郎宅跡の横の道を北へと進むが、800メートルほど走ったところで、東武伊勢崎線の細谷駅に突き当たってしまう。早くも近くの踏み切りのある場所まで迂回せざるをえなくなった。

 伊勢崎線を越え、住宅地の間を抜けると、日光例弊使街道に出る。迅速図ではこのあたりが由良村の集落になっている。例弊使街道を渡ってさらに北へと進む。少し行くと、今度は主要地方道2号前橋古河線に行き当たる。この道は、略されて前古河(まえこが)線と呼ばれることが多い。

 この間はずっと住宅地である。ます目状に区画された土地にすき間なく住宅が建ち並んでいる。道路の向こうは自動車部品の工場などが並ぶ。前古河線はこの地域の主要路で、交通量が多い。車の流れがなかなか途切れず、信号のないところでは横断は不可能だ。ここでも先程の踏み切り同様、信号のある交差点までの迂回を余儀なくされる。道路を越えた先が昔の新野村である。

A 金男根大明神とは?

 日記には由良村に金男根大明神という祠があったと書かれている。日記の注釈に「金男根大明神―生殖器崇拝の淫祠」とある。これについて彦九郎は、一言、苦言を呈している。

 古い神社の跡地と伝えられる場所を地元の人が掘ったところ、金男根が出土した。これを金男根大明神として祀り、祠を建てたというのだ。この話を聞いた彦九郎は「どうせ橋の欄干のぎほうし(擬宝珠―手すりや欄干につける飾り。ネギの花のような形。)か何かが土に埋まっていたのを掘り出しただけだろう。それを大明神と呼んだりして…」などとあきれる。

 また、林道春(羅山)の『本朝神社考』のなかに、奥州に似たような(つまりは性器崇拝の)神社があると書かれていた、ともいっている。さらに「かく謂はれなき神名を初むる程の里なれば郷に至りては淫乱をならはしとして五倫の間乱れたり痛むべきの至り也」と嘆く。「こんないわれのないものを神様としてまつったりして、まったくけしからんな。こんな土地だからモラルの方も乱れているのだろう。やれやれ」といった感じだろうか。

 この祠のことはよくわからない。いつの間にかなくなってしまったのだろう。由良にこのような神社があるという話は聞いたことがない。まあ、昔、そんなのがあったんだ、くらいに思えばよいのか…。


●3 鳥山村から強戸村へ―新田掘りの樋と金山の小坂 ●

@ 鳥山交差点は昔、宿場だった

 新野からは東北に方向を変えて鳥山に向かう。日記では「由良村より北、新野の原へ懸りて新野村の人家を経て縄手(田んぼのあぜ道)を東北へ越えて中鳥山の宿と云ふ所へ出ツ」となっている。現在も新野地区の東側は田んぼが広がっている。あぜ道を通るわけにはいかないので、普通に車道を走る。田んぼのなかに警察署や消防署、役所の出張所などが並ぶ一角がある。

 主要地方道78号太田大間々線の鳥山の交差点に着く。ここは道が狭いわりに交通量が多い。車道と民家の生け垣や塀とのすき間がわずかで、腕をかすめるようにして車がすり抜けてゆく。交差点を過ぎるまで自転車を降りて転がして歩く。


通りの西の端に造り酒屋があった。  日記には、今の鳥山交差点の東西の通りが宿場だったと書かれている。通りの東の外れでしばらく休み、酒を飲んだ、とある。

 確かにこのあたり、いかにも旧家といった感じの家が多い。これらの家々に共通するのは、まず庭が広い、母屋が敷地の奥まったところにある、庭先にケヤキなどの大木があるといった点である。

 交差点の西側の通りは神社、医院、不動産屋、造り酒屋などが並ぶ。造り酒屋(今井酒造)の大きな蔵や黒い板塀などが昔の通りといった風情を感じさせる。といっても今井酒造の創業は1866(慶応2)年という話だから、彦九郎がここを歩いた頃には酒蔵はなかったのであるが…。


A 強戸村へ 昔の樋(とい)と今の分水工

 この後、彦九郎らは上鳥山まで北に行き、堀を渡って強戸村へ入った。「東に金山の松茂きに麓稲の蒼みたる所いとよし、北には小高き所に人家並ひて是レもまたよし」とある。

 県道を東に外れ、東武桐生線の線路を渡ると、あたりは開け、一面に田んぼが広がる。今は、彦九郎が歩いた時とは季節が違う(彦九郎が歩いたのは7月29日)ので、蒼々しているのはイネではなくムギである。東側には金山、北側には八王子丘陵が見える。彦九郎が記した「(人家の並ぶ)小高き所」というのは八王子丘陵の南すそあたりを指すのだろう。今も、民家が並んでいる。民家の上のほう、丘陵の中腹によく目立つのはゴルフ場のクラブハウスや大きな水道タンクだ。

 また、このあたりの様子について「彼ノ人家の前を掘流る是レを新田掘と云ふ也、郷戸(ごうど―現在は強戸と表記)の西に寺尾村見ゆ、猶ほりにさかのぼりて樋(とい)有り、水地中を行きて南に流る、土手の方への用水ならん」と記述している。

 新田堀はかんがい用の水路である。中世の頃に開発されたといわれている。渡良瀬川を水源として、今もこの地域の主要用水路としての役割を果たしている。寺尾村とあるのは現在の寺井町のことであろう。寺井という地名は江戸の中頃まで使われていたらしいが、その後の新田開発により寺井村に組み入れられたと聞く。寺尾橋という橋がある。この橋の名は寺尾の郷名の名残りであろう。

 堀に樋があって、水路が南へ分岐していることなども書かれている。この樋とはどの辺にあったのだろう。現在は強戸地区から吉沢地区に入るあたりに八瀬川への水門があり、丸山の北西、新田堀が北に向けてゆるく方向を変えるあたりに大谷幹線用水路への水門(大谷分水工)がある。彦九郎が記述した水が地下を流れる樋とは、現在の分水工とは別のものかもしれないが、気になるところである。


B 金山の鞍部を越えて丸山へ

 この後は丸山の横を通り、新田堀に沿って北へ行く。彦九郎は、強戸から丸山へ抜ける際に金山の北の小坂を越えたと書いている。今は新田堀に沿って東へ行っても、小坂と呼べるような起伏は全くないのである。もう少し南側を通って、金山の続きの丘陵部分を越えたのか? それとも、昔は金山丘陵が今より北の場所までのびていたのか? 

 迅速図を見ると、現在の主要地方道39号足利伊勢崎線が走るあたりまで等高線の丸みが北に広がって描かれている。道路工事などによって金山丘陵の北端部分は少し削られてしまったのだろうか? 新田堀の端に自転車を止めて、旧い地図と今の地形を見比べていたら、こんな点が気になった。

丸山全景。笠のようにも見える?

  丸山については「東に丸山の里、米山の薬師堂見ゆ、小山にして後は巌にしてやや笠置の思いを起す」とある。米山とは丸山の別の呼び名である。丸山の緑も色がずいぶん濃くなった。山全体がこんもりとしている。冬の間は雑木の葉が落ち、細い枝が山から無数に突き出ているようで、針山のようにも見えたのだ。

●4 桐生道を広沢へ―石神大明神の火打ち石●

@ 丸山の先で桐生道に合流

 丸山を過ぎると、新田堀沿いの道は桐生道に合流する。新田堀に沿って北に進んでいると、桐生道が右斜め後(南東方向)から合流してくる感じになる。桐生道は、桐生で生産された織物を、江戸へ運ぶために江戸時代に盛んに利用された道である。桐生から太田宿を通り(ここで日光例弊使街道と交わる)、古戸(ふっと)の渡しで利根川を越えた。妻沼宿を経て、熊谷宿に至り、熊谷で中山道に合流して江戸に向かっていた。現在の路線でいうと、県道316号太田桐生線から国道407号を南下し、国道17号で東京に向かうという感じになるだろう。

 丸山から桐生へは古くから街道が通っていたわけだから、彦九郎も当然この道を歩いたはずである。桐生道の経路については『群馬県歴史の道調査報告第8集 古戸・桐生道』(群馬県教育委員会 1981年)という資料に詳細に記されている。ここからは、この資料も参考にしながら日記の跡をたどってみる。


道の端の石塔。左が梵字の庚申塔。 A サンスクリットの庚申塔

 この新田堀沿いの道にはところどころに庚申塔などが立つ。反丸地区の道の右(東)側に大きな梵字(古代インドの文字、サンスクリット)の庚申塔(1800(寛政12)年)とこちらも大きな馬頭観音(1846(弘化3)年)がある。梵字が刻まれた庚申塔は珍しいという。両方の石塔ともかなり大きく、高さは台座も入れると人の背たけほどで、けっこう目を引く。分厚い丸石に彫り付けられた大きな梵字は、民家の間にあってはちょっと不思議な印象である。

 彦九郎は、新田堀沿いの景観については「人家西を山にして東を新田堀の本流流れて清き里也」と記している。今も、丘陵の山すそに建つ民家の並びや新田堀沿いの道の曲がり具合など、いかにも古道という雰囲気を残している。


B 石神明神の言い伝え 火打ち石を取ろうとしたら…

 道の途中、左手(西側)に岩神様と呼ばれる小社がある。その名のとおり、丘陵の崖がえぐられたようになっている岩場のくぼみに小さな祠がある。祠を見るには、洞窟の奥を入口の穴からのぞき込むようにしなければならない。

 日記には「堀の向ふ岩山のもとに石の小祠有り、石神明神と号するとそ、火打石出ツ」とある。この神社の言い伝えについて彦九郎は次のように記している。岩の神は火打ち石を他国へ運ぶことを禁じ、石を取られることを嫌っていた。以前に、堀を工事する人が岩をうがって火打ち石を取ろうとしたところ、崖崩れが起きてその人は死んだ。

 岩穴の前には落石注意、立入禁止とペンキで書かれた看板が立っている。横には1979(昭和54)年に吉沢から移されたという赤城神社の小さな鳥居と小社がある。彦九郎は、石神明神の印象を「いと暗きところ也」と書いた。崖崩れの言い伝えを聞くにおよんでは、不気味で、ある種近寄りづらい雰囲気も感じられる。

石神大明神。岩穴の奥に祠がある。

C 昔の村名の名残りを見つけた

 岩神様を過ぎて、しばらく走ると、太田と桐生の市境である。桐生市に入ってすぐの地区は、昔は一本木村といった。今は広沢町の一部で、昔の村名は残されていない。だが、県道の右(東)側に一本木食堂という小ぢんまりとした食堂がある。こんなところにも昔の村名の名残りをとどめているのである。このように、街を歩きながら、あるいは自転車に乗りながら、行政的な地区の名称としては消滅してしまった昔の町村名や字名をさがしてみるのもおもしろい。


●5 松原の渡しへ―賀茂神社の深い森と夕刻の渡良瀬川●

@ 松原から賀茂神社へ 森夏木茂けし

 丘陵のすそに沿って小さな坂を登り下りすると、松原橋の交差点に着く。松原橋の交差点は頭上を東西に国道50号線の高架が走り、その側道と県道太田桐生線がななめに交差するという変形の四さ路である。これに、もとからあった旧道が重なって、細かくいうと変形の七さ路になっている。車と一緒に通過するにはよいが、横断歩道を渡って通過しようとすると、3、4回の信号待ちをせねばならず、歩行者や自転車にとっては不親切極まりない交差点である。


賀茂神社の鳥居。新緑のモミジが鮮やか。  彦九郎らはこの交差点(昔は桐生道と大間々道の追分け)から西に向かい、広沢の賀茂神社に立ち寄っている。

 この神社は由緒ある古社で、境内は深緑の樹木に囲まれ、ひっそりとしている。ほんのわずかな距離に国道50号線が走り、車がひっきりなしに行き交っているというのに、その排気音や走行音は全く聞こえない。あたりの雑音は、境内の木々の重なりによって、すっかり遮断されてしまうのだろう。いきなり別の世界に連れてこられたのかと錯覚するくらいの静けさである。

 神社を囲む緑は桐生市の自然緑地保護区に指定されているらしい。説明板には「コナラ、ムクノキ、モミ、シイノキ、スギ、…などの混生林で、自生と植栽があい半ばした緑の森となっています。」と書かれていた。彦九郎の日記には「森夏木茂けし、社の後は山也」とある。


A 松原の渡しの今

 桐生道をたどるには松原橋の交差点から北西方向にのびる細い道路を行く。右(東)から新田堀が合流してくる。この道路を新田堀に沿うようにほぼ道なりに進む。すると、右手(北側)に渡良瀬川の堤防が見えてくる。ここを右折し、突き当たった先が松原の渡しである。

 松原の渡しとはいえ、現在の松原橋とは別の場所だ。橋より少しばかり上流にあたる。渡し場があった場所には太田頭首工と呼ばれる巨大なコンクリートの堰が造られている。頭首工とは河川から農業用水を取り込むために設けられた堰、水門のことである。昔はこの場所に待(まち)堰という堰があり、ここから水を新田堀に引いていた。

 彦九郎らはここを渡って渡良瀬川を越えた。

松原の渡しがあったあたり。現在は太田頭首工のゲートがある。

B 彦九郎が渡良瀬川を越えたのは何時ごろか?

 日記には「松原の渡し也、…渡しのこなた新田堀の源、渡良瀬川より分る、ここを歩渡りす、凡ソ三十間(約54メートル)ばかり也、渡りて綱越しにて渡(良)瀬川を渡る、川幅凡ソ壱丁(約109メートル)ばかり北へ渡る也」とある。ここに書かれる「綱越し」とは「ろや棹を使わず、両岸にわたした綱をひきながら、船を動かすもの」(『群馬県歴史の道調査報告第8集 古戸・桐生道』)である。

 渡良瀬川の堤防に立って広い河原や川向こうの街並みを見渡してみる。風が冷たく感じられた。そろそろ日が沈みかける時刻である。彦九郎らが川を越えたのは、今くらいの時刻だったか、あるいはもう少し早かったか。いずれにしても夕方である。賀茂神社を参拝し、道端の酒店で飲食した後に広沢を出たのが、七つ時分(午後4時頃)だったと書かれている。

 うっすらと赤みを帯び始めた空を背景に、あたりの山々が青みがかった濃い紫色に染まっている。自転車なので暗くなるまでに家に戻らねばならない。今日のところはここで引き返す。次回は松原橋を渡ったところから彦九郎の旅をたどるつもりである。

 総走行距離41.04キロ。(訪問日 2005/05/05)


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