●コラム15 鳴神山登頂記の巻き●

高山彦九郎『忍山湯旅の記』の跡をたどる

雷神岳登頂編


 アカヤシオの咲く鳴神山へ登りました。

 高山彦九郎の日記に『忍山湯旅の記』があります。彦九郎が桐生の忍山温泉を訪れた際の旅日記です。そのなかに鳴神山(日記では雷神岳)に登った日の様子が書かれています。

 単なる鳴神山登山では新鮮味がないので、彦九郎が歩いた跡をたどりながら、鳴神山に登ってみました。

 なお、この高山彦九郎の『忍山湯旅の記』の跡をたどるという試みは今後も続ける予定です。今回はその第1回目の雷神岳登頂編です。

山頂付近を彩るアカヤシオの花。


●1 高山彦九郎『忍山湯旅の記』とは?●

 以前に本ホームページの「第24回 忍山林道の巻き」を書くにあたり、高山彦九郎が残した日記のなかに「忍山湯旅の記」という旅日記があることを知った。この日記は、彦九郎が叔父の万郷君とともに桐生の忍山温泉を訪れた際に見聞きしたことを綴ったものである。江戸時代の桐生や忍山の様子をいまに伝える史料として、しばしば引用される。(高山彦九郎については高山彦九郎記念館のHPを参照。上記中の「忍山湯旅の記」や「万郷君」の文字をクリックするとHP中の関連ページが表示されます。)

 1775(安永4)年、7月29日の夜に忍山に着いてから、8月13日の朝に細谷村(現太田市細谷、生家があった)に向けて出発するまでの16日間の忍山温泉滞在記である。この日記を読んでみたところ、滞在中の8月10日に鳴神山(日記では雷神岳と表記されている)に登っていることを知った。そこで、今回のコラムではこの日記の記述をもとに、彦九郎が歩いた跡をたどりながら、鳴神山へ登ってみることにした。


●2 忍山温泉から大滝へ●

 忍山温泉の湯本と鳴神山の大滝登山口がある木品(きじな―地区の名前)との間には、標高600〜700メートル程度の尾根が南北に走っている。彦九郎の雷神岳登頂記は、この尾根を乗り越えるところから始まる。八五郎という人物の案内で、忍山から高澤(こうざわ―当時の村の名前、登山口がある)まで、道のないやぶ山を歩いている。日記には「道もなく木の茂みの中を分け行く事甚だ岨也」と書かれている。

 ここで彦九郎らが歩いた場所は「温泉明神の前へ出でて明神より半町(約54メートル)ばかり北より西へ山を登る、道もなきところなどの急なる所を西北と半里(約2キロ)ばかり登りて山の頂也」となっている。だが、いまとなってはコースがよくわからないし、忍山川と高沢川の間の山域には、これといった道もなさそうな感じである。今回は、この部分は省略して、大滝登山口からスタートすることにした。


登山口にある石鳥居。  この登山口から登る道は、鳴神山への登山道のなかで、最も一般的なコースのうちのひとつである。ちょうど新緑の時期でもあるし、空は快晴である。高沢川沿いの県道を走って、登山口の手前まで来ると、道の端には10台以上の乗用車が停められていた。他県ナンバーも多く、そのほとんどが登山者のものと思われる。大手旅行代理店の登山ツアーの大型バスや登山サークルがチャーターした中型バスの姿もある。これだけ多くの登山者が大挙して登っているとあっては、さほど広くない鳴神山の山頂は、サクラが満開の週末の公園のような状態なのではないか?

 登山口には大きな石の鳥居がある。この鳥居は明治に入ってから建てられたものらしい。裏に明治三十四年の文字がある。もっと古くからあって、明治に建て替えられた可能性もあるが、少なくとも彦九郎が訪れた時分にはなかったようだ。なぜなら、この鳥居についての記述が日記にないからである。彦九郎は、訪れた神社や仏閣については、建物の様子や大きさ、境内のたたずまいなどをこと細かに描写している。彦九郎が訪れた際に鳥居があったとすれば、日記に記載しなかったはずはない。


 鳥居をくぐって少し歩くと大滝がある。大滝とはいえ、落差8メートル程度の小さな滝である。小さいながら、形と雰囲気はなかなかよい。新緑を背景に、垂直の岩場を真っ直ぐに水が流れ落ちている。

 彦九郎の日記では「小流にさかのぼる事二丁(約210メートル)ばかりにて不動堂瀧有り、岩壁の如し、瀧よし、此辺に又た不動堂有り」と書かれている。

 不動堂というからには何かしら建物があったのだろうか? 現在はお堂はなく、滝つぼのほとりの少し高くなった岩の上に、2つの石の祠にはさまれて、不動尊の石像が静かに立っているだけである。不動尊像には宝永六(1709)年九月吉日と刻まれていた。

苔むした岩場を流れ落ちる大滝。 不動様の石像。滝つぼに静かに立つ。

●3 涸沢のような、ガレた道を登る●

 滝の入口に示導標が立つ。山頂まで1.84キロ、55分とある。彦九郎の日記には「是レ(登山口)より岳まで二十一丁(約2289メートル)と石に記せり」とある。地形図で測ると、登山口から山頂までは2キロ弱。江戸時代の道標もおおむね正確である。

 日記には、こうした距離と方角に関する記述が多い。どこかを訪れた際には必ず、どの方向に、どれくらい歩いたかを詳細に記している。例えば、この日の行程を振り返って「忍山より山越へにて高澤大瀧口迄壱里、是レより岳まで二十一丁、大瀧口より浅部(あさべ―村の名前)まで壱里半、是レより忍山まで壱里也」と記している。また、高澤道と桐生道の分岐に立った時には「此所より新町(桐生新町のこと、桐生の中心地)は坤(南西)に当り、忍山は丑(北東)に当るとぞ」と書くといった具合である。『桐生市史』の解説でも「彦九郎の日記は、律儀の性格から生れる正確、刻明さに徹している。ニ百年の歳月を越えても写実性で迫ってくるものが感じられる。」とある。


道の端にひっそりと咲くカタクリの花。  滝から山頂まではゆっくり歩いて1時間ほどである。日記では、この間の様子はほとんど触れられていない。途中の水場で休み「手水を遣ひ水のミして猶登る、頂に至る頃ひる頃なり」と書かれているだけである。彦九郎の興味や関心を引くような「これは」という場所はなかったのかもしれない。確かに単調な道ではある。特に急峻な場所や方向が大きく変わる場所もない。展望もない。とがった小岩が転がる涸沢のような道がずっと続く。

 行程の半ばくらいまでは、道幅も広く林道を歩いているような感じだ。一部にはコンクリート舗装された場所もある。そこを過ぎたあたりから道は細くなり、山道らしくなる。

 まわりは、ほとんどがスギ・ヒノキの植林地である。道が細くなる頃から、ところどころに原生林が混じるようになる。新緑がまぶしいという状態にはまだ間がある。新芽が伸び、若葉が開きかけてきたといった頃合いだ。途中、岩の上に咲くカタクリの写真を撮る。


●4 登山者でにぎわう山頂へ●

 稜線の向こうに青空が見え始め、そこから一息登ると、鞍部に出る。幅の広い平らな場所で、肩の広場と呼ばれている。2つの登山道と尾根道が交わる場所でもある。多くの登山者がいて、にぎやかである。ここから山頂まではわずかだが、少し険しい道を登る。

 鳴神山の山頂は、フタコブラクダの背のように2つの頂が並んで屹立している。東側を桐生岳、西側を仁田山岳と呼んでいる。単に鳴神山の山頂という場合は、桐生岳を指す。三角点もこちらにあり、展望もよい。全方向が見渡せる。標高は979.7メートルである。

 鳴神山が双頭峰である点について、彦九郎は「此山は下より見ては兀(こつ―高く突き出る)として峯一ツの如くなれと、かく近くを見れば桐生岳と仁田山岳と二峯、実に神霊の在りとて来り詣するも宜(むべ―もっともである)也」と書いている。また、山名の由来については、雷神上人が住んでいたためといわれているが、「是レ虚説ならん、上人より先に此名ありけらし」と断じている。

桐生岳山頂の祠。快晴、気持ちがいい。

桐生市街方面。アカヤシオの向こうに鳴神山脈の稜線が南にのびる。  肩の広場同様、山頂も大にぎわいである。観光バスが到着したばかりのドライブインのトイレのように、入れ替り立ち替り人が登ってくる。ツアーガイドの青年が「○○ツアーの方、写真だけ撮ったら降りますよ。お弁当は下の広場ですよ。」なんて叫んでいる。

 今日は遠方の山々の展望に恵まれた。袈裟丸山や皇海(すかい)山はもちろんのこと、日光白根から男体山、雪をかぶった武尊(ほたか)、谷川あたりまでくっきりと望める。

 雲ひとつない空の青、陽を受けて輝く遠方の峰々の白銀、斜面を染めるアカヤシオの紅、これら三色が見事なまでのコントラストである。


 彦九郎は山頂付近の様子をかなり詳しく書いている。眼下に開ける景色については「南に桐生新町見ゆ、戌(西北西)の方に赤城山見ゆ、辰巳(南東)の方館林也、西に前橋皆晴レたる時はよく見ゆるとぞ、(略)館林の城なとは小く見ゆるとぞ、坤(南西)方に浅見湖見ゆる」と記している。ただし、彦九郎が登った日は天候には恵まれず、雷雲が空を覆い、遠方までは望めなかったようだ。下山途中に雷雨に降られている。

 実際には、赤城山は桐生岳からはよく見えない。仁田山岳の雑木に隠れてしまっている。仁田山岳から少し西に歩くと、赤城山がよく見える場所がある。館林城が小さく見えたというのだが、いま見ても、はっきりとはわからない。大きな建物もない昔は、当時としては巨大な建造物であった城などが、山頂からよく目立ったのだろうか? 

 浅見湖とは阿左美沼のことだろう。今の桐生競艇場だ。競艇場の平らな水面は市街地の中ではよく目立つ。ほかには大間々のゴルフ場や最近できたらしい林道などが目立って見える。斜面を削り取って造られた人工物は、同じような山並みが続く景色のなかで特に目を引くのである。


●5 彦九郎が登った頃の雷神岳●

古い石の鳥居。これは須永村のほう。  桐生岳の山頂には雷神岳神社の社や鐘などがあったようだ。「頭上に鐘有り(略)皆ナ鐘を撞く、此ノ上に社有り辰巳(南東)向にて二間(約3.6メートル)ばかり也、是レ最も高き所也」とある。この鐘は1753(宝暦3)年に設置され、その後、1813(文化10)年に改修されている。戦時中の1943(昭和18)年に供出されて消滅したという。(『桐生市史 別巻』) いまは、山頂に建物はなく、石の祠が4つほど並んでいる。

 肩の広場にある2つの石鳥居のことも日記に書かれている。「仁田山の方の鳥居には須永と有り、是レ仁田山の小名也と云ふ、桐生の方には高澤と有り」 鳥居の柱に刻まれた須永村と高澤村の文字は、いまでもはっきりと読める。須永村のほうの鳥居には昭和十一年改修との文字もあった。


 鳥居の前には2体の御狗の像がある。雷神岳神社の御眷族(けんぞく―神の使い)は神狗である。この狗の像は江戸時代より後に置かれたもののようだ。東側の像の台座には「山田郡梅田村材木商 金田房太郎」の名前が彫られている。梅田村とあるので、1889(明治22)年以降のものと思われる。高澤村や浅部村など桐生北部の村々が合併して梅田村となるのは、1889(明治22)年の市制施行後のことである。西の狗には耳がない。はじめからないのではなく、いつの間にか欠損してしまったのだろう。ドラえもんの頭と同じ格好である。そのせいか、少しユーモラスで、少し悲しそうな表情にも見える。

 日記によると、当時、鳥居のそばには春先だけ茶店が出たらしい。今ではちょっと考えられない。鳴神山は江戸の頃から登山者でにぎわっていたのだ。登山者というには語弊がある。むしろ参拝者というべきか。当時は山に登るというより山頂の神社に参拝するという感覚だったのではないか。

 江戸時代も中後期になると、民衆のなかにも比較的余裕のある層が出現し、こうした人々の間で物見遊山に温泉に入ったり、遠方の神社に参拝したりすることが流行したという。現代の観光旅行のような感じだったのだろう。鳴神山の北隣の根本山などは江戸からも参拝者がやってくるほどに栄えたらしい。『根本山参詣路飛渡里(ひとり)安内』(1859(安政6)年に刊行)という旅行ガイド的な書物が出版されるほどだった。この書物には、江戸から根本山に至るまでの宿場間の距離や宿屋と休憩所の紹介などが絵入りで掲載されている。(『桐生市史 別巻』)


●6 下山後のこと●

 お昼を過ぎると、あたりは急に静かになった。ツアーやサークルの登山者がそろって下山した様子である。ツアーの方々は、往路はたどらずに尾根伝いに南へ下って、金沢峠から山を下るらしい。下った先でバスが待っているようだ。ガイドの方がそんな説明をしていた。帰りは来た道をそのまま下った。登りとは違って、今度はほとんど人に出会わない。

 彦九郎らも帰りは来た道を大瀧口へと下ったようだ。高澤道(現在の県道沢入・桐生線)を東に向かい、桐生道(現在の県道桐生・田沼線)に出て、そこから忍山まで戻っている。途中、民家に立ち寄って酒を飲み、弁当を食べたりしている。その時、すでに暮六つ(午後6時)、案内人の八五郎の家に着くのは夜中の12時である。寝ていた家人らを起こし、そうめんをごちそうになる。少々厚かましい気もする…。忍山の宿に着くのは12時半である。

 今日は車で来たので、彦九郎のように酒を飲むわけにもいかない。観音橋近くのコンビニに立ち寄って、飲み物などを買う。横のバス停では、山歩きを終えた後とおぼしき男性が缶ビールを片手にひとりバスを待っていた。冬の頃ならば、陽はそろそろ鳴神山脈の向こう側に傾きかける時刻である。だが、いまは、まだ日が高い。桐生川沿いの新緑の木々に降り注ぐ日差しの明るさが初夏を感じさせる。人の飲むビールはとりわけうまそうに見えた。(訪問日 2005/04/23)


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