補足説明―小倉峠に伝わる…な話

1 ロマンチックな話 小倉の地名の由来―白滝姫伝説

小倉の地名の由来となったとされる伝説がある。話の細部は文献によって異なるが、伝説の大筋は次のようなものだ。(白滝姫伝説の詳しい内容は桐生の民話を紹介したホームページまたは洋画家の松崎寛氏の絵本物語などを参照)

昔(おそらく奈良時代)、現在の桐生市川内町、山田川の近くの村に山田という若い男がいた。宮中に奉公にでて、そこで宮仕えをしていた白滝姫に出会う。身分違いの二人であったが、相思相愛の仲になった。山田は奉公の期間を終え、故郷に戻ることになる。白滝姫を妻にすることを許され、二人は山田の故郷で暮らすことにし、京の都を後にした。

はるばる京からの旅を終えて、桐生峠にさしかかる。疲れたので、峠で休憩し、あたりを眺める。二人はこの時の峠からの景色が京都の小倉に似ていたので、桐生の山々を似田山(仁田山)、その下に広がる地を小倉と呼ぶことにした。

その後、二人は現在、白滝神社(下の写真)のあるあたりで仲むつまじく暮らした。白滝姫が村人たちに機織りを教え広めたため、桐生の地で機織りがさかんになった。後年、白滝姫に先立たれた山田は嘆き悲しみ、白滝姫のなきがらを神社の大岩の下に埋めた。村人たちはこの神社に白滝姫もまつるようになり、神社の名前もいつしか白滝神社に変わった。

以上が小倉峠の地名の由来とされる伝説のあらすじだが、二人の会話の部分を『山田郡誌』の「小倉・仁田山の地名につきて」から引用してみると「山田奴は姫を背負ひて故郷へ帰る時、桐生峠に差しかかり疲れ果てて頂上に休む。山を見渡しける時『はるか彼方に見ゆるは京の小倉に似た山なり』と姫のいひければ『さらば今より彼方の山を似田山とし、その下に開けたる地を小倉といはん』との二人の会話によりて今日の地名をなしたる」となる。


白滝神社の境内。白滝姫がまつられている ただ、この白滝姫と山田の恋物語は言い伝えであるため、小倉峠の地名の起源をこの物語の二人の会話に求めるのは少々疑問である。角川の『群馬県地名大辞典』には「地名は三方を山に囲まれ、南西部のみが開け、竃(くど)状の地形になっていることに由来するものとみられる。また地名の倉は竃の転訛と考えられる」と書かれていた。竃とはかまどのこと。

小倉の地形が地名の由来というわけだが、学者の説というのは味も素っ気もないね。白滝姫の伝説のほうがよっぽどロマンチックじゃないか。これからの新生活を思いながら新妻の白滝姫が「ねぇ、山田クンってば、ここから見える景色ってちょっと京都に似てると思わない?」とかなんとか言ったかもしれないのに。

それにしても勝手に山や村に名前をつけてしまう山田クンもすごい。前から住んでいた村人たちは何も文句を言わなかったのかね。「俺はそんな名前はイヤだ」とか。最近の市町村合併では、新しい市の名前をどうするかでよくもめてるけどね。


2 ?な話 峠にあった十山亭と詩碑の謎

江戸時代中頃、小倉峠には佐羽淡斎の別荘、十山亭(じゅさんてい)があった。佐羽淡斎は桐生の富豪(織物商)で、漢詩の文人でもあった。亭を建てたのは1813(文化10)年。峠に建てた十山亭に文化人らを招待し、交流の場としたという。

佐羽家は絹織物の買い付けで財をなし、富豪として知られた。江戸の末期には生糸の輸出や硝石(当時の火薬の材料)の生産・販売を手がけた。明治に入ってからも絹織物などを輸出。佐羽家を継いだ佐羽喜六は1887(明治20)年に日本織物株式会社を設立、工場の動力や電灯用に発電所、製品の輸送のために鉄道会社なども作った。

画人の渡辺崋山も桐生の地を訪れたらしいが、崋山の紀行文に小倉峠をたずねた際の記述があるという。訪れたのは1871(天保2)年のことである。紀行文には「山の名小倉。此山上に詩人淡斎、亭を建て十山亭と名く。亭は風のために破られ、かたちなし。唯詩碑のこりたるを要害山にうつし、今ここに存す」と書かれていたそうである。崋山が小倉峠に来たのは淡斎の死の6年後(1871(天保2)年)のこと。崋山の紀行文の記述から、十山亭は主人の没後6年にしてすでに使われず、荒れ果てた状態だったことがわかる。


要害山の山頂、要害神社の南西に建つ淡斎の詩碑 十山亭は今はないが、詩人、淡斎の建てた詩碑が各地に残っている。詩碑は今も東京、箱根、鎌倉、金沢(神奈川)などの地にある。淡斎が遊行の証しとして、自らの詩を刻んで建てさせたものだそうだ。(このあたり、いかにもお金持ちの道楽という印象だが…) 詩碑の数は10基とも11基とも言われるが、このうちのひとつが小倉峠の十山亭に建てたとされる「十山亭碑」である。

この碑が小倉の地ではなく、なぜか、大間々の要害山の山頂に現存している。碑の移された経緯などはよくわかっていないという。

要害山は昔の城跡。現在、山頂には要害神社がある。実際に訪れてみると、社の南西の位置に他の碑や石の祠などとともに淡斎の詩碑はあった。説明板などはないので、ちょっと見ただけでは何の碑かはわからない。けっこう大きい。高さは台の部分も入れて180センチくらいか。刻まれている内容はその方面の知識がないのでわからなかったが、碑文の最後には「淡斎 佐羽芳題」の文字が読めた。


●3 こわい話 小倉峠の縮屋強盗殺人事件●

昔、小倉峠のあった場所は、現在は住宅団地の裏山になっていて、それほど山深い場所ではない。だが、昔はうっそうとした木立の囲まれた、今よりもっと人気のない場所だったようだ。絹織物がさかんだった仁田山村(現桐生市川内町)へ絹の買い付けに行く商人らが峠を往来し、そうした商人や旅人をねらった追いはぎや強盗が出没することも多々あったという。

『近世桐生夜話』(木本政雄著 桐生文化史談会 1970年)という本がある。そのなかに「小倉峠の 縮屋殺し」という話が載っていたので、その題名に興味を引かれ読んでみた。『近世桐生夜話』は桐生タイムス紙に連載された歴史の逸話集で、江戸時代の記録や日記から題材をとっている。江戸時代の桐生庶民の暮らしぶりを伝える百の逸話が収録されている。

「小倉峠の縮屋殺し」では、1858(安政5)年、越後の縮(ちぢみ―織物の一種)商人の文助が小倉峠で強盗にあい、メッタ切りにされて殺されたうえ、金品を奪われたという事件の詳細が紹介されている。事件があったのは四つ頃(12時)という。昼日中にこんな事件が起こったということは、当時の小倉峠がかなり危険な場所だったと想像できる。

文助のなきがらは、翌日、道の端に仮埋葬されたという。犯人はつかまらなかったらしい。150年以上も前のことだが、峠で実際にこんな事件が起こったことを知ると、どのあたりでどんなふうに殺されたのかな、などと時代劇の殺人場面が思い浮かんだりして(テレビだと事件が起こるのはたいてい夜だけどね)、いろいろと想像がふくらむ。

『近世桐生夜話』には「その頃の小倉峠は只今の渡良瀬川沿いを切り開いた道とは全く違う、もっと山の奥を通った旅の難所で、うっそうと木立は生い茂り、人通りもまれな物さびしい峠道だったのです。(中略)自動車やバイクが間断なく行き来している、川沿いのアスファルトの道しか知らない今の方には、一寸おわかりいただけない物騒な峠道でした。」とある。昔の峠は山を越えて登り降りするという地形的な難所であったばかりでなく、犯罪に遭遇する可能性も高い危険な場所であり、別の意味でも難所であったというわけだ。