| ●1 仁田山城概観● |
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@ 仁田山城はどこにあったのか? 仁田山城は桐生にあった中世の山城。太田の金山城や桐生の桐生城と時代・地域ともに関係の深い城であるが、これら二つの城のように城跡が史跡や公園として整備されているわけではない。現在、その跡は雑木のなかに埋もれている。 仁田山城は、今の桐生市川内町の山中にあった。桐生市と大間々町の境界尾根に近い場所で、長尾根峠から北東に2.7キロのあたり。地元では石尊山と呼ばれている丘陵地の小山である。その小山の山頂に本丸など城の中心部があった。 左の写真は栃久保ダム(川内町5丁目、県道338号駒形大間々線の三堂坂上のバス停から北西に約300メートルの位置にある砂防ダム)から石尊山を見上げたもの。写真右上のピークに本丸があった。やぶに覆われ、なかなか手ごわそうだ。 |
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A いつ頃の城か? 城が築かれ始めた年代は不明だが、後年に書かれた軍記物などの記述によると、1570年代まで存在していたようだ。細かな変遷はあっても、中世の仁田山八郷(現在の桐生市川内町と大間々町の一部)は、おおむね桐生氏の支配下にあった。仁田山城は桐生城の搦手(からめて―城・砦の背面、裏門)を守る役割を果たし、桐生城の支城のような存在だった。よって時代的には桐生城とほぼ同年代のものと考えられる。桐生城は1350(正平5・観応元)年に桐生国綱によって築かれたとされている。廃城となったのは1590(天正18)年である。 B 仁田山城に関係する人物と戦国の逸話 仁田山城に係わりのある人物で史料に登場するのは、まずは里見家連(宗連)である。時代は1550年代の半ばから終わりのかけての頃。仁田山城は、もとは二階堂氏の居城であったが、当時の二階堂家の当主(二階堂政行?)が幼少だったため、里見家連(宗連)が二階堂氏を助けて、仁田山城を守っていたという。この両名は、1560(永禄3)年か1561(永禄4)年頃(諸説あってはっきりしない)、上杉謙信に攻められ、戦死している。 その後は里見勝広が城主として仁田山をおさめる。里見家連(宗連)と同じ里見姓だが、里見勝広は出身が異なる。同族の里見氏を頼って、安房(千葉県南部)から桐生へ流れてきたと言われている。ただし、細かく言うと、史料には里見勝広=仁田山城主とは書かれていない。「桐生搦手の押への為に(里見勝広を)赤萩に在城せしめ」(『関東庭軍記』)や「赤萩の塁を構えて(里見勝広を)差置けリ」(『桐生家本末記』)などと記されている。これらの文の主語はともに桐生助綱(桐生氏9代当主)であり、桐生助綱が里見勝広に赤萩を守らせたということである。 ここで言う赤萩とは赤萩の砦のことである。赤萩の砦は仁田山城から南東に1.5キロの場所にあったとされる。仁田山城はこの赤萩の砦や谷山(やつやま)の砦(仁田山城の南西約1.3キロの尾根伝いにあった。)と一体となって、ひとつの山城を形成していた。つまり、里見勝広は、当時の桐生城主、桐生助綱に信頼されて、仁田山の地をまかされ、桐生城の支城とも言える仁田山城を守っていたのであり、仁田山城の実質的な城主は桐生氏であると解釈するのが妥当であろう。 その後、里見勝広は谷山の砦で最期をむかえる。その経緯を簡単に記すと、次のようになる。桐生助綱の死後、桐生親綱が桐生家を継ぐ。親綱は助綱の実子ではなく、佐野から来た養子である。親綱は新参の家臣を重用するなどし、その結果、桐生家に内紛が起こる。これを心配した里見勝広は文書にて自らの考えを述べ、親綱に意見する。この行為により勝広は親綱から疎まれるようになる。さらに勝広をおとしめようとする家臣らの策略もからみ、最終的には仁田山城を攻められる。勝広は谷山の砦まで逃げのびるが、結局そこで自害する。 さて、里見勝広には2人の息子がいた。兄勝政と弟勝安である。この兄弟が、地元で語り継がれる「里見兄弟の悲話」の主人公である。父勝広が桐生氏に討死させられた時、里見兄弟は上杉謙信のもとにいた。父の死を聞いて、仁田山にもどる。上杉謙信や地元の有力な豪族たち(神梅城の阿久澤能登、沢入城の松島古拍)の援助を受けて、要害山(大間々町高津戸)の高津戸城に館を構える。高津戸城は平安末期に山田氏が築いたとされる。1351(正平6)年の桐生国綱による攻略以降、廃城になっていた。だが、里見兄弟は後に由良氏に攻められ、弟勝安はその戦いで負傷して死に、兄勝政は自害する。要害山の南東、渡良瀬川にほど近い場所に、里見兄弟のものとされる墓が残されている。 以上が「里見兄弟の悲話」の大筋である。物語では、里見兄弟は父の仇討ちのために仁田山に戻ったとされる。だが、当時の情勢を考えれば、関東進出をもくろむ上杉謙信が由良氏に対抗するために兄弟を送り込んだとの見方ができる。当時の東毛地域で最も力を持っていたのは、太田の金山城に拠点を置く由良氏。由良氏の後ろ盾は小田原の北条氏であった。里見兄弟の一件は、北条氏への対抗措置として上杉謙信がとった策のひとつとも言える。里見兄弟を高津戸城に立てて、東毛の地に関東進出の足がかりを作ろうとしたというわけだ。しかし、謙信の死により情勢が変わり、上杉氏の後ろ盾を失った里見氏は由良氏に攻略されてしまう。 C どんなつくりの城か? 『上毛古戦記』には、「仁田山城は桐生市川内町上小山の石尊山にあり、梯郭式の山城で築城形式は小規模ながら金山、桐生と同系」と書かれている。規模こそ小さいが、三の丸まである構造で、南北に細長いひな段のような形をしていた。本丸とされる場所の大きさは長さ30メートル、幅7.8メートルである。 前述したとおり、平地を隔てた向かい側の丘陵に赤萩の砦を、尾根続きのピークに谷山の砦を備え、桐生城の属城として桐生城の西側を固めていた。本丸の北側の尾根には三つの堀切(山城に多く見られる堀。尾根を断ち切って、城を守る施設)があった。谷山の砦にも、砦から派生する尾根に堀切が造られていた。 仁田山城の南側のふもとには里見氏の居館があった。仁田山城は要塞であって、平時に里見氏らが居住していたのはふもとの館であった。場所は三堂坂上のバス停の近く、県道駒形大間々線の東側。この館跡は現在、町会の広場になっている。広場の端には多くの石像が立ち並び、連慶寺の庚申堂などもある。里見勝広が桐生氏に攻められた際、家来たちと最後の盃をあげたのはこの館であるとも伝えられている。 D 現在の城跡の様子 『桐生市史』には、仁田山城があった丘陵のピーク(=石尊山)について「仁田山城は標高520メートル、山麓の三堂坂から見ると峨々たる峻険が、脚下を圧してそびえている。」とある。城のあった場所は雑木林や植林地となっている。堀切や曲輪(くるわ―尾根や傾斜地を平坦にしたところ)などは残っており、現地におもむけば、城の大まかな構造やだいたいの大きさを知ることができる。 かつて城の中心部であった場所には石尊の石宮が置かれている。他に不動尊の石像やつり鐘などがある。このつり鐘は1851(嘉永4)年に献納されたもの。鐘には「天下泰平、国家安全」と刻まれており、山麓の村人たちが国の安全と社会の安定を祈願した。大きさは60センチほど。以前はマツの木に吊り下げられていたらしいが、この老マツは枯れてしまったのだろう。今は鉄パイプ製の吊るし台が設置され、そこに下げられている。 谷山の砦には雷電の祠が置かれている。祠の南側はヒノキの植林地になっている。ヒノキの斜面には一部、ひな段状の場所もあり、曲輪の跡が認められる。西の堀切はかつて、桜峠として利用された。仁田山と小平村(現在の大間々町小平地区)を結んでいたが、現在は廃道状態で人の往来はない。 赤萩の砦は、現在の名久木地区、地元では丸山と呼ばれる小ピーク上にあったらしい。だが、未踏査のため現在の様子は不明。おそらくは雑木林に囲まれ、枯れ草に埋もれているものと思われる。 ●参考文献と参考ホームページ |
| ●2 仁田山城址探索の記● |
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@ まずは仁田山城ふもとの居館跡へ 今日はとにかく風が強い。自転車はあきらめて車で桐生に向かった。白滝神社の駐車場に車を置かせてもらう。県道を三堂坂まで歩く。居館があったと伝えられる町内会の広場を見る。ゲートボールがはやっていた頃はさかんにゲームが行われていた。そんな印象の広場である。鉄棒やブランコもある。『桐生市史』などの記述どおり、広場の西端にたくさんの塔や石像が並んでいる。 『歴史探訪 桐生とその周縁』には「城址へ登るには、居館址の反対側の坂道を三十米程のぼり、右手に入って、山稜の松並木をたよりに小径をたどる」とある。だが、入口がよくわからない。道の右手には民家が並んでいる。 |
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A 栃久保ダムから尾根を目指す 地形図を見る。文献に書かれた道は、ふもとの集落から石尊山山頂まで続く尾根道を登るようだ。この尾根の西側に沢があり、ここを詰めても山頂に出そうなので、こちらを行くことにした。規模の大きそうな堰堤の記号もあり、もしかしたら沢沿いに道があるかもしれないと期待する。 舗装路の坂道を登ってゆく。ゆっくり歩いて7、8分、コンクリートの大きな堰堤が見えてきた。栃久保の砂防ダムである。堰堤の手前には、平成5年完成、高さ14メートルなどと書かれたダムの紹介板が立つ。舗装路は堰堤の上で終わっている。その先は植林地。枯れ草の目立つ作業道が続いていた。 その作業道を歩き始める。沢に沿った真っ直ぐな道である。20分ほどで沢がなくなり、道も消えた。目の前はスギ林の急斜面。上を見上げると、稜線とその向こうの青い空をかろうじて確認することできた。地面に積もった茶色いスギの葉や枯れ枝に足を取られながら、何とかその急斜面をよじ登る。10分ほどで尾根に出る。 B 尾根に出るとすぐに堀切。そして本丸跡へ 右(南東)に少し進む。すぐに最初の堀切。文献のとおり、3つの堀切を過ぎると、平坦な広場に出る。ここが本丸の跡地のようだ。形は細長い長方形で、広さは縦に2等分したテニスコートくらいか。どんな建物が建っていたのだろうか。土地の形どおりなら、ビニールハウスのように縦長なものになってしまうが…。広場の先端は段状になっていて、先端に立つと、足もとに石の祠の屋根が見えた。祠は全部で3つあって、中央に大きいもの(写真左下)が1つ、左右に小さいものが1つづつ並ぶ。 |
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祠のある場所からもう一段下る。幕末に献納されたというつり鐘が見える。この階段状になった場所が曲輪の跡だ。本丸を1段目とすると、祠のある場所が2段目、鐘のあるこの場所は3段目にあたる。
つり鐘は想像していたものよりもきれいなつくりで、状態はよい。上部には精巧な龍の飾りなどがついている。状態がいいのは今も祭事が続けられているからだろう。 祭事以外は訪れる人もいない様子だ。あたりは少々荒れている。朽ちた老木などが倒れている。ふもとの集落からの道は尾根づたいのようだが、先は倒木などが折り重なって道がよくわからなかった。沢沿いの道を選んで正解だったようだ。 |
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C 不動尊と祭事のこと 鐘の後ろ側、少し高くなったところに不動尊がいた。『桐生市史』では「…大杉の根本に立ち、いかついながら愛嬌のある尊顔を風雨にさらしている。不動像は高さおよそ50cmである。」と表現されている。真南を向き、少しとぼけた表情をして立っている。石像のかたわらに立つと、眼下には仁田山の集落とそれらを取り囲む丘陵の連なりがよく見えた。 帰り道、県道手前の家の軒先で、ひなたぼっこをしていたおじいさんにあいさつを交わし、石尊山について尋ねてみる。家の裏手を指差し、「石尊山はあそこだ」と教えてくれた。道は、おじいさんの家の裏あたりから、マツの木が並ぶ尾根にそって登っているそうだ。だが、今は登る人もなく、荒れてしまっているとのこと。年に一度、お祭りがあり、8月の第1日曜日に石尊の場所まで登って拝むのだそうだ。 (訪問日 2005/02/11) |
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| ●3 谷山の砦探索の記● |
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急斜面を登りきり、尾根を少し進むと、ヒノキの植林地に出た。峠からは5分ほど。地面が平らになっている。土地の形は扇形。広場の隅、つまりは扇の柄にあたる部分が少し高くなっていて、そこに小さな石祠があった。この石祠が雷電の祠で、どうやらこのヒノキの広場が谷山の砦の跡地のようだ。 祭事に使われたものか、祠の裏には数本の一升瓶が転がっている。これも同じく祭事用のものだろう、祠の前に2本の竹ざおが立てられ、さおの上には、御幣の切れ端か、白い布のようなものがぶら下がっていた。 祠の南側は、仁田山城址と同様に広場の先端が階段状になっている。これが曲輪の跡か。下段に降りて歩いてみると、明らかに人の手によって整地されたのがわかる。自然の斜面とは違い、きれいな段丘ができている。 |
| ●4 仁田山城址の周辺略図● |
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| @ | 白滝神社 車を止める。 |
| A | 仁田山城居館跡地 バス停の横。今は町会の広場。 |
| B | 栃久保ダム 堰堤はけっこう大きい。舗装路はここまで。 |
| C | スギ林の作業道 あまり変化のない登り。 |
| D | 急斜面 道なし。枯れ葉の斜面をよじ登る。 |
| E | 3つの堀切跡 一番南側のものは人が掘った跡がはっきりと分かる。 |
| F | 本丸跡 南北に細長い形状。 |
| G | 小規模な二の丸と三の丸跡 上段に石尊、下段に不動尊とつり鐘。 |
| H | 尾根伝いの小径 ここは歩いてない。荒れているとの話。 |
| I | 話を聞いたおじいさんの家 石尊宮の祭事や道の様子などを聞く。 |
| J | 谷山の砦跡 里見勝広自害地。今は雷電祠、まわりはヒノキ林。 |
| K | 桜峠 谷山の砦の堀切跡。大間々方面の展望良。 |