前編
 見慣れた場所の見慣れた光景。
 静謐な雰囲気さえ漂わせるその空間。
 窓からのぞく空はすでに暗く染まり、足元からはひんやりとした冷気が這い上がってくる。
 目の前には金色の髪を綺麗に纏め上げた少女が立ち、俺のことをじっと見据えていた。

 その瞳に捉えられる。心が冷え込み、指先が震えそうになる。
 今までなんども経験してきたというのに、いつになっても慣れることができない。いや、経験をつめばつむほど彼女との差をいっそう痛感するようになっていくので、多分このさきも「これ」に慣れることなど永遠に無いのかもしれない。

 ふう、と、息を吐き、俺はセイバーの無言の圧力に対し、真っ向から立ち向かっていった。




「―――っつ」

 なんというか、相変わらず……

「容赦無いなあ……セイバー」

 かなりの勢いで吹き飛ばされたおかげで背中が軋んだ。俺は打ち付けられた壁を背にしながら咳き込む。はぁ、はぁ、と小刻みに息を吐きながら、微笑すら浮かべるセイバーを見上げた。

 聖杯戦争のころから続けているこの剣術訓練。当時は生き残る確率を少しでも上げるため、その術と心構えを叩き込むという類のものだったが、最近では剣そのものをどう扱うか、それを扱いどう相手に立ち向かうか、そういったより実戦的な剣術を中心として稽古している。そうしたほうが良いと、セイバーがそう判断したからだ。
 だからと言うべきか、昔のようにあっさり気絶させられるというようなことは少なくなった。その代わり、学ぶべき事、吸収しなければいけない事は格段に増えたので、厳しさという点では何一つ変わっていない。難しさという点では間違いなく今のほうが上だ。

「まだまだですね。シロウ」

 容赦の無いセイバーの声。
 さっきも言ったが、訓練中のセイバーは手加減というものを知らない。いや、実際にはじゅうぶん手加減しているのだろうが、こっちはまったくそれを感じない。剣についてのセイバーは本当に妥協せず、ぎりぎりまでこっちを追い込んでくる。まあ、だからこそのセイバーなんだろうが。
 俺が剣の腕を上げればそれに合わせてセイバーも力加減を調節する。スピードを増せば、またそれにも合わせる。新しい技術を自分なりに考えれば、あっさりとそれに対応してくる。いつまでたっても決して追いつけない鬼ごっこのようなもの。すべてが彼女の技量の範囲内でおさまってしまうので、自分が上達しているのかどうかですら、最近の俺はわからなくなってきている。
 それでも、俺としてはまあ立ち止まってなんかいられないわけで、こうして毎日のようにセイバーと剣を打ち合う日々を送っている。今日のように夕食後にまで稽古することも珍しくはない。さらには遠坂により魔術講座も日課とかしているので、最近は本当に身体の休まる時間が無い。

「まだ時間はありますね。――シロウ、剣を」

 先ほど自分で叩き落した俺の竹刀を手渡してくるセイバー。俺はそれを受け取りながら少々愚痴った。

「なんか……今日はやけにきつくないか?」
「……そんなことはありません」

 セイバーはそう言うが、これでも俺は今まで散々セイバーによって打ちのめされてきた実績がある。この頃はセイバーの竹刀が俺の身体に与える衝撃によって、彼女の調子とか機嫌とかが何となくわかるのだ。あんまり自慢になるようなことではないが。
 ちなみにここ最近では朝食を抜いた日のお昼前の稽古時がもっともきつかった。今日はそれと並ぶか、あるいはそれ以上。つまり彼女の機嫌は極限近くまで悪化しているということだ。
 道場の真ん中まで戻って再び剣を構えるセイバー。その身体からは、また思いっきり叩きのめしてやる、そんな感じの闘気がひしひしと伝わってくる。

 俺――今日なんかやったかな? 朝食だってちゃんと出したし、お昼もセイバーの好きなサンドウィッチをたくさん作ったし、夕食なんかずいぶんと豪勢だったのに。

「構えてください、シロウ」

 やる気満々なセイバー。
 なんだか微妙に生命の危機を感じ始めた俺。
 とりあえず……この地獄はもう少し続きそうだった。








「なるほど、それでこんなに傷だらけなわけ」

 上半身裸でうつぶせに寝そべった俺の上から遠坂のあきれたような声が聞こえてくる。ぱしんっ、と、乾いた音が俺の背中で鳴った。

「いっ……! と、遠坂、もう少し丁寧に……」
「あら。じゅうぶん優しくやってるわよ」

 とてもそうは思えない手つきで俺の背中に薬を塗りつけていく遠坂。
 結局、あれから一時間ほどみっちりとセイバーに鍛えられたおかげで、俺の身体は青アザだらけの満身創痍状態。風呂に入ったあと、こうして自分の部屋で遠坂に治療してもらっているんだけど……

「士郎も、だいぶ筋肉ついてきたみたいね」
「そうか?」
「うん。まあ、あれだけ稽古を重ねてるんだからそれも当然か……っな」
「――っ」

 時々わざとらしく、ぴしゃり、と平手で打ち据えるのは明らかになにかを楽しんでいるように感じる。俺をいびることに不可思議な喜びを覚えているらしいあかいあくま。その無情な仕打ちにじっと耐える俺。

「だ、だから痛いって」
「我慢しなさいよ、このくらい」

 ささやかな苦情すらあっさりとスルーされる。最近の衛宮家では確かな上下関係が確立されつつあるようだ。その底辺に位置するのがもちろん俺。もちろん……と、つけなきゃいけないところがなんとも物悲しい。
 まあ、セイバーは俺の剣の師匠で、遠坂が俺の魔術の師匠なわけだからそれもしょうがないことなのだが、それでももう少し扱いに気を使ってくれてもいいのではなかろうか。ここ、俺の家だし。聖杯戦争の最後のほうでは俺けっこう活躍したし。

「これじゃあ魔術の稽古は無理そうね」

 言いながら湿布をぺたっと俺の背中に貼り付ける。一瞬、その冷たさに身体が震え、すぐに浸透してくる心地よさに溜め息を吐く。

「……ああ、さすがに今日はきつい」

 そもそも普通の状態でさえ遠坂の魔術訓練はきついからな。肉体的にも精神的にも。だから、今日は休ませてもらえると素直に嬉しい。情けない話だけど。

 ……あれ? でも。

「はい、終わり」
「ん、ありがとう」

 そう礼を言って起き上がる。はい、と遠坂から渡された自分の服を着込み、じっと遠坂の顔を見つめる。

「ん? なあに?」
「……いや」

 なんでも……なくない。
 おかしい。今日の遠坂って妙に優しいというか機嫌が良いというか、普段ならこっちの都合なんてお構いなくきっつい魔術の訓練課題なんかを出してくるのに。

「なんかあったのか?」
「なに、それ。どういう意味?」
「いや……今日の遠坂、妙に機嫌が良いからさ」
「そう? 気のせいでしょ」

 そんなことはない。こっちはこれでも連日彼女の魔術講座につきあってる身だ。遠坂はこう見えて意外とシンプルな性格をしている。本人は顔には出していないつもりのようだが、つきあってるほうにしてみればこれほど喜怒哀楽がわかりやすい人間もそうはいない。
 ただでさえきつい魔術訓練が、機嫌が悪い時はその五割増しぐらいになるからな。三日か四日前の夜は本当にひどかった。しぶとさだけが自慢の俺だけどあの時は本気で泣きそうになったし。そういう意味では遠坂とセイバーは似てるな。機嫌の悪さをなぜか俺に直撃させてくる。

 でも、そういえば。
 この間、遠坂がやたらと機嫌が悪かった日はなぜかセイバーの機嫌がやけに良かった。そして今日はその逆。セイバーの機嫌が悪くて遠坂の機嫌が良い。これまでのことをさかのぼって考えてみると今までもこの両者の関係はそうだった気がする。

「じゃあ、今日は早めに休んでおきなさい」
「あ、ああ」

 それだけを言うと、そのまま鼻歌でも歌いそうな感じで遠坂は部屋を出て行った。



 で、俺だけが部屋に取り残される。敷かれた布団の上に寝転がるがそれだけで身体のあちこちが痛む。特に背中。なんども壁に打ち付けられたおかげで、背中がいちばんひどい。仰向けにならないよう気をつける。

「それにしても」

 今日の稽古は本当にきつかったな。今まででも最悪のしごきだったのは間違いない。身体の頑丈さは結構自信があるけど、それでも今日のような稽古を毎日続けられたらすぐにでも身体を壊してしまいそうだ。

「セイバーもその辺は気をつけてくれてるはずなんだけど……」

 今日に関してはその気使いはまったくと言っていいほど感じられなかった。それどころか「徹底的に叩き潰して差し上げます」ぐらいの鬼気迫る気迫を発散していた。
 む、むむ。
 困った。
 明日もあれだけのしごきを受けるのは正直言ってきつい。ただでさえセイバーには俺の腕じゃあまったく歯が立たないというのに、向こうがあれだけ本気になられては……

 これまで数え切れないほど何度も剣を打ち合わせてきた俺とセイバー。もちろん俺はセイバーに勝ったことなど一度も無い。彼女は実戦では自らの魔力を放出しながら戦うため、普段の時の腕力はそれほどではないらしい。にもかかわらず俺がまったくセイバーに敵わないのはやはりその技量に雲泥の差があるからに他ならない。どれだけ工夫を凝らしても、どれだけ意表をつこうとしても、赤ん坊をあしらうかのように簡単にひねられてしまう。
 こっちが全力で必死に立ち向かっても一本も取ったことが無いんだよなあ。それどころか少しでも慌てさせたり驚かせたり、そんなことすら一度も無い。いつでも完敗。
 ついでに今日のセイバーは剣だけではなく言葉にも容赦がなかった。
「動きが遅い」とか「脇が甘い」とか「足の運びが悪い」とか「頭が悪い」とか「いつまでたっても成長しませんね」とか「はぁ……貴方のためにここに残ったのは誤りだったのでしょうか」とか……
 あれ? なんか思い出したら急に涙が……

 そういえば遠坂が機嫌悪かった日も同じような目にあったな。いや、むしろあいつのほうがきつかったか、精神的には。なんかこう、臓腑をえぐるような言葉の刃、というものを奥までぐりぐりと……

「なんか理不尽だよなあ」

 俺だってこれでも一生懸命がんばってるつもりなんだけど。
 そもそも、あの聖杯戦争の最後の時、ギルガメッシュと対峙してなおかつ倒したのは俺なんだぞ。そりゃあ、とどめをさしたのはアイツだったけどさ。あの時の俺の大活躍を二人とも忘れたのか?
 って、あの時は二人ともそばにいなかったんだっけ。そうか……そういえば見てなかったよな、二人とも。

「はぁ……」

 俺の一世一代の晴れ舞台。ギャラリーは一切無く、いや、一応一人いたか、アイツが。ああでも、アイツも結局は俺なんだっけ。

「はぁ……」

 それならばこの不当な扱いにもなんとなく理解がいくというもの。
 剣ではセイバーの足元に及ばず、魔術では遠坂に教えを請う身、倫敦に渡るために必要な英会話のほうも二人から徹底的に教授され、成績優秀、運動神経抜群、おまけに容姿端麗な遠坂嬢は学園内のアイドル的存在で、セイバーはその可憐さとなんでも美味しく食べてくれる健啖家のため深山商店街のマスコットとしてこの上なく愛され、俺はといえばそれなりに有名な歩く便利屋、トンでもお人好し、言うことなんでも聞いてくれる良い人だけど彼氏にするのはちょっとねランキング第一位、彼女たち二人と一緒に町を歩けばその存在そのものを無視される透明人間、唯一の頼みの綱だった料理のほうも、洋食は遠坂に及ばず、和食は桜に抜かれそう、そのうちセイバーに「シロウ(のご飯)より凛(のご飯)を愛しています」などと言われるかも知れず…………あ、また涙が。



 いや、でも、別にそれが嫌ってわけじゃないんだ。ちょっとは嫌だけど。でも、俺が分不相応なものを目指しているのは確かだし、乗り越えなくてはいけないものも多い。それは初めからわかっていたことだから。こんなことで挫けるわけにはいかない。

 だけど――最近、俺に対する遠坂とセイバーの態度がどうも気になるんだよな。時々……そう、今日のセイバーみたいにやけにつらく当たられることがあるから。

 もしかして俺、見離されそうになっているのかも……





 駄目だ。やっぱり駄目だ、このままじゃ。
 もう一度、俺は自分の存在意義を知らしめるのだ、あの二人に。

「俺だって男だから」

 うん。そうだ。やれば出来るさ、きっと。

 まずはセイバー。彼女がここに残った理由、その思い、それらを考えるとやはり彼女を幻滅させ続けるわけにはいかない。
 セイバーに俺を認めさせる。それにはやっぱり彼女に勝つことがいちばんだと思う。

 実は一つだけ思い当たることがあるのだ。セイバーに勝ち得る唯一の方法が。
 最初は魔力供給のための手段だったけど、いつしかそんなものが関係なくなって、今でも度々繰り返されているその行為。
 あの時間、あの場所でのあの戦い。あそこでなら俺はセイバーに勝つことが出来ると思う。いや、間違いなく勝てる。そのはずだ。

「でも、それじゃあ意味が無いんだよな」

 そう。あれならばセイバーに勝つことは出来るだろうけど、それで俺のことを認めさせられるかといえばかなり疑問だ。そもそも勝ち負けの問題じゃないからな、あれに関して言えば。
 やはり剣。剣術でセイバーに認めてもらう。これが大事だろう。
 そうだな。なんとかして、それこそ一度でも良いから彼女に勝ちたい。一本取りたい。技術は俺もそれなりに上がっているはずだから、絶対無理だということは無い、と思う。
 でも普通のやり方ではセイバーに勝利を得ることなど出来ないのはわかりきっている。だいたい、彼女と同じ戦い方をしていて彼女に勝つことなど最初から無理なのだ。

 すっと、両手を持ち上げる。
 あの聖杯戦争の時、俺の命を何度も救ってくれた二本の剣。あの感触がこの手には残っている。あれから意図的に、あるいは無意識のうちに、あの二刀を使うことを忌避していたけど、やはりあれが俺にとっての武器なのだ。正統な剣技ではセイバーにかなうはずも無いのだから。

 二刀を使う。
 あの後、一度も練習したことは無かったけど、それでもこの身体がその使い方を忘れることは無い。それに関しては妙な自信があった。それで勝てるかどうかはわからないけど、俺の戦いは出来るはずだ。
 よし。明日だ。明日――あの二本の剣でセイバーに挑もう。

 俺は痛む身体と逸る心を抑えながら布団の中に身を沈めた。



 そんな時だった。ふすまの向こうから声がかけられたのは。






「セイバー、こんな時間にどうしたんだ?」

 俺の目の前にはセイバーがいた。俺が明日挑もうと決心していた少女。美しいその瞳を伏し目がちにしている少女。

「まだ……起きていたのですね」
「ああ、いや、もう寝ようとしてたところだけど」
「そうですか……」

 そう言うセイバーの声はほんの少しの距離を飛ぶだけで消えてしまいそうなほど小さい。金色の髪が薄暗い部屋の中で心細そうに震えていた。
 どうしたんだ。なんだかほんの少し前まで俺をしごいていた人物とはまるで思えないぞ。
 驚いている俺の前でセイバーが静かに口を開いた。

「申し訳ありません、シロウ」
「……え?」

 申し訳ありませんって、なんか彼女が謝らなければいけないようなことやったか?
 そりゃあ、あの稽古はまさに地獄という言葉がふさわしいものだったけど、でもそれはセイバーが謝るようなことじゃない。彼女は俺のためを思ってやってくれているのだから。

 そう伝えるとセイバーはゆっくりと首を振った。

「違うのです」
「違う?」
「はい……私は今日、自分の心を制御しきれなかった」

 制御? 心を?

「えっと、それはつまり……」
「はい。今日の稽古があれだけ厳しくなってしまったのは私が未熟だったゆえ。ただ自分の苛立ちを貴方にぶつけてしまっていただけなのです」

 そう謝るセイバー。
 なるほど。俺の見立ては一応あたっていたわけだ。セイバーはやっぱり機嫌が悪かった。俺の身体に刻み込まれた感覚もなかなか捨てたもんじゃない。

「謝らなくて良いよ、セイバー」
「……シロウ」
「たまにはあれぐらい厳しい稽古も必要だろ? そりゃあ結構きつかったけど、いい訓練にはなったし、俺だって早く一人前になりたいから。こんなこと……セイバーが謝るようなことじゃないさ」

 寛容なところを見せながら笑う。でもセイバーはまたしても首を振った。

「それも違うのです、シロウ」
「え?」
「今日の『あれ』は訓練などと呼べるような代物ではない。先ほども言ったとおり、ただ自分の苛立ちを発散しただけ」

 ええと、てことは……ただのストレス発散? それってつまり。

「あの稽古は、貴方にとってなんら益をなすものではない」
「ということは……もしかして……」
「はい。つまり今日の稽古によって貴方が鍛えられた箇所など一切無く、すべてが無駄そのものだったということです」

 無駄。
 あの稽古が無駄。
 あれだけ打ちのめされて、あれだけ道場の壁に叩きつけられて、身体中に青アザつけて、心の底から恐怖を刷り込まれて、それでも必死でセイバーに立ち向かって行って、そのたびにまたしても床にめり込まされて、それだけの苦痛とかトラウマになりそうな心痛とかそういった一切合切がすべて――すべて無駄?

「う……あ……」

 あまりのショックに言葉を失ってしまう。

「申し訳ありません」

 本当に申し訳なさそうなセイバーの声が聞こえる。

 落ち着け。落ち着け俺。深呼吸、深呼吸。
 ふぅ……はぁ……ふぅ…………
 そうさ、大丈夫。俺はこういうのには慣れている。ほら、遠坂にも言われたし。俺が十年近くやってきた自分なりの魔術鍛錬が実はなんの効果もない無駄の塊で、そんなものを、しかも命がけでやってた貴方はまさしく馬鹿そのものだって。あれに比べれば今日一日の稽古が、あの恐ろしい地獄のような稽古が、じつは全部無駄だったって言われたって別に……

「……」

 ごめん。やっぱちょっとだけキレてもいいか?

 そんな思いを胸に秘め、顔を上げるとちょうどセイバーと目が合った。驚いたようにびくっと首をすくめるセイバー。そのさまは怯えた子犬のようで、というか犬耳でもついていたらなんとも似合いそうで……
 そんなこと想像したら、あっさりと吹き飛んでいく俺の中の怒気。逆に、こう、なんだか腕に引き寄せて頭を撫でてあげたくなる。ああ、もしかしてこういう節操のなさも俺の立場低下の原因かも。
 ……でも、しょうがないよな。こんだけ可愛いんだから、うん。



「でもさ……」

 努めて明るい声を出す。

「今日はなんだってあんなに機嫌が悪かったんだ?」
「そ……それは」

 なんともいえない表情で口ごもるセイバー。ちらちらと俺のことを上目使いで見つめてくる。こういうセイバーも珍しいな。普段はもっと凛とした空気を振りまいているのに。うん、でも、新鮮で結構良いかも。

「昨夜、シロウが……その……」
「俺が?」

 俺がなにかやったか?

「あの……凛と……」

 遠坂と――って……ん、なんかやったか? 
 ……あ、そうかわかった。なんだ、あれが不満だったのか。

 俺はようやく思い至り、素直にセイバーに謝る。

「悪いセイバー。俺……無神経で」
「い、いえ、私こそ。シロウと凛の関係は初めから承知のうえでここに残ったというのに……今更こんな」
「いや、やっぱり俺が悪かったよ。遠坂に言われたままに一緒にやったけど、その結果について何も考えていなかったから」
「そんなこと……貴方がたが一緒にすることは何も不思議なことではない、むしろ当然のこと。貴方が謝るようなことでは……」
「でも、けっきょくは上手くいかなかったから」
「そ、そうなのですか?」
「ん? だってそうだろ。セイバーなら気づいたはずだ」
「そ、そのようなこと言われても……さすがにそこまでは私にもわかりません」
「む、そうなのか。らしくないな。……でもまあ、そうだな。俺と遠坂は得意とするジャンルがお互いに違うから、それで上手くかみ合わなかったんだと思う」
「はぁ……難しいものなのですね」
「ああ、難しいんだよ」

 そう。本当に難しいもんなんだ。お互いの身につけている技術がどれだけ高度でも、二人一緒にやったりすると上手くいかないもんなんだ。

「それでも、俺と遠坂のは、ある程度相性が良かったみたいだから、そこまで致命的な失敗にはならなかったとは思うけど……そこら辺はどうだった?」
「で、ですから……私にはそのようなことはわかりません。隣の部屋から……でしたし」

 隣の部屋? なんだ、それ?

「んー、良くわからないけど、じゃあちょっと濃くなかったか?」
「こ、濃い?」
「うん。遠坂が濃いほうが好きだって言うからさ、俺もそれに合わせたんだけど、やっぱ濃すぎたかな?」
「こ、濃い……凛は濃いのが好きなのですか……」
「そうみたいだ。で、セイバーはどっちが好きなんだ?」
「私、ですか……? なぜそのようなことを?」
「ん、これからの参考にしたいからさ」
「これからの……」
「うん。で、濃いのが好きなのか? それとも薄いほう?」

 人それぞれだからな、これは。日本人の場合、関東人と関西人でだいぶ好みが分かれるらしいけど、セイバーの好みはどっちなのか。

「私は……その……シロウのものであればどちらでも……」

 うつむきながらぼそぼそと小声で答えるセイバー。耳まで真っ赤にしている彼女はひどくかわいい、のだけど、なんでそんなに照れる必要があるのだろうか。ただ好みを聞いただけなのに。
 でも、セイバーの答えは素直に嬉しい。

「そうか。ありがとう、セイバー。嬉しいよ」
「あ、いえ、その……」

 セイバーはまた顔を赤くしてうつむいてしまう。華奢な手がひざの辺りでうろうろしている。
 布団の上に座る俺と、畳の上にきっちり正座するセイバー。うーん、なんかこう、変な雰囲気だな。思わず彼女の手を掴んで引き寄せたくなるような気分だ。

「で、でも、あれだな。そう、今度は失敗しないようにちゃんとするから」
「今度……ですか?」
「ああ、もう間違えない。俺――セイバーの喜ぶ顔が見たいから」
「……シロウ」

 その綺麗な瞳を潤ませながら見つめてくる。な、なんだか余計にあやしい感じになってきたな。俺はわざとらしく咳払いなどをして、その雰囲気を紛らわせようとした。

「な、なにしろ今日は遠坂が塩と胡椒を妙に多く使ったからさ。あいつの好みとはいえ、やっぱやりすぎたよ」
「………………は?」
「それにしても、ただ味付けをほんの少し失敗しただけなのに、あんなに機嫌が悪くなるなんて。本当にセイバーって食べることが好きなんだな」
「……」
「さすがに今日は死ぬかと思ったよ」
「……」
「あ、でも、別に不満があるってわけじゃないんだ。料理に関してそれぐらい真剣になってくれるのは俺としてもやりがいがあるし、セイバーは本当においしそうに食べてくれるから、作ってるほうとしても……」
「……ふ……ふふふ」
「あれ……セイバー?」

 なにやらあやしげな笑みを浮かべるセイバー。さっきまでの淑やかな雰囲気が一瞬で飛び散ったように感じるのは――うん、気のせいじゃないぞ。今日の稽古のときと同様、あるいはそれ以上の陰惨な闘気を身体中から発散中。逃げろ――最近妙に磨かれつつある俺の直感がそう告げていた。

「ええ、そうですねシロウ。どうせ私など食事のことでしか悩みませんよね。ええ、まったくもってそのとおりです。はい」
「ええと……」
「いえ、良いんですよ。シロウ。むしろそんなに気を使ってもらえて私も嬉しいというもの。食事さえしっかりしてもらえれば単純な私としてはなにも不満などありませんし」

 緑玉石の瞳がすうっと細くなる。あ、これはやばい。爆発する寸前だ。どうやら俺はぼうっとしたたま、地雷原のど真ん中に足を踏み入れてしまったらしい。

「あの……」
「せっかく久しぶりに……。ふん! 期待した私がバカでした。シロウのような鈍感な人に私の心がわかるはずも無かったですね!」

 すっと、いっさいの無駄な動作も無く立ち上がるセイバー。聖杯戦争の時ですら感じたことの無いようなプレッシャーを撒き散らしながら俺を見下ろしてくる。
 まったく動けません。蛇に睨まれた蛙、まな板の上の鯉、ライオンの前のステーキ、そんな感じ。

「明日は……覚悟していてください、シロウ。今日の稽古など子供の遊戯と思えるほどしっかりと鍛えて差し上げます」

 いや、そんなんやられたら死ぬぞ、間違いなく。
 そんな俺の思いをよそに、ふん、とばかりに踵を返して部屋を出ようとするセイバー。

「ちょっ、待てよセイバー」

 瞬間的に俺の身体が動いていた。セイバーの視線から逃れたからだろうか。とっさに手を伸ばし、セイバーの手首を掴む。

「なんですか……シロウ」

 それに対する返答は冷たすぎる声だった。暖かさの欠片も無い。
 微妙にくじけそうになる心にぐっと喝を入れる。どうやら俺の考えはまったくあさっての方向に飛んでいたようだ。彼女が不満に思っていたのはどうやら食事のことではなかったらしい。

「その、悪かった、謝るから……」
「謝る必要などありません。私はただ単に夕食の味に不満があっただけですから。ええ。単なる私の我がままです。シロウが気にすることなど無い」
「う、いや、だからさ……」
「なんですか? まだなにか? もしや、今日の続きを今からここでやるつもりですか? 私は一向に構いませんよ。今すぐにでも貴方のことを叩き伏せてみせましょうか」

 相当怒ってるぞ、これは。気を少しでも抜いたら、この掴んでいる手を離してしまいそうだ。俺はなんとかセイバーの視線と圧力に耐えながらその腕をしっかりと握り締めていた。

「この手を離してください、シロウ。それとも無理やり振りほどいたほうがよろしいのですか?」
「あ、あのな……」
「シロウ。剣などなくても貴方『如き』に遅れをとる私ではありませんよ」

 如き、って……

「い、いくらなんでも言いすぎだろ、セイバー。そんなこと言われたら、俺だって」
「なんです? 剣も魔術も半人前の貴方にいったい何が出来るというのですか。私に勝つことが出来るとでも? それは自惚れもはなはだしいというもの」

 かちん、というよりは、ぷつん、と何かが切れた音。俺が反論しようとして口を開きかけた瞬間、俺に腕をつかまれたままのセイバーが、ぐっ、と俺の腕の中へとその身を滑らせてきた。
 俺の顔のすぐそばにセイバーの顔。俺たちはそのまましばらく睨み合った。

 口を開いたのはセイバー。俺の瞳を見据えたまま、戦いに赴く騎士のような声音が零れ落ちる。

「貴方のもっとも得意とすることで戦いを挑んでみましょうか? シロウ。それで負ければ、貴方も少しは身の程を知るでしょう」
「……」

 俺の得意なこと。それは俺たちが今まで何度かやってきたこと。本来勝ち負けをつけるようなことではないが……

「どうします? やりますか? それとも――逃げ出しますか?」
「……っ」

 そうまで言われちゃ……俺も引き下がれないな、セイバー。

「だったら、今夜ここで勝って、明日道場でも勝ってみせようか? セイバー。そうすれば、おまえも少しは可愛らしくなるだろ?」
「ふふ……なかなか面白いことを言いますね、シロウ」

 なんとも不気味な微笑み合い。
 もうお互いに、売り言葉に買い言葉ってやつだ。それぞれ可笑しなことを言っているとは自覚しながらも、決着をつけないともうおさまりがつきそうにない。


 俺はセイバーの細い身体を薄っぺらい布団の上に組み敷いた。セイバーは抵抗しない。静かに……いつものように、俺のなすがままにその身を横たえた。





 衛宮士郎
    VS
     セイバー

 夜の静寂に包まれて、俺たちの戦いが始まる





| Next

あとがき

前から書いてみたいなあ、と思っていた「おバカ」な話。
自分で書いてて、なにやってんだこいつら、と突っ込む。
馬鹿なことを真面目にやってみよう、そんな感じで。
後編は裏行き間違いなしです。あ、許して。