ブライダルにて




 その7 【 年に一度の再会 】 


ブライダルの演奏によく入っていたころは、パーティーの演奏の仕事もさせていただいていました。 会社の創立記念、叙勲、同窓会、古希や喜寿などのお祝いの会、そしてクリスマスパーティ、忘年会などです。現在は、パーティーも生演奏が入ることはほとんど無くなりました。

でも、一社、忘年パーティーに今でもエレクトーン演奏を入れてくださる会社があります。
パーティーがが終わると、社長さんが
「また、来年頼むね。もっとも、来年もウチが大丈夫やったらの話やけどねー。これでもけっこう大変なんよ。ま、また来年会えるよう祈っとって!」
そんなふうに声をかけてくださいます。私も、仕事というだけでなく、その会社のみなさんの雰囲気に惹かれているので、来年もお会いできればうれしいなと心から思うのです。
そして、今回も( 2004年12月30日)みなさんにお会いすることができました。

社長さんやご来賓の挨拶、乾杯、歓談・お食事の時間、そして各部署対抗のプログラムが始まるのです。四部門に分かれての趣向を凝らした余興 ― というより完成されたバラエティーのような世界が繰り広げられます。決められた制限時間の中で、さて今年は・・・
私はここ五年ほど演奏に行っているのですが、年々、メディアの発達を見せられる思いです。カセットテープはMDに変わり、それも見事に編集されています。以前ビデオが使われていた部分は、パソコンの技術を駆使したものになり、私も勉強になります!
今年を代表するものとして、「冬のソナタ」「マツケンサンバ」「ゴリエの『Micky』」が登場しました。ヨン様、サンバのステップ、チアガールのポンポン、楽しかったです。しかし練習はいつ? いつデータの編集を? 衣装の準備はどうしたのか? カツラは? あのステップは? それで仕事はいったいいつ?? 数々の疑問は置いておいて・・・
ご来賓の投票によって順位が決まり、表彰式が行なわれます。 その後は大抽選会が行なわれ、和気あいあいのうちに盛り上がって散会になります。
今年一年の仕事の締めくくりとしての、楽しい時間はきっと来年への活力となることでしょう。新しい年もこの年末のパーティーまで、みなさんがんばられるのでしょうね。
そして、私にとっての一年の仕事納めでもあるのです。また来年みなさんにお会いできることを願って、私も新しい年をがんばっていきたいものです。




 その6 【 MY 校歌 】 


みなさんは、ご自分の卒業された学校の校歌を覚えていらっしゃいますか。私はなんとなく覚えているという感じです。メロディーは歌えるけれど、歌詞は一番二番三番が、ごちゃ混ぜのような・・・  小学校、中学校、高校、大学と行った学校の数だけ校歌があるわけで、私は中学では転校をしたので、さらにひとつプラスになっています。

高校野球で甲子園で流れる校歌 ― それは勝利者を称えるものです。うれしさと誇りと晴れがましさを感じながら歌う球児たちは、きっと一生その瞬間と校歌を忘れないでしょう。がんばったけれど残念ながら歌えなかった球児たちにとっても、悔しさと共に歌えなかった校歌は大切な思い出になるに違いありません。

ご披露宴でも時折歌われることがありました。
エレクトーンで歌の伴奏をしていた頃は、仕事仲間と協力し合って、大学や高校の校歌も揃えていました。プロフィールやスピーチを聞きながら、卒業された学校の校歌の楽譜はあるかなと確認したりしたものでした。
もちろん、いつも歌われるということではなく普通は、同窓生同士の結婚とか、応援部だったとかそういうときが多かったように思います。ただ、学校によっては、必ず歌われる学校というものもありました。地元の名門進学校のK高校はよく校歌を歌われました。時には逍遥歌も。 大学も、東京六大学のW大学出身の方は決まって最後の締めに「都の西北・・・」とよく歌われました。
地元の同じく名門進学校T高校は歌われることはほとんどなく、六大学のもう一方の雄、K大学( こちらは応援歌の方が有名ですが )もあまり歌われませんでした。校風とか、学校の行事の中での校歌の存在感などが関係してくるのかもしれませんが。
ただ言えることは、歌われるみなさんは、その学校出身だということを誇らしく思っていらっしゃるということです。肩を組んで楽しげに歌われる姿から、それが伝わってきました。

私も一度だけ披露宴で校歌を歌ったことがあります。
高校時代の友人のご披露宴で、同級生三人とお祝いの言葉を述べたときのことです。スピーチを終えて席に戻ろうとすると、列席されていた方から
「あなたたち、Y高校やろ? わしもそう。校歌歌おう、校歌!」と言われて
「えっ?」と思っているうちにその場にいらしたY高校の卒業生が集まって、校歌の斉唱となりました。なんだか面映い気持ちの中で歌ったことは、なつかしい思い出です。

同級生と会うと、いっしょに過ごした時間がよみがえります。その頃にすぐに還れるのです。
学生時代のなつかしい友人達も集まる披露宴は、一種の同窓会とも言えます。人生のある時期の思い出を共有している仲間はいいものです。そこで、それぞれの思い出をつなぐひとつの糸として校歌が歌われるのかもしれません。そしてそれは、同級生にはとどまらず、同窓生をつなぐ糸にもなっているのですね。




 その5 【 カラオケ今昔物語 】 


今は昔、あるところに太郎という男がおりました。
太郎はとても歌が好きで、テレビやラジオから流れてくる歌を聴いては、歌詞とメロディーを覚え歌っていました。歌詞は少しずつ聞き取っては、書き留めていったのです。
友人の結婚式に出席したとき、お祝いに歌を歌うことにしました。その会場にはエレクトーンが入っていたので、曲名を告げて伴奏を頼みました。歌詞は覚えていたので、大丈夫だと思い歌い始めましたが、緊張していたのでしょうか、途中でわからなくなりあわてて手帳に書き留めていた歌詞を見て歌い終えました。友人はとても喜んでくれました。

それからしばらくすると、行きつけのスナックにカラオケなるものが入りました。なんとプロの歌手が歌っているのと変わらないオーケストラの伴奏で歌えるのです。太郎は、歌うのがより楽しくなりました。歌詞は、専用の歌詞集が用意してありましたので、もう書き留めたりする必要もなくなったのです。
でも、歌い始めがよくわかりません。そこで、歌いたい曲のレコードを買いそれを何度も何度も聞いて、イントロと間奏をしっかり覚えました。これで、歌い始めるタイミングを間違えずに上手に歌い始められ、二番、三番の入りもしっかり自分のものにしました。

そしてまた、少しの月日が経つと、今度はテレビのような画面に歌詞が流れるようになりました。しかも、歌い始めはもちろん、今歌うべきところの文字の色が変わるではありませんか。
「おおっ!なんと便利な!」太郎はこれで、イントロや間奏を覚える必要はなくなったのです。

そして、やがて時代は通信カラオケとなり、新曲も、アルバムに入っているマニアックな曲も、すぐにカラオケとして歌える時代がやってきたのです。
太郎はもう、歌詞や曲の構成を覚えなくても、自分が歌いたいと思った曲がすぐに歌えるようになりました。とても楽しく満足でした。

でも、ある時、ふと思ったのです。今、自分が歌ってる曲のストーリーは何だろう?と。メロディーはどんなふうになっていたろう?と。
昔、歌詞を覚えようと必死になっていたときは、手帳に書き付けながら、その言葉の意味を考えたものでした。「なるほどな」「いーい歌詞じゃないか」「泣かせるね」などと感じたりしていたのです。
歌詞集を見ているときも、一番はこうで、二番はこう、そして三番がこういうふうになるのかなど全体の構成は見えていたのです。しかし、今はどうでしょう。目の前を通り過ぎていく歌詞は全体の意味などわからなくても歌えてしまうのです。
メロディーをきちんと聞いているのは、もしかして歌詞の部分だけではなかろうか。あとの部分は聞かなくても機械が教えてくれるのだから・・・  じっくり音楽を聴くことがなくなってしまったことに 太郎は気づきました。
便利で都合の良い機械はすばらしいけれど、忘れられていくものもあるのかもしれません。そうだ、もう少しひとつの曲を大切に聞いてみようと思った太郎なのでありました。


《 ちょっとひとりごと 》

私が、ご披露宴の演奏を始めたころは、みなさんおふたりの門出にふさわしい内容の曲を選んで歌われていました。たとえば、『愛の賛歌』『『ここに幸あり』『結婚しようよ』などの「愛」の曲や「ハッピーエンドになる」曲などなど。逆に『浪曲子守歌』(♪逃げた 女房に 未練はないが〜♪)や、『星影のワルツ』(♪別れることは つらいけど〜♪)など、文字通りの別れの曲を歌うのははまずいと意識されていました。

それがだんだん、ご自分達の好きな曲を歌われるようになりました、それはそれで「いと楽し」でいいのではないかと思っていました。そのうちに本当になんでもありということになってきて、「別れ」の曲であろうが「不倫」の曲であろうが、平気でご披露宴で歌われるようになってきました。きっと歌詞の意味を考えていないのだろうなと思っておりました。流れ行く歌詞に、その意味を訴える力は弱いのでしょうね。余興であるのだから、そんな硬いことを言う必要もなかったのですが、「いとさみし」とは思いました。

人はすぐ便利なものに慣れていってしまいます。そのことで、本来持っていた音楽力や言語力はすっかり怠けているようです。時には後戻りして振り返って考えてみるのもいいかもしれません。きっともっと楽しめるのではないでしょうか。




 その4 【 すりこみ― ブライダル編 】 


ご披露宴の余興には、歌やゲーム、踊り(?!)など、事前に頼まれていらっしゃる方はいろいろ趣向をこらして来られます。
その日は、打ち合わせで新郎さんのご友人が手品をすることがわかっていました。もし、BGMを用意されていなかったら、あの曲を弾こうと思っていました。
そこに、キャプテン(その披露宴の責任者です)が来られて、
「手品のBGMは『チャラララララン』、弾いてあげてくださいね」
「はい、そうします!」
次に、サブキャプテンが来られて
「『チャラララララン』よろしくっ!」
「はーい!」
さて、次に手品をされるご本人が来られて
「すみません、手品をするんですが『チャラララララン』できます?」
「はい、お弾きします!」
そうして手品は始まり、私はあの曲《 オリーブの首飾り 》を『チャラララララン』と弾いたのでした。
当時は手品のBGMといえば、この曲でした。私自身は、《 恋は水色 》や《 涙のトッカータ 》などと同じくポール・モーリアグランドオーケストラの代表曲と言う認識だったのですが、そのころはテレビで手品といえばこの曲が流れていましたので、一般には手品のBGMというイメージが定着してしまっていたのですね。曲名は知らずとも、『チャラララララン』で。
トリルのイントロから、ハープシコードのキラキラした音で始まる曲は、短調の曲だけれども、軽快でリズミカルな楽しい雰囲気を作ってくれました。

今は、マジック、時には超魔術と表現され、仕掛けも派手になりました。BGMもトランスやユーロビート、ダンスミュージックなど幅広い音楽が使われていますね。
時には、のどかに『チャラララララン』で「手品」はいかがでしょう?




 その3 【 幻の名器!?― A 】 


「椅子を捜せ!!」騒動で、音出しがあまりできないままでしたが、弾いて見るとそのエレクトーンはきれいな 音が出ました。 オルガンでもない、もちろんピアノでもない、それは「エレクトーン」の音でした。

   エレクトーンという楽器はこれまでずっと進化し続けてきました。音源の変化でよりリア
   ルに、生の楽器に近い音が出せるようになりました。
   『ひとりでオーケストラ』も夢ではありません。クラシック、ジャズ、フュ―ジョン、ラテン
   ・・・さまざまなジャンルの音楽の演奏がひとりでも可能です。
   上下の鍵盤にピアノを、足鍵盤にはウッドベース、そしてSwingのリズムをセットして、上
   手にさえ(それがむずかしいけれど!)弾けばひとりでもジャズピアノトリオの演奏ができ
   ます。
   今のエレクトーンは本当にリアルな音を出せるようになったのです。
   それはエレクトーンの大きな特徴であるのですが、でも、今、「エレクトーン自体の音って
   どういうの?」と尋ねられるととまどいます。
   今のエレクトーンの音を多くの人に聴いていただきたい、そして楽しさ、素晴らしさをわか
   っていただきたいと思っていますが、どのようにしたらエレクトーンらしさをお伝えできるの
   かも考えていきたいものです。

さて、せっかくですから演奏にメリハリをつけたいと考えましたが、お話したようにレバーは少ない。 サスティーン(ピアノのダンパーペダルのようなものですね)は、膝が届くようになったので、 ニーレバーで必要な部分にかけ、あとはビブラートを多くしたり少なくしたりするしか ありませんでした。また、そのエレクトーンにはリズムもついていませんでした。
―――読んでくださっているお若いエレクトーン経験者の方、「ええっ!」とのけぞっていらっしゃる かもしれませんね。 でも、左手とベースで基本のリズムを弾けばなんとかなるのです。

宴は順調に進み、新郎新婦のおふたりがお色直し中、座は余興で盛り上がっています。 カラオケも普及していない時代(ほんと、いつのことでしょう!?)でしたから、伴奏は もちろんエレクトーンです。
『瀬戸の花嫁』『花嫁』『てんとう虫のサンバ』『夫婦春秋』『銀座の恋の物語』などなど、 手拍子を交えて宴はにぎやかに過ぎていきました。と、その時、親族のおじさまがやってこられ、
「嬢ちゃん、(私のことです。私も若かったのです、ハイ。)『炭鉱節』ば弾いてくれんね。 いっちょう踊るけん」
「はい」と答えて
♪チャンチャラッチャ チャンチャッチャ チャンチャラッチャ チャンチャッチャ♪ と弾き始めると 踊り始められました。そして、踊り手はしだいに一人増え、ふたり増え、とうとうその場にいらした 全員の方がお膳の列のまわりで踊られたのです。
「月が〜出た出た、月が出たぁ ヨイヨイ・・・」と口ずさみながら。
でも、聞いているとみなさん一番をずっと歌っていらっしゃるのです。私も弾きながら この曲って何番まであったんだっけ?と思いつつ、どこでやめていいのかがわかりません。
3コーラス弾いたところで、もうそろそろかなと思ったのですが、どうも踊りの 勢いは止まりそうにない。それでもう2コーラス、ウーンまだかな、踊るのも そろそろ疲れられたかなともう1コーラスで、♪チャン、チャ―ン♪と終わらせました。
みなさん、「やあやあ」という感じで拍手をされて座られました。 会話も弾まれているようで、場はいっそうなごやかになりました。

そのうちに新郎新婦お二人が、洋装にお色直しを終えてもどって来られました。
タキシードとウエディングドレスで、キャンドルサービスです。普通は部屋の照明を落として、 キャンドルにともった灯りで雰囲気を出すのですが、そこはお座敷。日本庭園が見渡せるように してある部屋は暗くはなりませんでした。明るいまま。
洋装姿のお二人は、素敵でした。でも、なんだか裾が・・・ そう、タキシードのズボンや ドレスの長さは靴をはいた状態で美しく見えるように決められるのです。だから、靴を脱いだ 時にはどうしても裾を引きずるようになってしまいます。キャンドルトーチを持ったおふたりは 裾を踏みながらお膳の上のキャンドルをつけていかれました。ちなみにBGMは、その頃の定番曲 『愛の讃歌』です。
おふたりはにこやかに、幸せそうに、お客様もそれは暖かく祝福されていました。裾のせいで 歩きにくく、つまずきそうになったらみなさん「ハハハ」と笑われて。

この暖かな雰囲気は最後まで続きました。
ご両親へ花束贈呈ののシーンでは、『かあさんの歌』(これも定番でした)を弾き始めると あちらこちらでもらい泣きをされて、新郎新婦の退場ではみなさんんがアーチを作られて、 激励を受けながらおふたりは通っていかれました。
「やぁ、ええ披露宴だったばい」
みなさん満足されてお帰りになられたようで、私もホッとしました。

今は、おしゃれなレストランウエディングやハウスウエディングが全盛です。時代は違っても、 披露宴の形は異なっても、人生の新たなスタートを祝う気持ちに変わりはないのです。

ところであのエレクトーンですが、先輩方にお聞きすると、それは<D-1>ではないかということでした。
<D-1>は、エレクトーンの第一号機種なのだそうです。YAMAHAが研究を重ねて世に送り出した エレクトーン、あの時のエレクトーンが果たして本当にそうであったのかは、今となっては わかりません。残念なことに、二度とめぐり会うこともありませんでした。

そのホテルは改装を重ねてもう以前の面影はなくなりました。エレクトーンも最新機種は、 ダイレクトにインターネットに接続でき、記録媒体はスマートメディア、音色やリズムは 何百種類の時代となりました。
時代は流れていきます。でも、そのホテルの近くを通ると、ふと あのエレクトーンはどうなったのだろうと懐かしさをこめて思うのです。




 その2 【 幻の名器!?― @ 】 


今の結婚ご披露宴の音楽は、私の住んでいる北九州では、CDを流すということが主流になっています。 お好きな曲、思い出の曲をご自分たちで選曲されて持ってこられたり、ブライダルBGM専門の 業者さんが入ったりという形です。
生演奏の良さは、忘れられているかな・・・

私がご披露宴の演奏の仕事をを始めた頃は、最初から最後まで、つまり、お客様をお迎えしご披露宴が催され、 そしてお客様が会場を出られるまで、すべての音楽はエレクトーンが担当していました。
えっ?いつのことかって? ま、それはおいといて・・・

ある大安の日曜日のことです。その日はご披露宴の数も多くホテルのロビーはお客様でいっぱいでした。 私が担当するご披露宴の会場は、それまでに行ったことのない部屋で、渡り廊下を通って行きました。 着いてみるとそこは、上座に30センチぐらいの高さのステージがあるお座敷でした。
旅館の大広間といった感じで、お料理はおひとりずつのお膳で、座布団が置いてあり、会席料理の準備がしてありました。
さて、エレクトーンですが、なんとステージの上に鎮座しておりました・・・
畳の上に置くのもこういう所だと考え物なのかなと思いつつ、近寄ってみると、これまでに見たことのない エレクトーンでした。
私は、子供の頃からエレクトーン畑を歩いてきたわけではなく、促成栽培で育ってきたわけですから、 見たことがないというのもありうることでした。他社の電子オルガンかなとも思ったのですが、いえ、 YAMAHAのエレクトーンでした。少し明るい色で、レバーの数は多くはなかったのですが、鍵盤さえ あれば十分なのでとにかく音を出してみようと思いました。
しかし・・・あらっ?椅子が無い。きっと出し忘れているのだと思い、宴会係の方に手があいたら 持ってきていただけますかとお願いしました。

待つことしばし、運んできてくださいました。ロビーのソファーのひとりがけの椅子を。
「いやぁ、エレクトーンの椅子は見つからないんですよ。これでどうでしょう」
「は、はぁ」座ってみました。低い!目の高さは鍵盤の位置です。うーん、これでは ニーレバー( 膝で操作して、効果を出すのです )に私の膝は届きません。
「あのぉ、他にはないでしょうか」
「そうですねぇ」真剣に考えてくださって、
「ちょっと待ってくださいね」と走っていかれました。

待つことしばし、運んできてくださいました。バーのカウンターにある止まり木用の円椅子を。
「これでは、どうですか」
「は、はぁ」座ってみました。高い!鍵盤を見下ろし、腰掛けたら足はぶらぶら、足鍵盤に私の足は 届きません。
「あのぉ、これはちょっと・・・」
「やっぱり駄目ですね。ウーン」
私も考えました。この円椅子よりは、先ほどのソファーの方がまだいい。
「座布団、何枚かお借りできますか。高さを調節してみます」
とは、言ったものの何枚重ねたらいいのか、果たしてその上に座れるのか、崩れ落ちないのか・・・ 不安は尽きません。
その時、思い出しました。この会場に来る時に通ってきた渡り廊下に古いアップライトピアノが あったのを!
「そうだ、ピアノの椅子、お借りできませんか」
「わかりました。それがいいですね」
今度は私も、走っていきました。ピアノが置いてあった場所まで。
しかし、また椅子が無い。ああ、楽器といっしょにしておいて欲しい!!
「倉庫、捜してきます!」 宴会係の方がまた走ってくださいました。

待つことしばし。ありました、ありました! ピアノの円椅子!今度は高さも調節できるし、ああ、よかった!
宴会係の方にお礼を言って座ってみました。ニーレバーも使えるし、足鍵盤にも届くし、これで弾けます。
でも、この直後、私は悟ったのです。なぜ、エレクトーンの椅子は長いのか(長方形です)を。
エレクトーンは足でもドレミ・・・を弾きます。足を伸ばしたりもどしたりして、音階を弾くわけです。 そのためには、余裕のある座る場所が必要なのです。
お気づきだと思いますが、ピアノの円椅子にはその余裕はありません。足を伸ばして低音部を弾くたびに、古い円椅子はクイッ、 クイッと音を立てながら回りました。

こうして 腰を振りながらのエレクトーン演奏で、そのご披露宴は始まったのでありました。

                                    このご披露宴 〔つづく・・・〕


  

 その1 【 ワルツです!? 】 


ブライダルプレイヤーの仕事を始めてまもなくのこと、その日もエレクトーンで 歓談中のBGMを弾いていました。 
と、そこに上品な奥様が来られて、
「ねえ、ちょっとダンスをしたいんだけど、ワルツを弾いていただけないかしら」
「はい、承知しました」と答えて、はて、何を弾こう、〈魅惑のワルツ〉とか〈ムーンリバー〉で いいのかな、まさか〈皇帝円舞曲〉とか〈美しく青きドナウ〉ってことはないよね・・・
で、伺ってみました。
「何か、ご希望の曲がおありですか」
「そうね・・〈ゲイシャワルツ〉弾いてくださる?」
「あ、はいっ」
弾きました!〈ゲイシャワルツ〉 持っていた歌謡曲集に楽譜は載っていましたので。

     《あなたぁのぉ リードォでぇ 島田もぉ ゆれるぅ〜♪・・・》(作詞西条八十)
    えっ?なんで島田さんがゆれるのかって?『島田』というのは、人の名前ではなくて、
    ほら花嫁さんの文金高島田の『島田』、あのことですね。えっ?なおわからないって??
    要するに芸者さんが結っているあの日本髪のことなのです。
    『あなたに導かれて踊っていると私の髪もゆれるのよ』ということですね。
    芸者さんのせつない恋の歌といったところでしょうか。

その奥様は、楽しげに踊ってくださり、「ありがとうね」と言ってくださいました。

新米の私はこのことで多くのことを学びました。
    音楽の好みはさまざまであること。
    自分の考える音楽の範囲が他の人と必ずしも一致するわけではないこと。
    どんなジャンルも音楽に変わりはないこと。
     
それからの演奏の姿勢に少なからず影響を与えた出来事でした。