浴衣


 ダブリスの夏は暑い。
 石畳には、陽炎さえ立ち昇る。
 太陽が傲慢に輝く日中は、とても歩けたものじゃない。しかし湿度が低く木陰に休めば風が爽やかに吹き抜けるので、街の衆はこの時間そろって昼寝を決め込んでいる。さもありなん。
 熱中症は洒落にならないし、大体こんな暑い中働いてもしんどいし効率悪い。それぐらいなら午睡の夢にまどろむほうが、いっそ健康的である。
 まさに先人の知恵かくあるべし。
 しかしそんな地元の常識とは、無縁の影が大小2つ。
 蜃気楼揺らめく市街地をトップスピードで駆け抜ける。そのさまはまるで暴走列車だ。
 午後からの商売に向けて売りものの瓜に水をかけていた親父さんも、植え込みの下でだらりと寝そべっていた老犬も、元気すぎる2人組みに驚いて視線を投げるが、光を弾く金髪頭を目にした途端、彼らならそうだろうと納得する。


「師匠―!」
「危篤だって本当ですかっ!!」
 ばん!ばばん!
 形相を変えたエルリック兄妹は戸を突き破る勢いで生肉店の門を潜り。…………そしてガックリ力尽きた。
「おう、早かったな」
 病院に担ぎ込まれたはずの彼らの師匠は、優雅にアフタヌーンティを楽しんでいる。
 ノースリーブの上着に深いスリットの入ったスカートが、いかにも夏らしく涼しげた。
「倒壊する建物と…子供の間に割って、入って」
「……怪我をして。大病院に運ばれたって、メイスンさんから電報が。……アレは?」
 深夜の知らせに叩き起こされ、そのまま夜行列車に飛び乗って。
 汽車が遅いと焦りを感じたのは久方ぶりだった。
 焦慮に追い立てられるまま、ダブりズ駅からここまでノンストップで走り抜けてきたのに、と。
 恨みがましい目をした弟子たちにイズミはしれっと手を翳す。
「運ばれたぞ? その日の夕方には帰ってきたが。ほら証拠」
 白魚のような(といってもいいのだろうか?…まあ少なくとも外見は)手には、小さな傷テープ。
「助けたお子さんがその病院の娘さんだったんだ。ついでに送って行っただけさ。だいたいビルの倒壊に巻き込まれたぐらいで人事不省におちいるようなヘマなんてするものか」
((化け物…))
 兄弟は口から魂が漏れ出しそうになる。

 いいえ?
 良いんですよ?
 仕事仲間の阿鼻叫喚に耳を塞ぎながら強引に有給もぎ取ったのも、参加する筈だったサマーキャンプをキャンセルしたのも。別に大したコトじゃありません…あなたが無事でいてくれるなら。
 でも。
「さて、折角来たんだ。いっちょ揉んでやろう」
 爽やかな笑顔が眩しいです師匠。
 …イーヤーぁ!!
「じゃっボクたちはこれで!」
「仕事残してきたんで!」
 腕を鳴らして立ち上がったイズミに、エルリック兄妹は背を向ける。しかし師匠のほうが一歩速かった。
 ターゲットロックオン。
 ガシッと2人の襟が掴まれる。こうなっては逃げられるものではない。
「待て。まあ遠慮するな」
「「ぎゃー!」」
 師匠に投げ飛ばされた兄弟は、キレイな放物線を描いて空を飛んだ。


 ダブりズの夏には汗疹の用心は欠かせない。
「アル、ほれ背中」
「はあい」
 散々シゴかれ強制的に掻かされた汗をさっぱり流し、湯上りの肌にほのかに甘い香りのする天花粉をはたく。
「おー上がったか。ほら羽織んな」
 脱衣所に顔を出したイズミが持ち込んだのは、黒色の布地とそれに対のような白地に花模様の布だった。
「なんですかコレ」
 簡素な造りだが、衣の色合いと浮き出た模様がうつくしい。
「着てそのまま街を歩けるバスローブのようなものだ。麻と綿の混合だから涼しいだろう? うちの従業員の手尽くしだ、一回ぐらいは、まあ付き合え」
(もしかしてこれを着させるために誘き寄せられたのだろうか?)
 ……ありえる。
 メイスンさんは面白がりだし、師匠もノリは悪くない。
「また珍しいものを」
 エドが着せ掛けられたのは黒絣。黒3色で光の当て方により模様が浮かぶ。
 アル用に渡されたのは、白地に淡い青紫の紫陽花が肩と足元に描かれたもの。余白をたっぷり取った図案が、清楚な印象を際立たせる。
「異国渡りの花火師が持ち込んだ、ダブりズの夏の新名物といったところだな。ホレ、帯」
 渡された紐は、横幅は広く縦は異様に長い。さて、これはどのように身につけるものなのだろうか。
 エドは尋ねる。
「師匠、コレどーするんですか?」
「……巻く」
「どうやって?」
「私が知ると思うか」
 えっへん威張って開き直られましても。
(だって、師匠は着ているじゃないですか)
 アルと同じ紫陽花柄で帯を蝶のように結び、髪はアップにして小粋に襟足を覗かせている。

 閑話休題。
 イズミの帯は誰が結んだかというと、当て嵌まるのはひとりしかいない。
「布越しとはいえお前の肌を他のヤツに触れさせるわけにはいかんだろう」
「やだよvもうあんたったらv」
 万年ラブラブ夫婦の営みに、兄妹は常に当てられっぱなしだ。
 シグに帯を締めてもらいながら、アルはこそばゆくなる背中に耐える。今日もお腹いっぱいご馳走様です。
(…いいなあ)
 溜め息は、締められる帯のきつさのせいか。
「おー。アル可愛いなー」
 エドは慣れない下駄をぶらぶらさせて、アルの着付けを見学している。
 簡単だからと先に着付けをしてもらったエドの浴衣は、どうも男物らしい。シグと同じものを着ているのだからそうだろう。
 兄は女物が似合わないと(そんなことはないのに!)割り切っているから最初から用意されたものになんら異論がないようだ。
 確かにこちらのほうが衣の柄といい帯といい華やかで手が込んでいるが、あっちのほうが楽そうなのにとアルは恨みがましく上目遣いをする。
 キュキュッと小気味良い衣擦れの音。アルの帯を締めていたシグはイズミを振り返る。
「こんなもんか?」
「もちょっと締めたほうが格好いいかね」
 無責任な師匠の言葉にアルは慌てる。男の力で締めたほうが帯は綺麗に仕上がるとのことだが、シグの力で遠慮なくやられたら堪ったものではない。
「く!…苦しいです師匠」
「女なら耐えな」
 …世の中の女の子たちは、本当にこんな苦行に耐えているのだろうか?
 そんなはずない。
「……具、が出そうです」
「あんたストップ!」
「うわあ!シグさんロープ、ロープ!」


『めかしこんだんだから出かけてきたら?』 とはメイスンの弁。
 今夜は街の有志が主催する、花火大会があるとのこと。
 昼間は人気の無かった道が、陽が落ちた今は、どこにこれほどの人数が隠れていたのかと不思議に思う賑わいだ。
 しかし人込みに紛れても、華がある人間は目立つもので。
 男物の浴衣を着こなしたエドは、街を歩く娘さんには目の毒だ。
 団扇を背中に差した黒絣の浴衣に金髪が映え、水際だった男ぶり。まあ、あと20年もすれば夫といい勝負が出来そうだ。
 お日さま色の金魚のようなアルがしっかりその手を握っていなきゃ、祭りの浮かれ気分のまま獲物にされても仕方ないとくれば。…エドも年頃の女だというのに、笑い話にもなりゃしない。

「しっかしあんた久しぶりに見たけど、相変わらず胸ないねえ」
「感慨深げにしみじみ言わないでもいいです」
 エドは殴り飛ばされる覚悟をしたが、師匠は更に溜め息ひとつ。
 育ち盛りのお子さんの食卓には気を使ったつもりなのに。この成長不良は如何なものか。
「そろそろアルに抜かされるねえ」
「う」
 アルは健康的にすくすくと成長している。身長はもちろん胸のサイズも。
 気にしない振りをしてても、11歳に負けたらやはり胸中複雑だろう。
「やっぱり牛乳飲もうよ兄さん。胸が大きくなるってよ」
「……牛乳キライ」
「もう、いっつもそうなんだから!」
「なんだい。いつの間にかアルはエドの保護者のようだね」
 イズミは人の悪いニヤニヤ哂いで顎をさすった。
 昔と違いエドが好き嫌いを公言するのは身内の前だけ。要するに構って欲しいのだこのガキは。
(ナリばっかり大きくなって相変わらずの甘ったれ)
 エドはむっつり押し黙り、アルは苦笑を唇に浮かべる。
 注意するふりでアルがエドに甘えているのも、やっぱり師匠はお見通しだ。

「お母さん!花火が上がるよ」
 父親の肩に乗った子供が、空を指した。つられて見上げれば夜空に咲くのは大輪の華。
 どおんと低い打ち上げの音が腹に響く。
 背の低いアルは、赤い鼻緒のぽっくりで精一杯に背伸びをする。気付いた兄が声を掛けるより先に、イズミの細い腕が軽々とアルの身体を抱えあげた。
「あんた頼むね」
 言いながら小さな履物を脱がせていく。
「ああ」
 シグの広い右肩にちょこんと乗せられたアルは恥ずかしそうに膝を擦り合わせる。父は家庭的な人ではなかったから、生まれて初めての経験だった。まさかこの年になって肩車してもらう機会があるなんて思わなかった。
「よかったなーアル……って、うわ!」
 団扇の陰でやらしい顔をしていたエドは、すっかり油断をしていた。イズミに一動作で持ち上げられて、反射的にシグの首にしがみ付く。
 丁度アルの反対側の左肩に有無を言わせず乗せられた。
 唖然、呆然。
 一瞬ののち我に返る。
「シグさん!…オレはいいです!」
 街を行く人に指をさされて、大いに焦る。まだあどけない外見のアルとは違い、エドはすっかりいい年だ。祭りの神輿じゃあるまいし、担ぎ上げられることなど予想外だ。
 しかしシグは悠々としたもの。
 2人を肩に乗せたまま、(後ろの人を気遣ってか)壁際に寄った足取りも危なげなくどっしりとしている。
「アルだけじゃ可哀想だろう?」
 成熟した大人であるシグから見れば、エドもアルも庭先でコロコロしていた頃からさほど変わりない。
 いたって真面目な顔だった。
(か、かわいそうって、ナニが?)
 そんなに子供に見えるのか。……そうなのだろうな。
 尋ねたらダメージを受けそうで、エドは口をパクパクさせた。
「お、オレは重いからいいです!」
「うちのと同じぐらいだから軽いものだ」
 辛うじて断りの文句を捻り出したものの鷹揚に一蹴されてうな垂れる。
 しかし世の中の旦那さんの何割が奥さんの重さを体感として知っているのだろうか。
「やあねっ。もうあんたったら格好いいんだから」
 イズミはシグの広い背中にのの字を書く。
 恥ずかしさも2乗だ。
(わあ。なんかすっごく悪目立ちしてるよ兄さん)
(耐えろ妹よ)
 シグさんはもちろん、なにより師匠が楽しそうだ。
 お揃いの浴衣を用意してくれたメイスンさんに『たまには親孝行もいいものでしょ』と耳打ちされたが。
 親を師匠と置き換えれば師匠孝行。ただならぬ恩があるだけに(もちろんそれだけではないが)逆らうなど思いもよらない。
 それに…………まあ、どうしても嫌というわけではないのだ。
 ただ慣れてないからムズムズするだけで。

「キレイだね、花火。光の柳みたい!」
 景気良く上がり始めた花火の打ちあげ音にアルは声を大きくする。
 瑣末なことに目を瞑れば、特等席からの眺めは最高だった。
「アル正解。アレは『しだれ柳』」
 間断なく上がるのはスターマイン。2尺半もの大芍薬に八重芯変化菊。目の眩む煙花の数の大迫力。
 耳に轟く打ち上げ音に、会話は花火の切れ間でするしかない。
「すごい!…こんなの毎年、やってるんですか?」
「ああ。お前さんたちはここには用件以外で立ち寄らないから知らなかっただろう?」
((……はい。仰るとおりです))
 兄妹は顔を見合わせた。……なにやら妙に気恥ずかしい。
「えーと、来年は。…なあ、アル?」
「うん。余裕を持って」
「「遊びに来てもいいですか?」」

 師匠の返事は轟音に消されて聞こえなかったが、応えを知るのは口元に浮かべられた微笑だけで充分だった。



 カーティス夫妻と兄弟(姉妹)は擬似家族っぽいと萌です。
 お互いにちょっとずつ遠慮していて、何か切欠がないと会いに行きづらいとか考えていると更に喜。
 そして端から見てると『ケッやってらんねーや!』と舌打ちされるぐらいラブラブ家族っぷりだったりすると、もう言うことありません。

 だけどシグさんは浴衣似合うんだろーなー。…………この後、シグさんは通りすがりの玄人のおねいさんに秋波を送られたりして、師匠は盛大に焼き餅したに違いありません。
 そして八つ当たりされるエルリック兄妹。
 …はい、ワタシ夢を見ております。




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