機械の国の王子さま 4







 眠り姫の事情




 初めて見る夜明けは静謐に包まれていた。
 東の空に浮かぶ暁雲はたなびき、やがて薄紫に染まり。一条の光が夜を切り裂いて、露に濡れる王宮の庭園を照らしていく。
 朝靄のかかる世界のうつくしさは、どことなく物寂しい気持ちにさせられたが。

(でも…静かなのは、夜だけなんだなあ)
 アルは密かに嘆息する。

 ガチャ!…バタン!カツカツカツ!

 足音荒く部屋に踏み込んできた少年は、とても怒っているらしい。
「エドワード!起きろっ!」
 年の頃は14・15 。端正な顔は怒気に染まって夜叉のようだ。
 アルのほうもちらりと見たが、自己紹介はとりあえず用事が済んでからとばかりにエドの布団を引っ剥がし、容赦なく上着に手を掛ける。
「エドっ、また風呂に入らず寝たろ!?……ってなんだこの怪我はーっ!」
 脱がしたとたん絶叫した。
(うわ!)
 二の腕と指先には、乾いた血の跡がべったり残っている。よくよく確かめれば大した怪我ではないが、心構えなしに見ると生々しい。気付いていなかったアルも驚く。
「……ラッセル、頼むあと1時間」
 ラッセルの激高もなんのその、寝ぼけているエドは地の底で返事をした。
「1時間!なんで貴様はそう図々しいんだ!せめて5分、10分と言えんのかっ!」
「んー…」
 火に油を注がれたラッセルにガミガミ叱られても馬耳東風、エドは耳を塞いで身体を縮め……。
 急にガバッと起き上がった。
「アル!」
 名指しされ、アルはびくりと身を竦めた。
「……お、おはよう?」
「…おう、はよ。あー、やっぱり夢じゃなかったか」
 エドは寝乱れた髪を更に掻き回した。起きようと努力しているらしく、頬を何度か手のひらで叩く。
 夢にしておきたい気持ちはわからなくはない。
「うん。ごめんね」
「お前のせいじゃない。ラッセルがあんまりいつも通りだから……って何でお前ここに居るの?」
 言い訳の材料にされた少年は、口をへの字に曲げた。
「お前が声紋錠を起動させたからに決まっているだろう。アレを使うんだったらもっと登録者増やしとけ、いちいち担ぎ出されちゃ俺もいい迷惑だ。ほらシャワー浴びて髪、洗って来い。それが終わったら飯だ。どうせ夕べも食ってないんだろう。厨房から差し入れ届いているぞ。もちろん、弟君の分も用意してある。お前に弟がいたとは初耳だが」
 マシンガントークで追い立てられたエドは、ふわあと大きく欠伸をした。
「んー。まあ、人生何があるか分からないよな。ラッセル」

「……なんだ?」
 急に目が覚めたよう真顔になったエドの様子に、ラッセルは警戒した。
「アルは今の王宮を何も知らない。弟のことを正しく知って味方になって欲しいんだ」
「そんなことか、お安い御用だ」
 ラッセルはホッと息を吐く。どんな難題を振られるかと身構えた自分が恥ずかしい。
(弟の心配をするなんて、こいつも人の子らしい情緒があったか)
 ラッセルにも弟がひとり居る。珍しくエドの心配りに共感を覚え、微笑ましい気分になった。
 改めて、アルに向き直る。
「こいつがこんなに寝覚めがいいなんてことはないんでな。まず起こしてからと思ったんだが、挨拶が遅れて済まなかった。ラッセル・トリンガムだ。よろしく頼む」
 ラッセルが手を差し出すと、大きな手は意外な繊細さで握り返した。
「アルフォンス・エルリックです。いろいろご迷惑をお掛けすると思いますがよろしくお願いします」
 少年らしく澄んだ声はまだ稚い。
 難病のためボディ・スーツが脱げないと朝一番の噂で聞いたが……よほど苦労しているらしく、エドの弟だという年に似合わぬ穏やかさが痛ましかった。
(少し……いや、だいぶ驚いたけど、いい子じゃないか)
 頼まれたからではなく、無条件で力になってやりたいと思う。
「ラッセルは性格は悪いが、そのぶん頼りになるヤツだ。一度口に出したことは違えたりしない」
 一部耳障りな表現があったが、ここは弟君を不安がらせるのも難だとラッセルは我慢をする。
「だから、アル。お前が嫌じゃなきゃ兜を外して見せてやって欲しい。ラッセルも錬金術を習っている」
 アルは戸惑って言い澱んだ。
「……いいの? バラすなって昨日…」
「お前が信用できると判断したら話していいと思う。フォローしてくれる人間は必要だ」
「そうだね…ラッセルさん。ボクの鎧の中を見てもらっていいですか?」
(よっぽど覚悟が必要らしいな)
 ラッセルは緊張した。全身にボディ・スーツが必要な病気となると、ざっと想像するのは酷いものばかりだ。
 病状を詳しく説明するより見せてしまったほうが、判断の付きやすい病なのだろう。
「ああ」
 覚悟を決めてしっかり頷くと、アルフォンスは嬉しそうに吐息をついた。

 カチリと音を立てて首の留め金が外される。

 アルの『中身』を見て絶句してしまったラッセルの前で、エドは手を振ってみた。……が、反応はない。
「ラッセル?……ラッセル、おーい? 駄目だ、固まっているよこいつ」
「どどどどうしよう? やっぱりショックが大きかったんじゃ…」
「大丈夫、大丈夫。こいつしぶといから。しばらく放っておけば復活するって…じゃ、オレはその間に風呂浴びてくる。また注意されるのも嫌だし」
 エドはアルの動揺にも頓着しない。そう言って寝室を出て行ってしまう。
 アルはどうしようか迷ったが、その場に残ることにした。ラッセルをこのまま放っておくのは拙いと思うのはアルだけだろうか?
(やっぱり兄さんは剛毅だったんだ。アレを基準にしちゃいけないってことだよね…反省)
 エドに兜を脱いで見せた時は、あまり驚かれなかった。それどころか思い切りよく首を突っ込まれ、こちらのほうが慌ててしまったぐらいだ。
 悪いけれど、ラッセルの反応の方がひととしては正しい気がした。
 アルは自分がまだ兜を脇に抱えたままだと気付いて、被り直す。

「……魂の定着?」
 どこかの部屋で水音が流れ始めて、しばらく時間が経ってからラッセルはポツリと呟いた。
「あっ。はい、そうです」
(若いのに博識だ)
 斎院のエドなら兎も角。この年の少年に見抜かれるとは新鮮な驚きがあった。

 溜め息を付いたラッセルは、眉間に高い山脈を築く。
「それで『アルフォンス』か。王族としてもリゼンブール人としても最高の名だが、『エドワード』と対だと趣味が悪い。あいつももっと違う名を考えてやれば良かったのに」

 アルフォンス王と言えばリゼンブール中興の祖ともされる名君だ。
 西と東の大国相手に2度の動乱を乗り切った戦功も華々しいが、政治的手腕にも優れ、長く善い治世をした。
 有名なのは職能の保護と、商業の奨励。
 大陸行路へ繋がる道路の整備は、リゼンブールの交通網の基礎となっている。
 死期500年経った今でもなおその業績は輝かしく、国民からの人気が高い。
 しかし勇猛にして苛烈な武道の王でもあったため、穏健派の斎宮との折り合い悪く、兄殺しをしたとも伝えられていた。
 その波乱に満ちた生涯は、よく小説や絵のモチーフになっている。
 ラッセルはその一幕を歌劇で見たので、特に印象に残っていた。

  チクリと胸に痛みが走ったアルは、咄嗟に否定した。
「違います。ボクはもともとアルフォンスって名前だったので」
 ラッセルはおやという顔になる。どことなく楽しげだ。
「…それは失敬。……まあ、でもいい名だ。類稀なる英明王と同じく兄の『エドワード』を殺したくなったらいつでも相談しろ。この件に関して俺は全面的にお前の味方だ」
(冗談だよね?)
 それにしては握られた手にはガッシリ、力が篭もっているが。……うん、冗談だ。冗談に違いない…冗談だといいなあ。そう心配してしまうくらいはドキドキする。
(なにをしたの兄さん)
 バサッ!
「ひとの暗殺計画はせめて本人の耳のないところでやるぐらいの慎みを持ちやがれ」
 全部聞こえていたエドは湯上りの頬を微妙に歪め、ラッセルにタオルを投げつけた。ラッセルはそれを空中でキャッチして、酔っ払いのようにくだを巻く。
「五月蝿い、俺の心臓を止める気か。まったくお前は何でいつもそうなんだ」
(なんだ)
 愚痴を零しつつも救急箱を持ち出して傷の手当てをするあたり、結局仲はいいらしい。
 湯で傷口を洗われて新しく滲んだ血を綿花でふき取り、薬液を塗りこめる作業は手馴れている。
「だってラッセル神経太いし、一番わかりやすい説明だったろ? オレだってトリンガム教授みたいに繊細なひと相手なら考えるさ」
 悪びれないエドに、ラッセルは目の色を変えた。
「……父さんは駄目だぞ。やっと最近、落ち着いてきたんだ。あまり刺激したくない」
「だからそんなに鬼じゃないって。アルの診断書ならロックベル先生に頼むさ」
「幼馴染みの父親を巻き込むヤツのどこが鬼じゃないんだ」
「あー? だからだよ。あのひといつもニコニコ穏やかそうにしてるけど、ウィンリイの親父さんでピナコばっちゃんの息子だせ?」
「…………」
「肝の据わりは只者じゃねえよ。…って言うわけで、アル」
 話の見えないアルは大人しく拝聴していた。とりあえず人の名前だけは重要だと覚えておく。
「なあに?」
「何人かはお前のこと話したいと思う。嫌な思いさせちまうかもしれないけど」
 兄さんはボクに気を使いすぎだ。
 くすぐったくて悪くないけど、申し訳なくもなってしまう。
「ボクは大丈夫だよ。作られた身に不満があるわけじゃないんだ。ボクが人間だった頃の記憶は殆どないけど、きちんと納得してこの姿になったはずだって、その確信もある。別にばれても困らないし、気にしないで」
「いや、気にするだろ普通」
「そうだあまり無理を言うな。真剣な話、アルの存在が世に知れたらすごく危険だ。今の科学では魂の存在はまだ確認できていないんだぞ」
「ラッセル!」
「言っておいたほうがいい。何が危険かわからない状態のほうが危険だ」
 エドはちっと低く舌打ちをしたが否定はしなかった。

「兄さん、ボクは聞いておきたい」
 エドは困った顔をした。珍しいものを見たとラッセルは内心思う。この小さい年上の悪友は、傲岸不遜を地で行くヤツなのだが。
「目が覚めたばっかりで殺伐した話ばかりっていうのも……仕方ないか。でもその前に現代の基礎知識を蓄えたほうがいい。ある程度把握したほうが分かりやすいと思う。…ラッセル」
「ああ。しばらくの間、付きっ切りで家庭教師すればいいんだろ? 大学院には休学届けの延長を申し出ておく」
「悪いな」
「半年が一年になってもたいした違いはないさ」
「あのご迷惑なんじゃ」
 アルは控えめに口を挟んだが。
「迷惑ならエドにはいつも掛けられている。いつものことだ」
 やけに爽やかに微笑まれ、返って恐縮する。

「ところでエド。あと3分で食事して5分で身支度しないと遅刻だぞ? 今日の予定はプリンスホテル10時からじゃなかったのか?」
「!」
 現在9時7分ジャスト。
 時計を見たエドは愕然とした。ホテルまで車を飛ばして約25分。…遅刻は拙い!
「株主総会がっ!」
「まあ、メシは食っとけ。その間に髪はやってやるから」
 クローゼットに駆け寄るエドの襟首を捕らえてラッセルは、テーブルに無理やり座らせた。ドライヤーで生乾きの髪を丹念に梳かしつけていく。

(世の中、変わったなあ)
 昨日からカルチャーショックの連続だ。
 貴人の身支度をする者がひとりだけというのもアルには異様に思える。しかもラッセルは間違っても従者に見えないし(エドのほうが態度は大きいが、それは性格の差だろう)、まるで年下の親友に対する口ぶりだ。
 それにアルの常識では髪結いだけでも、最低限3人がかりの仕事になるが。いい加減、その価値観は捨てたほうがよさそうだ。…まあ、エドが例外だという予感も、ひしひしとあったけど。
「間に合わないからいいって!」
 エドは喚いたがラッセルは構わずテーブルの上に料理を並べていく。勢いに押されついアルも手伝った。
「間に合わせる。だから残すな。でないと泣くぞ?」
「お前が!?」
「コック長が」
「……ああ、もう!頂きます!」
 テーブルマナーもへったくれもない。
 冷めないように蓋をされていたスープを一気に飲み干し、オープンサンドに喰らい付く。彩り鮮やかなサラダをわしわしかき込んで「ごちそうさま!」まで早いこと。
 同時にラッセルは手の中の機械のスイッチを切る。髪留めのリボンはごくシンプルは茶褐色。
 エドはためらいなくその場で服を脱ぎ捨てシャツを羽織った。
「スーツはどれだ?」
「正式な場だから三つ揃い!」
「ならカフスはダークサファイアだな。靴は牛皮」
 エドは機械鎧を感じさせない滑らかな動きで踵の厚い靴を履く。
「ラッセル!後は頼んだ!」
「ああ。ボロがでないよう、お上品に振舞えよ」
 エドは不敵に肩をそびやかす。
「誰に物を言っている。…わたしになにか問題が?」
 先ほどまで腹を出して寝ていたひととは思えない。
 態度を改め、上等のスーツで身を固めたエドは、幼いながらもブルーブラッドの血を濃く受け継ぐ者の気品があった。
しかし、それは一瞬しか持たない。エドはチャッと片手を上げた。
「じゃあ、アル行ってきます!…メシはラッセルと食って、遅くなったら先休んでいてくれ!話は明日しよう、スケジュール空けてくるから!」
『行ってらっしゃい』と口を挟む暇もない。
 なんて忙しないことだろうか。
 慌てて駆けていく背中をアルは呆然と見送ってしまった。バタン!と勢いよく扉の開け閉めされる音が立つ、その間に昨日紹介されたマリアさんの悲鳴が聞こえた。
「ボク、ご飯は食べられないんだけど…」
 オマケに睡眠も必要ないんですが。
「今の斎宮って、ああも身軽に動き回るものなんですか?」
 現在の『常識』とやらに馴染むまでは大変そうだ。アルは遠い目をする。
「あいつは別だ。9つまでは城下で育った上、それまでは自分が王族であることも知らなかった」
 道理で弾けるような、軽快な口調が板に付いている。
「あと、エドを斎宮と呼ばないほうがいい。あいつは対外的にも斎宮『候補』として王宮に上がっているが。国王不在の今、12歳の斎宮が立てられるのは何かと問題があるらしい」
 ラッセルは冷笑的だった。その微笑が向かうのはエドやアルではないとわかる。
(誰が敵で、誰が味方か。見極めるのが当座の課題か。…慎重にいかないと)
 アルは肝に銘じた。
「了解です」

 ラッセルはふと目を眇めた。
「……不思議だな」
 ラッセルは今までエドからアルの話を聞いたことがない。実の弟宮でない以上、隠す理由もない。だから2人は出会ったばかりの筈だ。
 それにしてはエドは随分アルに気を許しているし、アルもエドに協力的だ。
 アルはまだよく知らないが、エドのことは知っている。あれは信頼できない者と同じ部屋にいて熟睡するほど、ぬるい生き方をしていない。
 ラッセルともある程度信頼関係を築くまで、常にギスギスしていたエドにしては考えられない受け入れようだ。
「? 何がですか」
 ラッセルは首を振る。エドが信用するものが増えるのはいいことだ。
「なんでもない。まず何からしようかと考えていた」
 アルは鎧姿だというのに表情が豊かだ。全身で期待を表した。
「じゃあ、その機械どういう仕組みなのか知りたいので解体してみてもいいですか?」
「ドライヤー…を?」
 いぶかしむラッセルにアルは端的に説明した。
「兄さんが起きる前にベッドサイドのラックに置いてある新聞を読ませてもらいました。言葉の綴りとかだいぶ変わってましたけど歴号はそのままですよね? ボクの持っている知識って200年ほど前のものなんです。だから見たことないものばかりで」
「にひゃ…それは」
 確かに今の錬金術師の技量では『アルフォンス』を作ることなんて夢のまた夢だ。
「君はロスト・テクノロジーの塊だったな、うっかりしていた」
 それでは世の中、珍しいものばかりだろう。
「駄目ですか?」
「俺は、機械工学は専門外だ。解体しても説明が出来ないから、エドが居るときにしてくれ。あいつの得意分野だから」
「そうですか…残念です」
 肩を落としたアルは、穏やかな気性ながらも好奇心は旺盛らしい。
「200年前というと写真…はあったか?」
 ラッセルは首を捻った。近代史はいまいち弱い。後で補強しておこうと肝に銘じる。
「知らないです」
「じゃあ、楽しみにしてくれ。エドの本棚から図鑑を引っ張りだしてくる。あいつの蔵書はちょっと凄いぞ」


 エドが帰ってきたのは10時を回ってからだった。
「お帰りなさい」
 エドは目を瞬かせた。
「ただいまー。…凄いな」
 居間は本で埋まっていた。軽く読める児童書(たぶんフレッチャーのだ)から古典の読解書に医学書、そしてテレビの番組表に動植物のカラー図鑑まで。どういう変遷で読み漁ったのか疑問がもたげる乱雑さだ。
「すまない、片付ける」
 ラッセルは広げていたノートと筆記用具を手早く纏める。
「いや、いいけど。こんな遅くまで平気なのか?」
「家には連絡した。けどもうタイムアウトだな、そろそろ帰らないと怒られる」
「怒られるじゃなくて心配されるだろ。って頼んだのはオレだけどさ。アル、ちょっとこいつ外まで送ってくる」
「うん。今日は有難うラッセル」
 すっかりアルは打ち解けたようで辞去の挨拶も名残惜しげだ。

 居間を出てSPを呼ぶまでのわずかな時間、ラッセルはエドに問い正した。
「……エド。アルはいったい何者だ?」
 ラッセルの態度は剣呑だ。
 深く探りを入れなくても分かってしまった。知識も技量も現在の錬金術師はアルの足元に及ばない。『知らない物』についても酷く敏感で、貪欲に知識を呑み込もうとする姿勢には、背筋が寒くさえなった。
 ラッセルはアルによく似た人間をひとりばかり知っている。

 エドは口元で笑った。
 多少不機嫌なぐらいがラッセルの馬力が掛かっている時だ。
「お前が見た通りさ。それ以上でもそれ以下でもない」
「…わかった、お前の弟だな。似たもの兄弟め」
 吐き捨てたのを最後にインカムから雑音が鳴ったので口を噤む。
『お呼びですか、殿下』
 この声はブロッシュだ。エドは内側からドアを開ける。
「うん、帰ってきたばかりで悪いけど。夜遅いから誰かラッセル送っていってくれないか?」
「自転車だから、構わないのに」
「ラッセル君、チャリはトランクに積めるから平気だって!夜道は危険だよー」
 大人びているラッセルもブロッシュには子供扱いだ。押される肩は小さくさえ見える。
「…でも」
「あ、殿下はここまでで。ちゃんと休んでくださいね!ラッセル君は責任もって送りますから」
(仕方ないか)
 付いていこうとしたのを通せんぼされ、お互いブロッシュの肩越しに目が合って苦笑した。

『また明日』と言い合って、扉を閉めると急に静かになった。
(何者…か)
 ラッセルの質問はエドの痛いところを付いた。
 自分が何者かも分からないのに、ひとのことまで詮索する余裕なんてない。
 それなのについ考えてしまう自分は愚かだ。


「兄さん、お疲れ。珈琲でも淹れようか」
「え、マジ? コーヒーメーカーの使い方わかるの?」
 驚いたエドにアルは自慢げに胸を張る。
「家電の使い方は一通り覚えたよ。原理はどうなってるのかわからないけど」
 語尾のほうが不満そうでおかしい。現代人の何パーセントが自分の使う機械の仕組みを知りたいと思うのだろうか。
「知らなくても使えれば充分だ。けど、知りたかったら解説するぜ。でもその前にコーヒー欲しい、ノド乾いた」
「はあい」
 エドにとっては生活の一部のその機械も、アルには面白いカラクリだ。コーヒーメーカーをセットする動作は、遊ぶ子供のよう楽しげだった。
「あれ、お前の分は?」
 アルが用意したカップはひとつだけ。
「飲んだら始末が大変だよ。ボク、空っぽだもの」
 言われて初めて気が付いた。
(いまいち無神経だな、オレ)
 脳の中で幼馴染みに『アンタの気遣いはズレているのよ!』と叱られる。幻聴なのに耳が痛い。
「そっか、飲む振りの癖を付けないと困るものね。今度から、形だけでよかったら付き合うよ。…はい、どうぞ」
 アルは言葉に詰まったエドの態度を深読みしてうんうんと頷く。…まあ、そういうことにしておこう。
「さんきゅ」
 差し出されたコーヒーはいつもより苦かったが飲めないほどじゃない。
 エドはこっそり砂糖を足す。

「兄さんの本棚、錬金術書、あまり置いてないんだね」
 エドがコーヒーを飲んでいる間にも本を捲っていたアルは、ふと思いついたように尋ねる。
「書庫に開かずのドアがあったろ? 弄られて困るのは奥に置いてある。…見るか?」
「うん!」
 アルの返事は迷いがない。
 エドは空のカップを流しに置いて、書庫にアルを手招いた。
 部屋の奥のドアの前で両手を合わせ、開かずのドアの『右隣の壁』に手を当てる。すると錬成光と共に、ただの壁にドアが作られた。
(キレイな錬成)
 無駄がなく力強い。重箱の隅を突付いていいのなら、デザインがイマイチなことぐらい。
「えーと。隠し扉っていうほどじゃないけど、詐欺だよね」
「カギ付きのドアがあれば、普通はそっちに目が行くからなー」
 エドは錬成で作った扉を開く。
 窓がない部屋はエドの作業室だ。パソコンが3台と本しか置いていないそっけもないものだが、アルは興味深そうに本棚の背表紙を眺めている。
「錬金術書は古くて管理が大変だから、パソコンにデータベースを作ってある。だから意外と少ないだろ?」
 アルは手前にあった本を一冊引き抜いた。
「うん…。ここら辺は船の図面? ずいぶん変わってる」
「それは潜水艦だ。計算上、深度2千まで潜れるタイプ。深海探査用だ」
「2千!水圧とかどうなってるの!?」
「船体が丸い形をしているだろ? 円は圧力に強い形だ。材質も均質で粘り強いものを使っているし、板の厚みも他の船とは違う。…まあ、大体それで水圧には耐えられる」
「じゃあ、こっちは?」
「飛行機。空飛ぶ機械」
「嘘!だって大きいよ!?全長73,86メートルって何!」
「重さは推力と浮力で何とかなる。飛ぶように作れば飛ぶもんだ」
 他にも壁一面ずらりと図面が並ぶ。本棚はひとを映す鏡だ。アルはあっけに取られる。…これは、凄い。
「兄さん、乗り物好きなんだ」
 中にはメモの走り書きのような手書きのものもあった。署名はないがエドの手によるものだと想像は難くない。
「ああ。昔の夢は自分で作った乗り物を自分で操縦することだった。…ナイショだけどな」
 物理はロマンで、数学は面白い頭のパズル。だからリゼンブール生まれの子供として、当然のよう機械工学に傾倒した。
 なりたかったのはエンジニアとパイロット。
 天才と呼ばれたこともある。それなりに研鑽も積んだつもりだ。
 だから両方は難しくてもどちらかなら、なれるものだと、努力は必ず報われると信じていた。…………今では両方難しいが。
(甘かったな。そして未練がましい)
 この本棚はエドの夢の名残だ。

「アルが必要なのは、近代史の歴史書だろ。ここら辺に置いてある物で、大きな事件性のあるものは粗方揃っていると思う」
 気分を変えてエドはアルの手を引いた。本棚の一角に連れて行く。
「随分、古いのもおいてあるんだね」
「史書は真理の生体を知るのに、やっつけ仕事で調べたから」
「…生体って。仮にも御祭神だよ。一般の史書に書かれるような、不遜を許されるものじゃないよ?」
 アルは慄く。いと貴き斎宮の口から漏れる言葉ではない。もうそろそろ『聞き間違い』で処分できる範囲を超える。
「気を悪くしたら悪い。でも真理に関する記録って殆ど残ってないんだ。お前が口にする『斎宮』の役職も形骸化して久しいし。とりあえず真理がオレに憑いてるってわかってはいるが、何のため取り憑いているのか誰も知らない」
「はあ!?…だって、契約しなかったの!?」
「してない。なんかそういうのがあるとだけは記録があったが、どういうものかも全く掴めなかった。先王が死んだ時、いきなり足を喰われて取り憑かれたそれっきりだ。ああ、そうそう…普通だったら前宿主の死後、あいつ2・3年は主を決めないでふらふらするって昔の斎宮の日記に書いてあったけど本当か?」
 聞き返されてアルは愕然とした。
「真理が誰に憑こうか迷う時はそういうこともあるって聞いていたけど…信じられない。契約もなしに身喰いされるなんて…。そもそも真理が宿主の身体に手を付けるのは、死後だと決まっているのに」
「そうなのか? 先王は生きながら四肢と内臓を喰われていた。その前の王もだ。国王が代々手足がないから、機械鎧の発展に繋がったみたいなものだ。皮肉だな」
「なんで!?」
 声が裏返って悲鳴になる。
(眠っているあいだに何があった? なんでそんな酷いことに!)
 未熟な錬金術師は往々にして自分の力量を見誤る。
 今までエドの足が失われたのは、錬成の代価に真理へ払ったものだと思っていた。
 アルにはいくら飢えて正気を失っていたとはいえ、真理がそんな真似をするなんて想像が出来ない。しかしよくよく考えれば真理を宿しているとはいえ、自らの身体を構築式とする力量のある錬金術師が、身喰いの対象になること自体おかしい。
「先王は錬金術師じゃなかったの?」
 一生懸命考えるが、理由はそれしか思いつかない。
「必須科目として習ったはずだが、使えたという話は聞かないな」
(…なんてこと)
 只人が真理を身に宿すなど、薄いガラスの器に溶岩を注ぐようなものだ。
 ガラスは割れ砕け、溶岩は外に零れ落ちる。両者にとって身の破滅だ。考えるだけで恐ろしい。
「錬金術師以外にに真理が憑くなんて…他に王族は居なかったの?」
「時代が違う。錬金術師はもう、とても数が少ない。王族と呼べるものは更に少ない。オレも王宮に上がる9つまで錬金術に触れたことはなかった」
 アルが生身だったら眩暈や動悸で大変だっただろう。丈夫な身体に感謝をする。

「……オレからもひとつ聞いていいか?」
 エドは躊躇いがちに切り出した。
「あ、うん。なあに?」
(いけない、しっかりしなくちゃ)
 エドの迷う視線はそれでもアルを貫いた。

「なにゆえに」
 畏まった言葉遣いに心が凍る。

「自らの魂の定着を試みたのですか……アルフォンス王」




                                 To be continued


2004,10,19up




 パラレル