機械の国の王子さま 16





楽園の蛇は唄う





 暗がりには段差が沈んでいた。
「っ!」
 ずるりと滑る感覚に、喉奥で悲鳴が絡む。
 室内に引き篭もる仕事に慣れた足腰は、咄嗟の出来事に踏み止まれない。
 ガッ!
 電流のような衝撃が、膝と右足の小指に走る。
「く、くそ…」
 なんて無様な。
 しばらく足を抱えて、痛みを堪えた。
 ここまで来て、気が弛んだか。
 忌々しい。
 男はすっぽ抜けて地面に転がったリュックを拾い、乱雑に背負い直す。
 歩くたびに硬い岩肌にぶつけたところが、割れるように痛んだ。

『あなた…もう、やめましょう』
 ぞくり。
 ふと訪れるのは天啓にも似た悪寒。
 禁忌を侵せば天罰を喰らう。
『お願い。思い留まって』と、細い指に袖を引かれる幻覚は、己の弱さの他ならない。男はこみ上げてくる苛立たしさに舌打ちした。
(なにを躊躇うことがある)
 常識など、とっくに捨てた。物事を成し遂げようとすれば、代償は不可欠だ。
 魂に狂気と信念を宿さぬ錬金術師など、ただの大道芸人と違いはない。
「なにが禁忌だ…」
 喘鳴のよう呟く。
 長年欲し続けたもの。その答えがあるかもしれないとわかって、手を伸ばさずにいられるものか。
 男はペンライトの明かりを頼りに、壁に縋って這い進んだ。
 運動不足が祟っている。痛めた膝がガクガク震えた。少しの距離が、歯噛みするほどに遠く思える。
 壁と抱き合うほど密着していた男は、その指先に触れた岩肌の質感が変わったことに気付いた。
 慌ててペンライトの光を左右に動かす。

 洞窟のなかの奇景。
 それは小さな明かりを反射して、金色に渦を巻くのは琥珀の壁だ。
 収束するような狭い視界は、幼い頃の夢のような幻想的な輝きを見せる。
 琥珀に包まれ浮かんでいるのは、透明な卵。その中に金色の獣が眠っている。

(見つけた!)
 胸を破る勢いで奔流を起こす感情は、歓喜。
 渇いて粘ついた喉に、唾を飲み下そうとする感覚だけがリアルだ。
 氷壁に閉じ込められたミイラなどとは比べ物にならない。
 完璧な保存状態だ。
 まるで生きているようではないか!
 男はこみ上げてくる欲望の衝動に身体の痛みを忘れて駆け寄った。
 資料の作成に長年愛用しているカメラは使い慣れ、馴染んでいるはずなのに、手が震えて機材をセットするのにも苦労した。
 フラッシュに浮かびあがるのは、それはどこかで聞いた御伽噺、あるいは神話に出てくるような生き物だ。

 人の顔に人の身体。
 掲げる宝冠は牛の角。耳飾りは魚の背びれ。
 具足に鱗を貼り付けて、靴の代わりは山羊の足。
 そして背を飾る、鳥の羽。
 陸海の生命から、綺羅に輝くものばかり選んで身に纏った、その美貌はまさしく異形だ。

「…これならば、見返してやることが出来る…!」
 ざまあみろ!
 爆発的な喜びの下地には、理解されず折られ続けたプライドがある。
 キメラの研究は、雌雄同体の完全な人間であるホムンクルス、塵芥を黄金に変える柔らかい石と並び、いにしえの錬金術師が心血を注いできた学問だ。その歴史はセントラルの誕生よりも遥かに古い。
 それだというのになげかわしいのは、昨今の風潮だ。
 自分を善だと信じる輩ほど、驕慢なものはない。
 生命の解析に携わる研究は一概に押し並べて『命を弄ぶ悪魔の諸病』と眉を顰める。

 自然の命だけが素晴らしいと、いったい誰が決めたのだろうか。
 例えば人が好んで森林浴に訪れる豊かな森は、管理された土地である。原生のままの森など、よほど危なく、汚らしいもの。毒虫やヒル、かぶれる植物たちの温床だ。素人が気楽に遊べる場所ではない。
 冒険家でもない限り現在に生きる人間は本当の自然など知らないのだ。
 それだというのに人はありのままの自然を賛美する。厄介な宗教に被れているよう盲目的に。
 入念に手を入れられ磨き上げられたジーン・ブランドの動植物より、自然発祥のオリジナルのほうが優れていると。
(…そんなわけが、あるはずもない)
 身体が大きすぎるコンドルは、もう飛べない。
 種族として滅びに瀕し、人工孵化して生き延びたコンドルは、もうコンドルという名の別種だ。
 王者の威厳に溢れるその姿は同じままでも、その翼は身体を支えられず、飛ぶこともままならないのだ。
 あの大きな翼が空を飛んでいくことは2度とない。
 それがオリジナルの、原種としての限界だ。
 この地上に人の手が触れぬ場所など、どこにもない。変化に適応できない種は、滅びる運命にある。
 人間だって同じだ。
 変化から取り残され、自然のままに頼り停滞すれば、コンドルと同じ道を辿らないと誰が言える?
 漫然と滅びるに任せたいという者は、それでもいい。
(ただし、自分の邪魔をするな)
 そこに無限の扉があるのに、何故、命ばかりが科学のタブーに触れるというのか。
 より狡猾で強く逞しいものだけが世代を重ね生き残る。それが自然淘汰だとしたら、人の技で生み出した生命もそれと同じ枠組みだろう?

「素晴らしい」
 このキメラは男の理想の雛形だ。
 どんな人間がコレを観ても、厭わしい、気味が悪いと思わないだろう。
 合成物であるキメラは自然発祥の生き物に比べて、醜悪に傾きやすい。生物の機能を優先させると、どうしてもバランスが悪くなってしまう。
 それは広くスポンサーを募るときに致命的だった。
 誰だって醜いものより、うつくしいもののほうが好きだ。
 研究するための金銭は、天から降ってきはない。人の関心を集めるには、より洗練された、愛されるデザインを創造する必然がある。

 しかしこれは、どうだ。
 どれほど優れた美術品でさえ、これの前には色褪せる。
 天使。
 古来より多くの宗教で描かれたのは、翼を背に広げた超越者だ。
 地べたを這いずりまわる人間に、憧れを抱かせるのはその姿。
 多数構造の奔放に広がったままの翼は、飾り物で飛行能力はないのだろう。それだけが惜しかった。


 用心のためフィルムを3本使い切る。
 不法に侵入した手前、夜明け前に作業を済ませなければ逃げるのも難しくなる。ぐずぐずしている暇はなかった。
 男は汗を掻いた手のひらをズボンで拭き、用意してきた採取道具を取り出した。
 カン!
 ノミをあて、金槌を振り下ろす。
 しかし力を込めて数度打ち付けてみるものの、透明な壁には猫の爪とぎ跡ほどの傷すらつかない。
 入念に指先で打ちつけた場所を探るが、つるりと滑らかな表面のままだ。
(これは人力では無理だな)
 ずいぶん古いものだというのに、死骸の保存状態が良いはずだ。
 魔法大国と呼ばれたリゼンブールの実力を見せ付けられる。これほど完成度の高い作品なら、サンプルの保護にもよほど熱心だったのだろうが。
(これは、日を改めて。小型のドリルを持ち込むしかないか?)
「いや、駄目だ。標本を崩すわけにはいかない…」
 どんな用法で保存されているのか謎が残るうちは、乱暴な真似はしてはいけない。金槌とノミによる採取でさえ、苦渋の決断だったのだ。
 錬金術での解体など、もっての外。
 これは、たったひとつしかない貴重なサンプルだ。
(慎重にいかなければ)
 ああ、どうやって運び出そうか。壁からはがすことに成功しても、独りで動かすには少し大きい。
 男は想像を巡らせた。
「いや、移動は学生を使えばどうとでもなる。しかし…」
 研究所には隠しておくスペースがない。家に持ち込むしかないだろう。
 いっそ、リゼンブールでマンションでも借りるとするか。…いや。
「地元の…警察に踏み込まれたら困る」
 なにせモノは国宝だ。

「それがわかってるなら、泥棒なんてやめとけよ」

 背後から掛けられたのは、まだ若い声だった。
「なっ!」
 振り向くと、強烈な光が浴びせられる。
 目が眩んだあっという間に、掴まれた腕は後ろに固定され、ガチャン!と手錠を嵌められた。
「ニイサンヨンゼロ。現行犯で、窃盗犯確保」

 ハボックは事務的に腕時計を確認した。
「なんだ。なにが…」
 鮮やかな手並みで男を取り押さえた青年は、狼狽しきっている男を一瞥した。
(抵抗する素振りはなし…っと)
 ハボックはヘッドタイプのインカムのスイッチを入れる。
 ザザッ…。途端に耳を襲うのは、砂嵐のようなノイズ音だ。
 リゼンブール地下は磁場の関係で、トランシーバーの音声は乱れがちだ。設備が整っている施設以外、携帯使用者にもやさしくない。しかしただ連絡を取るには充分だ。
「…あー。こちらハボック。色つきネズミを一匹捕まえました。どうぞ」
『ご苦労さまです。交代の人員が到着しだい、犯人の護送をお願いします』
 警官の行動は2人1組のバディシステムが基本だ。
 ハボックは奥に隠れていたブレダに、『ようやく休みだ』と合図を送れば、相棒は自分の耳を指差して、連絡が届いているジェスチャーをした。
「ラシャー」
「き、君は誰だ」
 ハボックは肩を竦めた。
 今日のお客さんは、いかにも暴力とは縁の薄いインテリメガネだ。ハボックの手荒い扱いに怯えている。
(なんだかなあ)
 釈然としない。正義と法を守る立場にあるというのに、まるでこちらが悪人だ。
「安心してください。善良な警察ですよ。…懇意になさっている弁護士さんをお呼びしますか?」
 ハボックは尻餅をついた男を立てないのを見取って、面倒くさそうに後ろ頭を掻いた。


 ショウ・タッカー。
 キメラの権威で、アメストリスでは第一人者。
 別名『綴命の錬金術師』。

 洗い出てきたプロフィールにロイ・マスタングはなるほどと頷いた。
 リゼンブールの地下洞窟に眠る黄金の獣は、人を惑わせるだけの魔力があった。
(その道の研究者ならたまらんだろうな)
 俯いたまま黙秘を貫く男に、マスタングは微量の哀れみを抱く。
 知らなければいい幸せも世の中には多く存在した。
 まこと罪深いのは楽園の蛇だ。
(さて)
 とん。と、指先でテーブルを叩く。
「窃盗は立派な犯罪ですよ」
 軽犯罪で済ませてしまうには性質が悪い。
 対象となった品物は国が管理する、第一級の宗教遺物だ。
 マスタングはその道のことに通じているアルフォンスからレクチャーを受けたのだが、元々、公爵家はあの黄金の獣の遺骸を保護するために王家から分離した家柄だとか。
 国宝というより神宝。
 外国人にとってはただの歴史的お宝であっても、同国の者にとっては民族の根源に関わってくる代物だ。
 これで被害者が何かと過激なアエルゴや、自尊心の強いドラクマなら一瞬即発で戦争もありえる。
(頭が痛い)
 報道は規制されているが、件のキメラの窃盗未遂事件は既に数件発生していた。
 それもこれもキング・ブラッドレイが公爵の身分を捨てる置き土産に、キメラの噂をバラまいてくれたおかげだ。
 マスタング・チームは捜査の一環で公爵家地下も手入れをしたが、黄金の獣のことは王室の意向を受けて一切を伏せた。それだというのに、その頃セントラルの社交界は既に黄金の獣の噂で持ちきりだったというのだから泣けてくる。
 おかげで捉まえる窃盗未遂の犯罪者の悉くは、その主犯格はセントラルの名士ばかりだった。
 金と暇を持て余した趣味人を名乗る酔狂は、世の中に腐るほど存在する。
 割を食ったのは、それほど気楽になりえない真っ当な外交センスを持つセントラルの頭脳部だ。
 彼らは国際問題が起きる前にと、慌てふためき事態の収拾を図った。
 セントラルにも外聞がある。『私たちは同胞が迷惑を掛けたことを大変遺憾に思っています。解決には協力を惜しみません!』とリゼンブールに強くアピールをしなくてはならない。
 ここで当然のようにお鉢が回ってきたのは、諸悪の根源・ブラッドレイを捉えるためにリゼンブール入りをしていたICPO・マスタング・チームだ。
 死体の警護など国際警察の仕事じゃないが、スポンサーである国家から正式な依頼を受ければ『面倒くさいから、いやです』と言えないのが大人の社会だ。
 おかげで大掛かりな窃盗グループの摘発からタッカーのような個人的な犯行まで、大車輪で対策に当たる羽目に陥ったが、罠を張ったマスタングにしてみてもこれほど頻繁にネズミ捕りに獲物が引っ掛かってくるとは意外だった。その現状を考えると、早々にICPOに要請をしたセントラル情報部はソツがなくて優秀だ。
『ブラッドレイ!これは私に対する嫌がらせだな!』
 気炎を上げれば『気に入られてますね』と、部下たちは口笛交じりにからかってくる。
 たぶんその冗談は正解を射抜いている。
 あの男、ブラッドレイにとってこれは、ささやかな茶目っ気でしかないのだろう。

「ミスター・タッカー。沈黙は不利になりますよ」
 弁護士の気遣わしげな忠告も、果たしてタッカーの耳に果たして届いているものか。
 レコーダーが回る音だけが空調の利いた取調室を満たしている。
(やれやれ、もう少し休憩できそうか)
 マスタングは椅子に深く腰掛け直した。
 それでなくても上役というのは忙しい。
 タッカーのだんまりをいいことに、事情聴取とは名ばかり。マスタングはようよう心の休憩を入れていた。
 目を開けたまま寝るといった素晴らしい特技こそないが、気を抜いてボーっとしているだけでも疲れの取れようは違うものだ。
 忙しく働いている部下たちの手前、上がサボるのは士気が下がっていただけない。良い上司は休みを入れるにも気を使うものだ。しかし延々と続く書類地獄には、いい加減手が悲鳴をあげていたので。
(タッカーはいいときに掴まってくれた)
 本音を言えば有り難い。
 マスタングがわざわざ取り調べに出張る理由は、『相手は同じ錬金術師だからね』。そして意味ありげに沈黙する。
 これだけで部下のフォローは完璧だ。
 錬金術師というと未だに神秘の探求者のイメージがあるせいか、皆なんとなく騙されてくれるのだ。
 マスタングは手下たちの、そんな純朴さを愛している。

「……」
 タッカーは口を開きかけ、また閉じるといった動作を繰り返している。
 眼鏡の下の表情もやつれが激しい。
(自分が罪を犯しても、責任を取る羽目に陥るとは、まさか思っていなかったというところか)
 これだから専門馬鹿は困るのだ。
 モノは宗教遺物だ。
 大事なものを他人に土足で踏みにじられれば憎悪を抱く。
 2世紀も前の傲慢な探検家よろしく、一介の科学者、それも外国人が好き勝手に弄り回して簡単に許される筈もない代物だってことは、今どきジュニアスクールの子供だって分かるだろうに。
 いつまでこのイタチごっこが続くものやら。

(相談してみるか)
 根源を経たない限り問題は発生し続ける。
 マスタングは金髪の少年と、その弟を思い浮かべた。
 いつまでもこの長閑な田舎にいられるというわけではない。

(リゼンブールはのんびりするにはいい土地だが、このままでは太りそうだ)
 周囲が山に囲まれているので水が甘くて、食べ物がとにかく旨いのだ。内陸なので海鮮には恵まれないが、川と山と平野の恵みがそれを補って余りある。
 とくにマスタング的に衝撃だったのは羊肉だ。ラムは臭いというイメージがあったが、見事に記憶を塗り替えられた。
 柔らかく煮込まれた羊肉は口の中でホロリと崩れる。続けて食べても飽きない味わいだが、肉類の摂取過多はよろしくない。
 今夜は野菜を食べておくか。
 お国柄、ミルク味のシチューはどこの店も安くて外れがない。

 マスタングが真面目くさった顔の下で夕食のメニューに思いを巡らせているとは知らない錬金術師は、続く沈黙のプレッシャーに追い詰められていた。
 タッカーは今まで警察の世話になったことなど、車の免許の更新ぐらいしかない。
 それが、いかにも有能然とした怜悧な若いエリートの前に連れてこられ、特に詰問されることなく放置されているのだ。
 裏に何かあると考えるほうが正常だ。
「…どうして、何も聞かないのですか?」
「ああ、仰りたいことがあるのでしたらどうぞ」
 セントラルが用意した国選弁護士もすっかり飲まれた様相で、マスタングの動向を伺っている。
 また、しばらく迷ったタッカーだが、少しして、誰にも告げたことのない呪いの言葉を吐き出した。

「…あなたも錬金術師というならわかるでしょう?」




「とりあえずショウ・タッカー氏は国外退去だって」
 しばらく入管も規制されるだろうし、ラッキー。
 ラッセルの父親からタッカーの話を聞いていたエドにとってはいいニュースだ。
 王族は究極の人気商売だ。
 正式な手続きを経て正面から来れば、嫌だなって思っていても用事ぐらいは聞かなくちゃいけないが、キメラの権威なんてエドにとっては避けて通りたい大鬼門だ。
 犯罪を起こしてくれて万々歳。これでわずらわしいことがひとつ減った。
 聖人君子ではないエドは諸手を挙げて喜ぶ。
「とりあえずって?」
 アルはエドの前置きに引っ掛かる。
「あの男が言うには、叩けばタッカー氏は余罪が出そうだとよ。…特になにをするわけでもないのに、そういうの引っ掛けるの巧いんだよあいつ」
 兄の言葉を受け取った弟は、素直に疑惑を抱いた。
「ふーん、兄さんも引っ掛けられたんだ。……なに、そんな悪いことしたの?」
「…してねえよ!」
 弟は即座に飛んできた蹴りを捉え、ぺいっとひっくり返す。アルにとっては猫パンチほどのダメージにしかならないと知っての狼藉だった。
 遠慮がなくなったこの兄は中々どうして凶暴だ。
「やってないなら、なんでそんなに怒るのさ。いい加減、集中してよ」
「……っていってもなあ」
 エドはがりがり頭を掻いて、冷たい床に座りなおした。手で払わなくても、無意識に羽根は動くようになり、尻の下に折り込まれる事故は減った。
「それだけ動くようになったんだから、出来るよ。大丈夫」
 太鼓判を押して、アルは最初からやり直す。
 イメージは大切だ。

「想像をしてみて」

 翼は空を飛ぶためにあるものだよね?
 だからどんなに小さな鳥でも自分の身幅より広い翼を持っているけど、止まり木に休む時は、端正に羽を折りたたむでしょう?

「それは元々ある機能だよ。水が上から下に流れるほど自然なことだ」
 宗教画の天使でもあるまいし、背に羽が広がったままでは日常生活の邪魔だ。
 羽が生えてから3日を過ぎたあたりから、エドは翼を折りたたむ訓練を始めた。
 生えた当初は自分の力ではピクリとも動かなかったが一週間が経ぎた今では、緩慢ながらも羽ばたきに似た動きをするようになってきた。
「あっ」
 エドは小さく声を漏らす。
 背に慣れない刺激が走り、羽が劇的な変化を見せる。
 翼は厚めの鱗のような形状に圧縮したかと思うと、背中のラインに張り付いた。
 今まで出来なかった2重飛びが、或る時ひょんに飛べるようになった。そんな一皮むけた感覚だった。
 慣れればもっと簡単に折りたたみ出来そうだ。

「おおっ、できた!?」
 腕をぐるぐる振り回したり、腰を大きく捻ってみても翼は広がらない。ただし、背中を探ると指先に硬い物が触れた。
 爪や歯よりもよほど硬く、まるで金属のようだ。これほどの厚みなら、服を着てしまえば分からない。
「…よかったっ。うつ伏せに寝るのすっげー辛かったんだよなあ!」
 アルは無邪気に喜んでいるエドの背中に手を当てて、ためすがえす観察する。
 自分で指導しておいてなんだが、少し意外だ。
「うーん。ここまでコンパクトに纏まるものなんだね」
 チューリップの花びらほどの大きさになった翼は、エドの肩甲骨に沿うように行儀よく2枚並んでいる。まるで虹色の鱗のようだ。
「展開すると大きく広がるのに、ここまで圧縮するなんて。凄いなあ」
 くしゅん。
 クシャミが出た。残暑が残る季節でも地下は肌寒い。
 冷えてきたエドは、脱いでいたシャツを着込む。
「そっか、やっぱりアルやアルのにーちゃんも目立たないようトランス・フォームできたんだよな?」
「変形ロボみたいに言わないでよ。できたけどさ。…いいなあ兄さんの収納形態、ボディアクセサリっぽくって」
「お前は?」
「…額に目があった兄上は収納すると天下御免の向かい傷っぽかったし……角があったボクはその部分だけ、まんま円形ハゲだったよ…」
 しかも4つも。
 屈辱の記憶だ。
 御印が出たときは十代前半で、お年頃真っ只中だったから。それなりに落ち込んだりもしたものだ。
 おかげでアルは御印をほとんど収納することがなかった。
「ハゲたのお前?」
 エドはきょとんと目を丸くする。生身のアルの印象が薄いエドには、具体的に想像するのが難しい。
 アルはエドのデリカシーのなさにプンスカ拳を腰に手を当てる。
「えーえー、ハゲましたともっ。どうせ蜻蛉玉の沢山ついた額飾りは生涯手放せなかったですよっ!」
「男だろ? ハゲくらい隠すなよ。堂々と出しとけ」
 やっと二次成長を迎えたばかりのエドは、ハゲたり髭が生えたりとそんな成人男子特有の現象に憧れているフシすらある。
 子供というのは残酷だ。男心をわかっちゃいない。
 アルは溜め息混じりに言い訳した。
「隠すっていうか。角は額飾りの装飾の一部だと旅先では思われたかったから、していたんだけど。ボクの場合、角は生やしたままのほうが楽だったんだよ。部位が頭部だったせいか収納すると偏頭痛が酷くてさ」
 エドは自分の背中が気になった。今のところ仕舞って痛みは感じないが、他人事じゃないのだ。経験者の言はしっかり聞いていたほうがいい。
「角生えてまーすって、身内外でバレるのはやっぱり良くなかった?」
「シンを放浪してたときは流石にね。うちのご先祖、シンの不老不死伝説のあおりを食らって一時期乱獲されたらしいし、用心するには越したことがないから」
 アルの返事はエドの意表を突いた。つい声に不信感が篭もる。
「不老不死伝説ぅ?」
 はあ? なに言ってんのお前?
 そう言いたげな兄の健全な精神が、アルはとても好ましい。しかし世の中には、そういう妖しげなものに相対すると目の色が変わる人種もいるのだ。
 過ぎ去りし過去。シンを旅している最中に角が生えているのが地元の権力者にバレたときなんて、アルは大規模な山狩りにあった。
 賢く優しく勇敢な、シンの娘さんたちに助けられなければ、異郷の地でアルは屍を晒していただろう。実を言えば、思い出すと今でも恐ろしい。あの時の経験は、アルのトラウマになっている。
「ほら、よくあるでしょ。人魚伝説とか、異能の姿の人間を喰らって、寿命が延びたり、神通力を得たりする種類の御伽噺。シンの昔の偉い人たち、そういうの大っ好きだったから。実際効果があるならまだしも、力いっぱい迷信だし、冗談じゃないよね」
「わー。猟奇ー!」
 エドは本当にあった恐い話に、陽のきらめく川辺の水底を覗き込む園児のような好奇心を見せる。
(まあ、いいけどね。兄さんが被害にあったわけじゃないんだし)
 アルだって恐い話は結構好きだ。バリー・ザ・チョッパーから吸血大公まで。幻想、現実問わず物語りとしてなら面白いと思う。だから非難はできはしない。
 ただ実体験で痛い目にあった類のものに対して、楽しめるほど壊れてはいないだけだ。


「お前たち、こんな場所でよく気持ち悪い話をして平気だなあ」
 殺したての死体の横でも安眠できるグリードは、そんな自分のことは棚に上げ、常識人ぶってみせた。

 時は真夜中。場所は公爵家地下の洞窟となれば、それこそ雰囲気満点だ。
 ライトによって陰影がついた岩肌は、人間の想像力を喚起させる。
「うちの手下が怯えたらどうしてくれるのよ? 会話をレコーダーに録音して、学会に提出するぞコラ」
 翼を広げた鷲のような大きな手が、エドとアルの頭を掴む。
 この兄弟はマスタング・チームと相談をして、キメラの移転作業をすることにしたらしい。それはいい。しかし荷運び要員として駆り出されたグリード一味が作業をしている傍で、なにやら気になる言動をしていれば、ちょっかいを出さずにいられるものか。
 エドはグリードに頭を捕まれたまま、平然としている。
「毛頭にもないこと言うんじゃねーよ」
 このお坊ちゃんは恐いものしらずだが、馬鹿ではない。
 確かに考古学の世界において裏づけのない事実なんて、益体のないホラ話扱いされて当然。グリードは自分の名声がとてもかわいい。そのことを承知している兄弟は、無邪気な顔をして悪辣だ。
「お前、本っ当にかわいいわ」
「あー!なんだよもうっ!」
 アルの視線を浴びて、グリードは本気で締める代わりに頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。この鎧を敵に回して楽しいことはひとつもない。
 代わりにみつ編みを引いて立ち上がらせる。
「お前らもキリキリ働け? 錬金術師の癖に。土木作業は得意だろうが」
「あ、えーっと。ぼく、どうせならグリードさんの特技がみたいなー」
 尻尾を捕まれたまま、エドはかわい子ぶって『ぼく』とのたまい、アルはハイと手を挙げ希望を述べた。
「ついでに全身変形して『イー!』とか叫んでくれませんか?」
「ご冗談」
 グリードは珍しく哀しい気分になった。
 偉大なる英雄王がテレビ番組に汚染されたと知るのは、研究者として忸怩がある。
「あれは不細工になるから嫌だ。…ちなみにその話はどこから出たんだ?」
 グリードは生来の特異体質だ。
 自分ほどではなくても部下に『変わり者』も多い。
 秘密とは秘してこそ価値があるのだ。生かすも殺すも自分しだいの身内の前以外で、隠し技など披露するものではなかった。
 エドはてらいもなく白状した。
「いや、あんたをちょっと褒めて持ち上げたら、やたら熱く語ってくれたぜ」
「グリードさん、部下に人気ありますね」
 気が抜けた。
「ああ、そっちか」
 つかず離れず領域を守るラストならまだしも、確信犯エンヴィーの行動だったら、そろそろ消しとこうと思ったが、あいつらなら、まあいい。
 現在グリードの手下は2名ほど、兄弟にとっ捕まって奉公中だ。
 蛇は用心深く聡明なので、情報漏洩は犬のほうだなと検討をつける。
 犬は馬鹿でも可愛いものだ。支配欲が満たされる。
 しかし帰ってきたら、念入りに躾してやろう。グリードは頭のメモに注意事項をしっかり書き込む。
「まあ、いいさ」

 陣なしで錬成できる、辣腕錬金術師が2人もいるのだ。移動・運搬にしてもそれだけでことがたりる。
 だとしたらグリードが呼ばれたのは、手の内を見せろということ他ならない。
「透明な金属部分は壊すなって言ったな」
 めきり。
 僅かな軋みを立てて、グリードの手の平が黒く染まる。
『最強の盾』その2つ名の基因。固い身体。
 物質の破壊は本職ではなくても、いくらだって応用が利く。
 知りたいというなら、見せてやろう。スポンサーに実力を披露しておくのも悪くない。
 グリードはいつだって強欲だ。後の見返りに期待出来れば、投資を惜む吝嗇でもない。
 硬化した右手に視線が絡む。
 グリードは自分が見世物にされる理由を薄々気付いていた。
 兄弟の兄のほうは、自分もそうであるくせに他の異端を知らない。
 異端がどのような生き物であるか見たいのだろう。
 グリードのような存在は、広い世界においても少数派だ。広義に括るならエドとグリードは同類といえる。
(しかし、この王子さまだ。自分に似たような生き物がいると、それだけで安心するような子供ではないだろうに)
 いぶかしんだが、エドの抱える闇を知らず、また興味もないグリードは抱いた疑問をすぐに忘れた。
 エドがグリードの好奇心をくすぐる存在になるには、どれだけ少なく見積もってもあと100年は時間が掛かる。

 男は無造作に腕を振るった。
 ゴッ!
 壁に黒い拳が埋まる。
 金剛石ほどに硬度を高めた己の腕は、琥珀の壁を容易く砕く。
 柔らかい泥をかき混ぜるように、グリードは壁を割り、透明なケースを取り出した。






2006,7,17

 それでなくても兄弟に飢えているのに(2006年7月現在)『機械の〜』16、この章は2人ともあまり出てこないので辛いです。
 おじさんや、青年ばかりでちょっとムサめ。
 だって、せっかくネタ振りをしたんですものキメラの権威タッカーさん。ここで出番を作っとかないと回収できない伏線がたくさん出てきちゃいますし。(既に回収不可能なネタもあります。トホリ)
 賢い凡人が道を踏み外したタッカーさんは自分勝手な言い訳っぷりが原作で輝いていたので、是非とも気持ち悪く書きたいと思ってました。が。……すいません、チキンなので逃げました。…これ以上踏み込むとまた、違った話になってしますし。
 うん、おワキは物語を立たせるために活躍するべきで、シテを食っちゃいけません。





 パラレル