機械の国の王子さま 14




ささやかな疑問






 動物が天災に敏感なように。
 悪いほうの虫の知らせは、4番バッター並みの打率だ。

(あれ…地震でも来るのか?)
 ふと足の裏に感じた違和感に、エドは塔の下に視線を投げた。
 すると壁にチョークを走らせている男の行動が目に入る。
 男は知った顔だった。
「……ーっ!」
 驚く息を飲みこんでエドは叫ぶ。
「アル!柱に捕まれ!」
「ええっ。な…」
 ドウっ!
 言い終わる間もなく石床がうねり、頭の上でリンゴンと、狂ったように鐘が鳴り響く。
「うわ、わ、わ!」
 揺れる、揺れる!
 緊急時の判断でアルはエドを腕の中に抱え込み、鐘楼の支柱に掴まった。
 胸の下で蛙が潰れたような音が漏れたが、この高さだ。
 間違って手摺りの外にでも落ちたら洒落にならない。
(錬成光!?)
 眩しく膨れる光の中で、高く聳える塔が崩落する。
 いったい誰が。こんな事を!
「無茶苦茶だ…」
 人が居る建物を造り替えるなんて。

 激しい縦揺れが収まると、遥か遠くにあった地面は身近なものになっていた。
 塔はすっかり造りかえられ、東屋のように変形している。



「まあ、こんなところでしょうか?」
「鮮やかですな。いや、お見事」
 兄弟が呆然としていると、艶やかなテノールと枯れて渋い低音の会話が鼓膜を揺らした。
 オペラもこなしそうな2重奏に、アルに押し潰されてキュウ…と伸びていたエドの意識が復活する。
「てめぇっ!なんつー乱暴な真似をするんだ!」
 アルも一緒にいたんだぞ!
 エドがそう鼻息荒く噛み付いたのは、黒い髪の青年だ。
 鎧はカシャリと首をかしげる。
 先ほどラッセルの作業部屋に居た顔だ。
(ご同輩だったのか)
 ピンと伸びたその背筋はいかにも見目良いもので。まるで正規の軍人のように訓練された立ち方をしている。
 ……錬金術師の生活が研究だけで成り立たないのは、今も昔も同じことらしい。
 アルが密かに推察した前で、黒髪氏は気障に前髪をかき上げる。
「2人して塔の天辺に立てこもるのが悪い。テロの目標とされている自覚があるなら、そんな危険な真似は出来ないはずだが。…いやはやこれは物の道理の分からぬ子供に言っても仕方ないかな」
 ワザと挑発しているとしか思えないその態度は、整いすぎない端正な容貌と相まって偽悪的な魅力があった。
 なのにエドはゲジゲジや百足を相手にするような顔をする。
「人のウチを勝手に造り替えて常識人のフリとはちっと図々しくないか?」
「仕方あるまい。君の3つ編みは塔から垂れさせるほど長くはなかろう? それに妙齢のご婦人が待っているならともかく、立て篭もりの豆王子が相手ではな。やる気も失せるというものだ」
「ま、豆ー!?」
「おっと失敬。つい正直な感想が」
 黒髪氏は口元を押さえる。
 爽やかな笑顔が意地悪だ。
(こんなに反応があれば、楽しいんだろうな)
 アルは大人気ない大人を見下ろした。
 気持ちは分かるが、迷惑だから止めて欲しい。

 まるで火の点いた導火線。
 一瞬即発の状況に、ぬっと割って入ったのは大きな手だった。
「まあ、落ち着くのだ。エドワード・エルリック」
「うわっ!」
 驚きの声と共に、危険なオーラが出ている小柄な身体が宙に浮く。
 背後から両脇に豪腕を差し込まれ、関節を押さえられてしまっては。さしものエドも抵抗できず、猫の子のようにぶら下がる羽目になってしまう。
 身長差とは悲しいものだ。
「おい。おっさん、放せって!」
「ほう、重くなったな」
 エドの目付きがじっとり湿る。
「……いったい、いつの時代と比べてだ?」
「…………あの頃はランドセルに背負われて…」
「誰が小学生から伸び悩んでいる蟻並みドチビかっ!」
 キー!
 怒り狂うエドをホールドしたまま一方的掛け合い漫才を始めたのは、アレックス・ルイ・アームストロング。
 並外れた背の高さとそれに見合った筋骨の逞しさが、上等な背広を優雅に着こなしているのだから迫力が違う。
 アームストロング。つまりは、強き腕の。『豪腕』のアレックス。
 ノーブルでもある氏族名から奉じられた、2つ名持ちの辣腕企業コンサルタントに相応しい風格だ。
 エドが会社を作った際の一番の立役者は、今は代表取締役という全面的なお守りを任されて多忙な日々を過ごしている。
(いくら気安い間柄だからって。このアレックスさんを、おっさん呼ばわりするのって兄さんだけなんだろうな。きっと)
 本人たちは気にしていないからいいのかもしれないけど、アルとしては申し訳なくなってしまう。
「オレは荷物じゃねえってば!」
「ふむ、どうしたものか」
 エドと長い付き合いのアームストロングは、猛獣を野に放すのは危険と見なした。腕を放す気配はない。
 それをいいことに黒髪の青年は茶々を入れる。
「荷物は荷物でも小荷物だな」
「くっ」
 遅まきながら自分の不利を悟ったエドは暴れるのを止めた。
「しっかし、お忙しい刑事さんがはるばるこんな田舎までいらっしゃるとは。今度はナニをやらかしたんですかねえ? 上役の奥さんと仲良くなりすぎたのがとうとう露見しちゃったとか」
 変わりにギスギスと減らず口を叩く。
「失敬な!」
 エドの雑言に童顔の眉間にシワが寄った。
「私はバレるようなヘマはしない!」
 ……。
 ある種、お約束の切り替えしだが。本気で言っているように見えるあたり天然か狡猾か、それとも両者か判断に迷う。
 アル好みに腕が良く、性格もいい錬金術師にお目にかかったことはないから多分後者だとは思ったうけど。
 ここでアルはアームストロングを見た。
(なんか、わかる気がするな)
「ずいぶん仲良しさん、なんですね?」
「仲良くねえ!」
 そう主張したいお年頃のエドはまともに紹介してくれそうにない。
「兄さんは黙ってて」
「おお。アルフォンス・エルリックは彼と初対面か。それは失敬」
 弟に邪険にされた兄が静かになったので。アームストロングはエドを押さえたまま半身を引き、アルに場所を譲った。
「彼はロイ・マスタング殿。焔の錬金術師だ」
 紹介され、ふっと表情を改めた青年は、優雅に踵を滑らせた。
「ICPOのロイ・マスタングです。お初にお目にかかります殿下」
 左肩に手を当てたリゼンブール式の略礼は、どうして堂に入っている。
 このご時世。慣れたものではないだろうに、顔がいいと人間得だ。
「アルフォンス・エルリックです、初めましてミスター。よろしければ、ただのアルとだけお呼びください。錬金術を親しくされる方に、お会いできて嬉しいです」
 アルは身体不良を理由に王族として擁立しておらず、殿下と呼ばれる立場ではない。それは誰でも知っていることだ。
 趣味の悪い大人が仕掛けた盤外戦を卑下することなくおっとり受け流すと、黒い瞳が面白そうな色を浮かべた。
「鋼の。彼は本当に君の弟かね。いや、全然似てないじゃないか」
「アル!あんまりこいつに近寄るな!ロイ・マスタングが移る!」
 エドは全身の毛を逆立てての威嚇の態勢に入っている。そろそろ膨れた尻尾の幻覚が見えそうだ。
「ほほう。私が移ったら最高じゃないか。どれ抱きしめてやろう」
「ぎゃー!やーめーろー!」
 がばっと広げられた両腕に、エドは鋼のほうの左足を振りかざし『近寄るな!』と牽制する。
(兄さんってば、遊ばれちゃって…)
 ヘンなところで素直なんだから。
「仕方ない。ではアルフォンスくんで」
 微笑ましいなと放置していたら、お鉢が回ってきた。
「刑事さん!ボクも抱っこは遠慮します!」
 ガッシリ拘束されていて逃げ場のなかったエドとは違い、アルは余裕を持ってさっと避けた。
「アルの裏切り者…」
 なにやら聞こえたが、腕利き錬金術師に触られるのは真剣に困る。
 錬金術の原則は『理解』『分解』『再構築』だ。
 まだどんな人かも分からないのに、アルの鎧の事情を『理解』されてはたまらない。いくらブーブー言われても、それは当然の用心だ。

「ところでアレックスさんが王宮まで来るのって珍しいですよね。今日はお休みなんですか?」
 大企業の代表取締役は、エドと比べても忙しい仕事だ。
 丸々一日の休みなどそうは取れるものではなく、彼に会うときは城下のオフィスが常だった。
「そうだ、火吹きトカゲに構っている場合じゃなかった!」
 拘束されたままのエドは背を逸らすような姿勢でアームストロングを見上げる。
「なあ、おっさん。なにか問題でもあったのか? オレになにか出来ること?」
 今は研究開発の他は身を引いて運営方針をひっくるめアームストロングに丸投げしてるが、律儀な紳士は重要と判断したケースはエドに確認を取ってくる。
(そうゆうのは、おっさんのほうが得意なのにな)
 相談しなくてもいいのに、と甘える心があるだけに、その点のアームストロングは厳しい教師だ。
「うむっ。我輩の目的はただひとつ!」
(あ、ヤバっ!)
 脇の下に感じる筋肉の盛り上がりが、今年最大のビックウエーブの予感。
 馴染みの気配に、エドは顔を引き攣らせる。
「エドワード・エルリック!おぬし園丁のみなさまが丹精こめた庭園を破壊尽くしたそうではないか!おお、植物にも命はあるものを!我輩はおぬしをそういう子に育てた覚えはないぞっ!」
 ぶわっ!
「ギャー!」
 そりゃエドだって、育てられた覚えはない。
 ……でも、面倒をかけている自覚はある。

 脱がれなかっただけまだマシか。
 ぎゅうぎゅうと筋肉の浮く豪腕に抱き締められ、エドは魂切れる悲鳴を上げた。
 アルも恐怖に引き攣り、半歩跳びすさる。
「ご、ごめんなさい!反省してます!…しました!」
 師父というには気安いが、大恩のある相手。そうじゃなくてもスモッグを着てお遊戯をしていた頃からの付き合いだ。アームストロングにはエドも逆らえなかった。



『壊して造る。それが錬金術の法則なれど、花は散る。草は枯れる。石ですら悠久の時には侵食される。永遠に同じものなどこの世にはない。だからこそうつくしい一瞬を、愛おしみ大切にしなくてはならんと我輩は思うのだ。……しかしお主たち。それ以前の問題であるぞ』
 曰く。
『花壇に入っちゃいけません。草木を折っちゃいけません』
『歴史ある建物・造物は大切にしましょう。積み重ねられた年月に尊敬を払うのは、今に生きるものの後世への義務です』

 ごくごくありきたりなお説教をすると、子供たちはお互いに気まずそうな目配せをした。
 もともと兄弟は心根の優しい子だ。
 他人に言われなくても、我に返ればきちんと反省をするだろう。
 だが、しかし。子供が悪さをしたら叱るのが、周囲の大人の責任であり義務だ。アームストロングはそう思う。

 ましてやエドやアルは微妙な立場にある。
 古い王統を引き継ぐただ2人。本人たちはその重圧を感じないよう軽やかだが、反対に周りの反応は腫れ物を扱うように慎重だ。
 セリムの父君・公爵という形式上の叔父でさえ敬して遠ざける態度を崩さないのは、見ていて歯痒い。
 エドやアルは子供なのだ。知能は義務教育をパスしても、本来なら学校へ行って、放課後は夕飯まで遊び倒す。そんな年だ。
(…まだ、ピナコ殿やドミニク殿がいるのが幸いか)
 もし2人が最初から宮中で育っていたら。
 その想像は楽しくない。
 現に兄弟にアームストロングが錬金術禁止を言い渡した上で、瓦礫の撤去作業の手伝いを提案すると庭師たちは恐れ多いという表情を見せた。
 これも教育の一環だと言い聞かせて協力してもらったが、それがここでの常識なのだろう。
 なるほど。話に漏れ聞く王宮の中でのエドは、随分と『いい子』だった。そうならざるを得ない環境だというのを、アームストロングは今日改めて理解した。
 エドは聡い。
(しかし少し前までは率先して派手な騒ぎを起こす子供だったのに)
 そう思うとなにやら胸がさわさわした。
 だからこそ。

「不謹慎ですが、少し安心致したのですよ」
 白い芙蓉がほろりと咲く散歩道まで出れば、修復作業の騒音も遠いものになる。
 アルの存在をアームストロングは最近まで知らなかった。そのバックボーンも一切の黙秘を貫いている。
 エドは大事な秘密は誰にも漏らさない誠実さを備えていた。
 アルは何者かに襲撃されるまで宮外で育ったというなら、母親もしくは育て親がいるのだろう。
 王室がテロの標的になっているのを見るに付け、その存在を隠し通している2人の判断は正しかったとしか言いようがない。
 しかし暴漢に狙われたのが切欠で2人が一緒に暮らすようになれたのは、不幸中の幸いだった。
「ムキになって張り合うほど、あれらが仲が良いとは想像外でした」
 アームストロングは先を歩く、数年来の知人に胸の内を明かす。
 以前に会った時は、お互いに遠慮しあっているように見て取れた。
 だからラッセルに『あいつらを止めてください!』と悲鳴交じりのSOSの連絡を受けて驚いたが、久しぶりに見た年相応な姿が嬉しくないといったら嘘になる。
 それがアームストロングの本音だった。

「ああ、…昔はずいぶんおとなしかったからな」
 いや、おとなしいとは言いすぎか。
 そんなに可愛いものじゃない。あれは生きたままの死人だった。
「もう3年も前になるのか」
 マスタングは低く呟く。
 出会ったのは事件の被害者と捜査官の立場だ。だから印象の違いが際立った。
 よくぞあそこまで回復したと思う。
 チューブによって生かされていた少年は、自分が助かったことを認識してなお無感動だった。
 当時国際的麻薬組織を追っていたマスタングが監禁されていたエドの救出劇に加わったのは場の成り行きだが、一旦関われば記憶に残る。
 あのさまを思えば多少の憎まれ口など鼻先であしらえようというものだ。

 マスタングの述回に、アームストロングは押し寄せてくる苦い記憶に引きずられそうになった。
 思い出したい記憶ではない。しかしそのままにもしておけない。
 一連のテロと以前の事件が重なっているとすれば尚更だ。
 昔の繰り返しをするなど冗談ではない。……今度こそ、必ず潰す。
 だが。
「いえ、そのことではなく。…エドワードは寂しい子供に見えましたから」
 アームストロングは深呼吸をして荒れた気を落ち着けた。
「ほう?」
 彼が言わんとすることは分からなくもない。
「いえ。友や信の置く仲間は大勢いるでしょう」
 それは意外なという男の態度に、アームストロングは苦笑して言葉を重ねる。
「これは勝手な感傷ですが。エドワードほど天からのギフトを多く送られた者を、我輩は知りません。ただ、競い合い、張り合おうとする好敵手がいない才能は孤独なことだと思っておりました」
 研究所の鬼才ならいくらでもいる。あるいは机上の天才も。
 しかしエドは違っていた。
『おっさん!ちと、頼まれてくれないか?』
 オレ飛行機を造るんだ!
 目を輝かせて自分のところに企画を持ち込んだ子供は、未熟ながらもこのアームストロングを動かすに足る材料を携えてきた。
 あれを天分というのだろう。
 エドは流れを創るのに長けた子供だった。
 気運の翼をもっているとでもいうべきか。愛すべき欠点も目に付くが、だからこそ心配になって手を貸したくなる。エドにはそういうところがあった。
 エドが『行ける』と判断した道はどれほどに難しく思えても通れたし、また『駄目だ』と降りた企画は潰れた。
 見上げるとその破天荒さに心が躍る。
 エドワード・エルリックという人間はただ独り、高く早くを飛ぶ鳥だ。
 そう。
 孤高の鳥は誰の追随も受けたことがない。
 アームストロングは経済学の世界で十年にひとりの逸材と詠われる栄誉を得たが、それでも周囲にお互いに高めあうライバルたちは大勢いた。
 お互いに切磋琢磨して火花を散らし、高めあうこと。それがいかに悔しく楽しいかエドは知らない。
 エド本人は自分の孤独に気付くまい。
 産まれたときからただ独り。そうなのであれば、気付けようはずもない。
 だからアームストロングは酷く驚いたのだ。
 エドと同年代。しかも年下の少年があれと正面切って怒鳴り散らし、拳が出るような喧嘩をすることなど。
 喧嘩なんてお互いに譲れないものを持ち、意識していないと出来るものではない。
 ましてエドは目下に甘い。付け加え2人とも聡明だ。それが周囲の迷惑を省みず、錬金術も駆使しての大立ち回りとは。
 よっぽど真面目に向き合って、意地がぶつからなければそうはならない。
 エドは初めての経験だったのではなかろうか。

 マスタングはやれやれと肩を竦めた。
「ミスターは心配をするのがご趣味のようだ」
 鼻持ちならぬ若造らしいその仕草に、アームストロングは顎をさする。
(身のうちにあれだけの焔を隠して、よく己を演出するもの)
 その伊達さ、酔狂さが好ましく目に映る。
「いやはや、お恥ずかしい」
 杞憂を指摘されたアームストロングは鷹揚に頷いた。
 確かに自分はいささか心配しすぎであった。
(兄弟とはいいものだ)
 王宮に上がってからエドは保身ための殻を造るのが上手くなった。それを割って、市井の悪ガキに戻したアルは大した器量だ。
 末頼もしい。
 2人に丹精した庭を荒らされた職人たちには心底申し訳ないと思うが、アームストロングはアルを『でかした!』と褒めてやりたい。
 大人の責務を通した手前、そう言えないのが辛いところだ。

「…そう言えば、マスタング殿があれの良きライバル第一号になってくれるのではと期待していたのですが……」
 半死人状態だったエドを這い上がらせたのは、マスタングの一喝だった。
 アームストングが期待を抱いても無理のない話だろう。
 一方、思わぬセリフにマスタングは酢を飲まされた気持ちになる。
 彼があの子供を高く評価するのはいい。
 自分を買ってくれるのも有り難い。
 しかしあのきゃんきゃん五月蝿く吼えるクソガキと『御友人』や『ライバル』や等。そんな青臭い関係を築く気は、サラサラこれっぽっちもまるでない。ありえない。論外だ。
(なんで私が!)
 喚きたくなる気持ちをぐっと抑え、マスタングは咳払いで誤魔化した。
「…………それは期待に沿えず申し訳ない。しかし私と彼では年が離れているでしょうに」
「それぐらい長い人生では、たいしたことはありません」
 重厚な微笑みは流石、企業人の押し出しの強さだ。下手なセリフを吐けば言質を取られかねない。
「…時間をとらせてしまいましたな。リザ殿もお待ちでしょう」
 アームストロングは青年の困惑を見取り、懐中時計を開いて促した。
「いえ。こんな騒動でもない限り、お忙しいミスターを捉まえるのは大変でしたでしょうから」
「おお、秘書にはいつでも通すように申し付けてありますが?」
 マスタングは相棒の鋭い眼差しを思い出し、胸を押さえて溜め息を付いた。
「スケジュールを台無しにして、美女に恨まれるのは居た堪れないものがあるんですよ」





『むかしむかし。

 長い戦争がありまして。
 ひとがたくさん死にました。
 川は赤く血で染まり、土壌は憎悪を吸い汚れ。
 その只中に生えた無花果の木はひとの肉を養分に、怨嗟を子守唄に育ちました。
 木はそれは大きく立派なもので。
 虫を小動物を育む肢体を持ち、梢を豊かに茂らせて、滋養の果実を実らせました。
 しかし無花果は呪われており、その枝に触れたものは誰もが狂騒のうちに死んだので、木は孤独でありました。
 ある日、2羽の鳥の兄弟が枝に傷めた翼を休めるまでは。

『しばし宿を借りたい、無花果の木よ』
『我らは遠くを旅するもの。先の嵐で難儀をしております』

 金の尾羽の兄弟はきわめて聡明で知識が深く。
 その喉から紡がれる歌声は、天上の夢へと無花果の木を誘いました。
 無花果は呪われた吐息が珍客を害さないよう身を潜め、さえずりに耳を傾け涙します。
 初めてでした。生き物を殺したくないと思いましたのは。
 気の遠くなる時間を独りで過ごし無花果は、そのとき自分がいかに孤独であったかを知ったのです。

 兄弟の旅立ちの日。
『いずれ、また』
 再開の約束を、無花果は信じられませんでした。
 木が鋭く研いだ梢を伸ばし。
 金の翼を奪いしは、兄のほうでありました。

 比翼の片割れを奪われた弟の怒りは激しく、金の翼に雷雲を孕みます。
『返しや!』
 兄の翼を。その自由を!
 無花果はそれを拒みました。
 兄弟が去れば、また独り。この地で魂の牢獄に繋がれなくてはいけません。
 無花果はなによりそれを恐れたのです。
『ならば滅びよ』
 弟の怒りに呼応して。
 天から伸びた光の矢は、大樹を貫きます。
 無言のうちに木は倒れ、やがて屍から緑が吹きました。

 空を翔る術を失なった鳥は、もはや鳥ではありません。
 喜びの空へ帰る術を失った兄鳥は地に堕ち、子供を生み育て。やがてか弱い人の子として死を迎えました』



「だいたいこんなところか」
 ぺらり。
 グリードはリゼンブールの創世神話を外国人プレス向けに訳したレポート用紙を差し出した。
 場所は国立図書館の喫茶室だ。
 しかし提供されたコーヒーは冷えたまま脇に追いやられ、机の上には辞書やら資料が散乱している。
「ありがとうございますー。ああああ、助かりました。私、本を読むこと以外は本当に苦手で」
 シェスカはグリードの手を取って滂沱の涙を流す勢いだ。
 エドワードの就任式に合わせ、広報も着々と準備が整えられている。
 普段は書庫の奥で本の虫になっているシェスカも、一度読んだものは忘れないという特技をフル活用してもまだ足りず、忙殺されかねない毎日だ。
「でもこれだけ完全な形での現代訳ができるなら、後は簡単だっただろうによ」
 グリードはシェスカが作成したレポートをしみじみ眺めた。
 いい出来だ。
 おっとりとしたお姉ちゃんと思いきや、出典を疎かにしないガツンと硬質な文を書く。
 少々取っ付きにくいのが難だが、Aプラス2を付けてもいい論文だ。
 グリードはそれを柔らかく噛み砕かせてもらったが、なにやら勿体無い気がしなくもない。
「私、話の細かい枝葉を切り捨てることがどうしても出来なくて。みんな必要に思えてしまうんですよー」
 一角の研究者に褒められて、シェスカは照れる。
 お世辞にしても嬉しかった。
「なるほど、それはよくわかる。いっそ広報のウェブにコーナー作ってこのままの形で載せたらどうだ? 興味のある奴はいるだろう」
「うーん、どうでしょう。やれるとしたら個人でしょうね。今はテロの余波で過熱報道気味ですけど、基本的にウチの神話ってマイナーですから。外国の方はあんまり細かくなると読んでもらえなそうで。…あっ。でも、ないのとあるのでは知ってもらう間口の広さが違いますよね」
 うーん。どうしよう。
 仕事の一環である以上に、シェスカは真面目に悩む。
 どうせやるなら一番いい形で世の中に『こういうものもあるんですよ』と告げる場所を作りたい。

「ところで、質問いいか?」
 グリードは先ほどマーカーをつけていたページを捲る。当方としては、ここからが本題だ。
 そもそもグリードがリゼンブール史を浚い始めたのは西の賢者の存在ゆえだ。
 当の本人と会ってしまい神秘性が薄れ一時は少し凹んだが、可愛い手下どももまだ暫らくお勤めから戻ってこれないことでもあるし、どうせやるなら時代を遡って最初から徹底的に調べるつもりだ。
「はい、なんでしょう?」
「気になったことが幾つかあるんだが」
 神話といっても侮るなかれ。
 伝えられる物語には必ず寓意が隠されている。人は歴史を伝えるため、起きた出来事を隠すため、あるいは事実を改変するために文を残す。それは全て時の彼方に過ぎ去った歴史を紐解く鍵だ。
 ましてリゼンブールに残された書籍類はこの地方じゃどこよりも古く幅広い。書の国シンに次ぐほどに、その史料価値は高かった。
「シンの国にはユグドラシル…世界樹の伝承がある。西方にある山を3つ重ねたより大きな樹の下には不老の精霊が住む。その血肉を喰らえば不死を与えられるといったものだ」
 シェスカはポンと手を打った。
 巨木信仰は世界に数多点在する。
「ああ、知っています。四足のものはテーブルと椅子以外なんでも食べるっていう、シンらしい話だなあって思いました。シンの昔の権力者は不老不死の伝説が好きですよね。…でも、その樹は砂漠に浮かぶ蜃気楼だったと聞きましたよ?」
「この神話に出てくる無花果の樹は『ブリッグズの天険ほど』の大きさなんだろう。『その木陰は一国を覆う』となれば、ふつーの山なら3つぐらいは重ねられそうじゃないかってね」
 リゼンブール王宮の地下には空洞がある。以前に潜って驚いたが、それは一国を網羅していた。後で話に聞けば、リゼンブールを走る地下鉄はそれを上手く利用して建設されたものだとか。
 面白いことに、その部分。分かっている限りの空洞を3D化すると、まるで植物の根のような形になった。
 偶然か? 自然の悪戯?
 そう判断するには、少し符号が合いすぎた。
 それほど巨大な樹が実在するなんてありえない。しかし『ありえないものは、ありえない』それがグリードの信条だ。仮説は立てるに値する。

「あっ…でもー」
 シェスカは口篭った。
 それは違うとはっきりしていた。その2つの話を結びつけるのは時代が合わないのだ。
「なんか思い当たるふしでもあるのか」
「えっ。えっとー」
(どうしましょう…)
 それは明文化しているものではない。説明できるのは今のところただひとりだけだ。
(あ、でも。教えてもいいのかしら?)
『グリーン教授には叶う限りの便宜を図ってやって欲しい』
 シェスカは当の本人にそう頼まれていたことを思い出した。それによくよく考えれば……ただ少し信じがたい、荒唐無稽な話なだけで、特別に秘密にしておくことじゃない。
 
「ええと。グリーン教授は。エドワードく…殿下が最近、琥珀のピアスをしているのを知ってますか?」
「? …ああ」
 いぶかしげに細められた視線は、普通にしていても剣呑だ。
 フィールドワークを主とする学者ならアリなのだろうか。ちらりとシェスカは思う。
「あれがこの国の御祭神。名の無き神の本体の一部だそうですよ。この間、殿下が科研のほうに分析を頼んでました。琥珀って何万年、何百万年もかかって形成されるとかで……伝承を噛み合わせるには時代が違いすぎますよね」

 齎された情報に、グリードは膝を浮かせた。

 いや、待て。
 ちょっと、待て。
 そんなこと、なんで黙っていやがったあの鎧は!
 それは聞かれなかったから。と、しゃらりと答えられそうで業腹だが。
(この嬢ちゃんが嘘を吐く理由はないにしても、後で確認は必要か)
 そんな『資料』があるのなら、神話の信憑性も増すというものだ。
 まるっきり出鱈目ってわけではない。

 そう、それが事実を含んだものなのなら。

 ふと胸に疑問を抱いたグリードは、筋張った指を膝の上で組み合わせた。
 エドワードが真理と呼ぶものが大樹の化生というならば。

 神は死んでその土壌は豊かになる。
 それはいい。『神殺し』は神話のよくある雛形だ。

 邪悪な竜を倒したものは神の剣を手に入れる。
 女神を殺せばその死体から新しい穀物の種が芽吹く。

 しかし翼を失った兄鳥の系譜が王統の元なら、神殺しの英雄である筈の弟鳥はいったいどこに消えたんだ?





2005,9,25

お久しぶりの『機械の〜』です。お待たせしました!
お話の内容は微妙に進んでいるようないないような。やっと広げた風呂敷を折りたたむ取っ掛かりが、出来たといったところです。






 パラレル