機械の国の王子さま 10




2番目のアルフォンス






「遅かったな」
 車寄せの壁にもたれるよう待っていた人影は偉そうに腕を組んでいた。
「今日は休みだろう。どうしたんだラッセル?」
 言ってからエドは携帯を入れていた胸ポケットを押さえる。
 コクピットに入る前に電源を落としてそのままだった。
 ラッセルはこの時間はライトアップされている、南の庭を指差した。
「俺がここで育てているバラが咲いたって言ったら、父さんとフレッチャーが見たいって騒ぐから連れてきた」
 リゼンブール王宮の造園技術は定評がある。中でも薔薇園は特に力を入れている分野だ。
 家族が出来のいい息子や兄を誇らしく思っても無理はない。
「そしたら父さんが折角だからお前に挨拶したいって…」
 エドは眉を顰める。
「トリンガム教授が。珍しいな」
「これから家族で食事。8時半にレストランを予約してあるから、まあ時間つぶしってとこかな」
 現在時計は7時を回ったところだ。
(この仲良し家族め)
 普通ラッセルぐらいの年齢になると、家族でお出かけとか嫌がるものじゃないだろうか? …エドにはよくわからないが。羨ましくないこともない。
「あ、っそうよい休日で。それなら茶でも淹れるか。…オレの部屋でいいよな?」
「わかった。父さんたちは向こうに居るからぐるっと回って正面から来る」
 美術品を展示してある正面ホール等、1階フロアは観光客に開放してある。『おのぼりさん』をするには景観のいいコースだ。
 そちらに歩いていったラッセルの後姿を見送って、アルはエドの横に並んだ。
「ラッセルのおじさんって会ったことない。どんな人?」
「遺伝子治療の研究者だったひとだよ。ちょっと身体を悪くして一線から引退したけど」
 自室に戻り、SPと分かれたエドはいつものようにアルと手分けして探知機を起動させた。
 立ったまま端末のロックを解除する。
「今日は被害ゼロっと」
 ダミーデータへのアタックには、追尾付きブロック機能がきちんと働いてくれている。
(よしよし、良い子だ)
 エドは我が子の働きに満足する。
 念入りにプログラムを編んだ甲斐があるというものだ。
「こっちはひとつだけ。生花の中にあったよー」
 アルは奥の部屋からひょっこり顔を出す。
「…なんでカメラを寝室に仕掛けるんだろうな? データなんて絶対そこには置いてないのに」
「……世の中追求しないほうが幸せなことってあるんだよ兄さん」
 声紋錠を起動させてから格段に少なくなったが、それでも仕掛けてくるあたりガッツがある。あの手この手の手段がよく尽きないものだ。

 食事前の飲み物なら胃に負担を掛けない軽いお茶を。
 エドがポットを温めていると、来客を知らせるベルが鳴った。
「どうぞ」
「こんばんわ殿下。アルフォンスさん」
 弾む毬のように元気な子供は、それでも礼儀正しく挨拶をする。ノックを忘れてしまったのはご愛嬌だ。
 ひらひらと手を振るとアルに懐いているフレッチャーは嬉しそうに破顔する。その横で中肉よりもやや細身の紳士は、やや緊張したように頭を下げた。
「お久しゅうございます殿下」
「…お久しぶりですトリンガム教授。紹介します、私の弟のアルフォンスです」
「はじめまして」
 初対面で手を差し出すと驚かれることもある。だからアルはぺこりとお辞儀をした。
「こちらこそ、はじめまして。ラッセルから話は聞いています」
「どうぞお座りになってください」
 ソファーに誘導するエドの態度は、外交用の丁寧なものだ。
(なんか、意外?)
 私室に通したくらいだから、てっきり気心の知れたひとかと思ったのに。
「兄さん、ボクが淹れるよ」
「頼む」
 簡易キッチンから来客用スペースは離れていない。話し声もクリアに聞き取れる。見るとラッセルとフレッチャーは大人しくソファーの隅に座っていた。
「殿下。早速、用件のみで申し訳ありませんが。殿下はショウ・タッカー氏をご存知でしょうか」
 トリンガム教授は言葉どおり性急に切り出した。
「残念ながら聞き覚えがありません。どのような方で?」
「人工キメラの第一人者とされる錬金術師で…言葉を喋るキメラを創造したそうです」
(え?)
 その内容にアルの錬金術師としてのアンテナが立った。つい耳を欹てる。
「それは、本当ですか!?」
「私も学会から遠ざかっていたので詳しくは知りませんが確かです。何分、衝撃が大きすぎるということで公の発表は控えられたようですが。先日、そのタッカー氏から連絡がありまして。私が以前勤めておりました王立遺伝子研究所秘蔵のデータを閲覧したいというのです」
 トリンガム教授の声に苦渋が滲む。
 眉を跳ね上げたエドは大きく足を組み、その上に絡めた手を重ねた。
「…おかしな話ですね。事務局長の使い込みがバレて取り潰された研究所に用事とは」
 ハッと息を呑むような、冷笑的な物言いだ。
 トリンガム教授は目を伏せた。
「ええ、恥ずかしながらあれからもう3年にもなります。マルコー先生のような有名な方なら兎も角、私のような一研究員のところまで尋ねてくる方がまだ居るとは思いませんでした。……残念なことです。タッカー氏には申し訳ありませんが、研究所を閉めるときデータは破棄してしまったのでお役に立てることはないでしょう。ええ、私も最近物忘れが酷くて大まかなデータさえとてもじゃないけど思い出せません。一緒に働いていた仲間たちも同じことを言うでしょう。…是非、殿下にはそのことをお伝えしたく」
 壮年の男性の指は膝の上で震えていた。
 ラッセルは気遣わしげに眉を顰めたが沈黙は守り、エドの発言を待つ。
「お気遣い感謝します。ですが教授、貴方は勘違いをなされている。比喩的な言い方を許されるのなら、『私の弟の名前がアルフォンスなのはまったくの偶然です』ということです」
「…勘違い」
「アルのことをラッセルから聞いたのでしょう? …他には?」
「それは、今の職場の同僚から」
 そこでトリンガム教授は思いついたよう口を噤んだ。
「そう、特に広めるつもりはありませんが私は弟が居ることを隠そうとも思っていません。確かに弟の身体には先天的な問題があり、国務を果たすのは難しい。だから王族としての擁立はしていませんが、それだけです」

 トリンガム教授は優しいひとなのだろう。
 ここでもの凄く困ったようにアルを見た。目が合ったのでティポットを掲げてみせる。
(あんな言い方。誤解を招くよ)
「あ、ボクは大丈夫です。えーっとこんなナリでよく驚かれますけど、困ったことあまりないです。それにボクとしてはこの姿、ちょっと格好いいなーって思うんですけど」
「うん!凄く格好いい!」
「フレッチャー!」
 トリンガム教授は慌てて下の息子の口を塞ぐ。
「そうだろフレッチャー、オレもそう思う。……教授。そういうことでアルは自分のことは自分で処理の出来る人間です。この姿も自らの選択としてのこと。気遣いは無用です。私は弟を誇りに思うことはあっても、恥ずかしがったり過保護に隠す必要性を全く覚えていません」
 長い吐息は、何を思ってのことか。トリンガム教授は深々と頭を垂れた。
「…そのようですね。すべては杞憂だったようです。心の弱い私をお許しください殿下」
「……。」
 エドは口を開きかけたが、迷うように噤んでしまった。
「もう、いいだろ父さん。そろそろ行こう」
 ぎゅっと唇を噛んだラッセルは、父親の肩に手を置いた。

「えー、お茶入ったよー?」
 アルに柔らかく詰られて、どこかピリピリと緊張を孕んでいた空気の糸が弛む。
「すまないアル。それは、また今度に」
 ラッセルは手を合わせて拝んで見せた。アルも本気で引きとめようとしたわけではない。
「ホラ。父さん、フレッチャー、先に行ってて。俺はトイレ借りてから行くから」
「はーい。父さん、行こう?」
 幼いながらも万事に気がつく弟が父を連れて扉の外に出たのを確認してから、ラッセルはエドを振り向いた。
「…すまない」
 言い訳の総てを殺し、頭を下げるラッセルにエドは少し困った。
 ラッセルが悪いわけではない。
「お前の親父さんも広囲的な目で見ると被害者だ。それに話をしたのは教授のためじゃない、お前のためだ」
「…働いて返せってことか?」
 ラッセルは泣き笑いになるのを堪えるような複雑な表情だ。
「や、オレ基本的にひと使い荒いし?」
 エドはラッセルの胸を叩く。
「もう、行け。フレッチャーも待ってる。…アル、悪いがラッセルたちを表まで送ってやってくれるか? オレは行かないほうがいいから」
「うん、いいよ。…後でちゃんと説明もよろしく」
 いつものことだが、わからないまま話を合わせざるを得なかったアルは一応念を押しておく。
「そんな別にいいのに」
「親父さん、また廊下の途中で倒れたら大変だろう? お前、抱えて歩けるか?」
 ラッセルはバツが悪そうにそっぽを向いた。
 確かに王宮に来るたび医務室のお世話になっているからそう判断されても無理はないが。普段の父はそんなに虚弱というわけではないのだ。
「えっ。ラッセルのお父さん、持病があるの?」
「神経性の胃炎と、腸炎は仲良しだよな」
「父さんはごくまっとうな精神の持ち主だから仕方ないだろう。罪悪感を知らないひとなら…俺が気を揉む必要はないし」
 とりあえず予約していたレストランはキャンセルだ。こってりとしたバターや肉は今の父には辛いだろう。
 楽しみにしていたフレッチャーには可哀想だが仕方ない。
「いいから早く行けって」
 アルとラッセルは背中を押されて追い出される。

 バタン。
 アルは閉ざされた扉に不審を覚えた。
(…?)
 何やら胸がもやもやする。ラッセルと一緒に追い払われたような気がするのは、会話からお味噌にされた僻みだろうか。
「あら、どうしたのアルフォンス君」
「あ、マリアさん」
 扉の開閉に反応して護衛室から出てきたのは黒髪の美人さんだった。アルはホッと息をつく。
 聖人君子ではないアルは、ブロッシュさんとマリアさん以外の『ワケありSP』は少し苦手だ。
「えっと、ラッセルのおじさんが具合悪そうだったんで追いかけようかなあって…」
「トリンガム教授が? ラッセル君、今日は車できたのかしら?」
「はい。父の運転で」
「じゃあ運転手を寄越すわね」
「えっ。でも帰りが大変ですから」
 恐縮するラッセルに、マリアさんは片目を瞑った。
「30キロの装備を背負わせてジョギングさせるにはちょうどよい距離よ。不摂生が目立つのにでも言いつけるわ」
 悪戯っぽい微笑を湛えた口元が女性らしく魅力的だ。
(でもやってることは鬼軍曹なんだよなぁ)
 猛獣使いと異名があるとは誰に聞いた話しだったか。
「それにアルフォンス君は…ちょっと普通車じゃキツいと思うし」
「あはは、そうですよねえ。じゃあ、ラッセルここで」
「うん。色々気を回してもらって悪い」
 ラッセルと廊下で別れたアルは、声紋錠の起動を僅かに躊躇った。
(なんか、初めてのお使いに失敗した子供の気分?)
「ただいまー」
 アルは控えめに声を掛ける。
(あれ?)
 客間にはエドの姿はない。てっきりまだそこに居ると思ったのに、寝室か…書斎か?
 その時、アルの敏感な聴覚は物音を捉えた。
(あ、水の流れる音)
 この音は洗面台の水道のものだ。
 なるほどトイレだったか。…いや、違う。だって、トイレのドアが開く音はしなかった。
「兄さん?」
 微かな疑問にアルは広々とした洗面スペースを覗いた。
 水が流れっぱなしの洗面台の下。
 エドは背中に腕を回すようにして蹲っている。
「…兄さんっ!」
 アルは慌てて近寄った。
「どうしたのっ!…背中が痛いの?」
「なんでもない、ぶつけただけだ」
 眉根をきつく寄せたエドの顔色は蒼を通り越して白い。
(なんでもないわけないじゃないか!)
「ぶつけたの? 後ろ見るよ?」
 憤然としたアルは服の裾をまくって背中を見るが、打撲特有の内出血の跡はない。今にも翼が生えてきそうな肩甲骨があるだけだ。
「何にもなってないよ、まだ痛む?」
「だから言ったろ、なんでもないって」
(右肩に指の跡)
 アルが力加減を誤って夕方、付けてしまった手の跡が目に入った。そちらのほうがよほど痛そうに見える。
「…本当に、大丈夫だから。ちょっと向こう行ってろ」
「わかった。お医者さま呼んでくる」
 とたん腕を捕まれた。
 ぎらぎらとした金の目が下からアルを睨みつける。
「お前は、もっと人の話を聞け。平気だって言ってるだろ」
 エドの息は隠そうとしているが微妙に弾んでいる。
「そう言うけどね、ちっとも平気に見えないよ」
 我慢強いこのひとがポーカーフェイスを保てない痛みなんて。
 蹲っているのを見た時は、本当に…本当に驚いたのだ。おまけに追い出そうとしたうえに、嘘まで付かれた。
 空の腹腔に熱が溜まる。
「でもロックベルのおじさんや、おばさんは…今日の午後から研修に行っていていないから」
「他にもお医者さまなんていっぱいいるでしょう!」
 一喝するとエドの肩が跳ねた。
 すねたように口が尖る。
「………………医者、キライ」
(子供か!)
 …いや、子供だけど!
「だってロックベル先生だってお医者さまだよ?」
「おじさんは赤ん坊の頃からの付き合いだからいいんだよ。それに、ほんとに平気なんだ。背中、痛くなるの前にもあって検査したけど何もなかった」
 一瞬そうかと思ったが、いや待てと思い直す。
「……ロックベル先生は外科医じゃないの!うっわー兄さん信じられない!」
 ぶつけたのが嘘なら、内科医に診てもらうべきだ。無理を通すのも程がある。
 アルはおもむろに隣室に戻り、机上の内線に手を伸ばした。
 医務室を呼び出そうとして、なんとか間に合ったエドにフックを押される。
「なにするの!」
「それはこっちのセリフだっつーの!」
 脂汗まで浮かべて怒鳴られても怖くない。ずるずるとカーペットに座り込んでしまったエドを一瞥して、もう一度電話を掛けようとするが、今度は線の大本のコードを引き抜かれた。
「兄さん、それ返して?」
 温厚なアルだが、プチリと切れそうになる。
「だって、ヤダって言っているのに、お前ワガママするから」
「ど…!」
 どっちが我侭だ。一瞬、素で怒りの沸点に到達しそうになる。

「頼む」

 しかし。手を捕まれて、懇願されれば心が揺らぐ。
 相手は自分の行動を封じるために手を握っているのだから、振り払うのも簡単なのに。
「いつも、すぐに治る。…も、大方楽になった」
 浅く息をついているエドの顔色はまだ青いが、先ほど比べればマシになっていた。
「原因はわかっているの?」
 アルの納得のいかない説明では引かない気概に、エドは情けなく眉をハの字に曲げた。先ほどまでの自信に溢れた態度のひとと同一人物じゃないみたいだ。
(…虚勢を張るのばかり上手いんだから)
 アルはエドの小さな身体を抱き上げてソファーの上に座らせる。
 いつもなら小荷物扱いに反発しそうなエドも、負い目からか大人しい。
「ラッセルの親父さん、オレと会うとストレスでいつも具合を悪くするんだ。…たぶん、オレもそれに似たものだと思う……違うかな、単にわがまま病なのかも」
(ストレス?)
「学校行こうとすると熱が出る登校拒否児みたいでアレだけど。強く嫌だと思ったりすると時々背中が痛くなる。胃痛や頭痛でもなし、専門なら精神科や小児科なんだろうけど…誰かに精神分析されるぐらいなら痛いの我慢するほうがいい」
 らしいといえば、あまりにらしいが。
「…兄さん、ラッセルのおじさん苦手なの?」
「苦手ってゆーか」
 痛みが薄らいできたのか、緊張を解すようにエドはゆっくり肩を回した。
「いや、今更嘘を言っても仕方ないな。苦手というよりは、怖い」
「…それはラッセルのおじさんがお医者さまだから? それとも他に何かあるの?」
 痛いところにズバズバ切りこまれ、エドは覚悟を決めた。
 何度も繰り返したい話題ではない。だとしたら一度に済ませてしまったほうがいい。
 アルは敏い。この先一緒にいれば、感づかれることもあっただろう。
 人目が多い最悪のタイミングでなかっただけマシなぐらいだ。エドは自分をそう慰める。
「両方だ。オレは医者に対して、それも研究者としての医者に強い不信感を持っている。オレのような立場のものがおおっぴらに言ったら問題になるから秘密だけど」
 アルはキシリと首を傾げる。  ラッセルの父親という色眼鏡もついているだろうが。
「…善良そうなひとに見えたよ?」
「いいひとだよ。そうでなきゃ、オレはとっくに死んでいた」

 恨むには熱量が足りない。しかし感謝をしているとはどうしても思えない自分の狭量にエドは暗澹となる。
(いつも、どっちつかずだ)
 誰かとても悪い人間が、いればよかった。そしたら素直に憎めたはずだ。
 昔はエドの世界は単純でやさしかった。
 母と幼馴染みの家族。それに仲間たちと空。手を伸ばせば返ってくる愛情と喜び。汲んでも尽きない泉のような憧れ。
 それらは今でもエドの胸の大事な場所に置かれている。
 だけど、それらと現在は遠いところにあって。思い出すたびに薄い刃物を踏むような痛みを覚えた。
(ああ、でも。また空には行ける)
 諦めたはずだ。でもそれは嘘だ。
 エドはいつだって我侭だった。

「……兄さん?」
 気遣う声に意識が引き戻される。
「なにから話そうか、迷った」
『アルフォンス』の為にも話しておく必要はあるのに、まだ迷う。
 見栄なんてろくなもんじゃない。
 ただ、アルに忌まれたら少しキツいなとは思う。
「ちょっと待て」
 エドは一通のメールを素早くしたためて送信した。しばらくして携帯の方に簡潔な了承の返事が送られてくる。
「実物を見せたほうが説明しやすそうだ」
「どこにいくの?」
「元・王立遺伝子研究所だ」


 エドは寝室の床にトンネルを錬成した。
 穴は意外な深さを見せる。一階を通り越して地下まで『道』は貫通していた。
「こんな抜け穴つくって良いのかなあ」
「やってもいいが、つくったら塞いどけよ。壁や床に配線通っているから、切らないように気をつけろ。抜け出すのバレるから」
 エドは慣れた様子で床に固定したロープを垂らす。
「…兄さんじゃあるまいし」
(そういや脱走癖があるってブロッシュさんが言っていたっけ。すっかり忘れていたけど)
「なんか言ったか?」
「この道、どこに繋がっているのかなって」
「ワイン倉経由で裏戸から庭に出る。そこの鍵は電子錠なんで開けるのチョロイし」
「……兄さん泥棒としてもやっていけるね」
「犯罪は、手間の割りに儲けが少ないから嫌だ」
 不安定なロープもなんのその。丈夫な皮手袋を嵌めると、軽業師のような身の軽さで下まで滑り降りていく。
 トン。と床に降り切った微かな物音がしたので、アルも後ろに続いた。
「王宮の外に行くの?」
 倉庫は最小限に明かりを落としてあった。しかし真の闇とは程遠い。
 アルの背よりも高いワイン樽の間を縫うようにして歩く。
「いや。研究所の施設自体は3年前に取り潰されて市営駐車場になった。接収した研究や機材の一部は王宮の植物園で管理されているからな、そこまで」
「植物園で?」
「そう。バイオテクノロジーって単語に聞き覚えはあるか?」
「生命工学…だっけ。生物の保有する特別な機能を利用する技法のことだよね。パンを膨らませるイースト菌の発酵や、アルコールの醸造とかも広義的な意味では含まれていたかな」
 アルは付け焼刃で仕込んだ知識を搾り出し、大きな樽を指先でなぞった。
「それだけわかってれば上等だ。今の先端農業を学ぼうとするならバイオテクノロジー…その中での遺伝子工学も必須だ」
 この夜の闇では、練成光は目立ちすぎる。
 手持ちの端末を電子錠で繋いだエドは、軽やかにキーボードを叩いてドアの開錠をした。
 人影の有無を確かめると、夜気の中に身を滑り込ませる。
「DNAかあ。ここまで来ると人間って業が深いなって思うよ。…面白そうだと思うあたり特に」
 この前目に付いた新聞の記事。あれは遺伝子組み換え技術とかいったか。
 虫害を避けるために強化されたトウモロコシ。病気に強い豆。大量に実る麦に、寒害知らずのジャガイモ。その種子が何年も掛からず出来上がり、あまつさえ市場に出てくる。
 その事実にアルは唖然とした。なにやら空恐ろしいような気さえする。
 アルの曽祖父は上等な羊毛を得るために羊の掛けあわせを奨励したが、安定した結果が出るには何十世代……アルの時代まで掛かった。
 あまりに急ぎるぎるものは、その速さゆえに見失うものが多いのではないだろうか。その懸念を覚えざるを得ない。
(かといって…その技術を封印しちゃうのは凄く勿体無いし。…複雑)
 ああ、まったく科学者というのはいつの時代も困ったものだ。

 エドは人の流れや警備体制を知り尽くしているし、アルはその気になれば気配を殺すことも読むことも出来る。
 ライトアップされた庭園の影を縫うように、植物園まで辿り着いた。
 観光客に解放されているとはいえ、夜間はほんの一区画だ。
「アル、こっち」
 人の出入りが激しい正門ではなく、オブジェの一部としか見えなかった木戸を押して中に入る。
 簡単な農具が置かれた物置を通り抜けると、ごく普通の事務所のような部屋に出た。
 そこで2人を出迎えたのは初老の男性だった。
 白衣を着込んでいるが知性よりも穏やかさが出た相貌だ。
「こんばんは。元気そうだね?」
 アルは内心、肩を竦めた。
 確かにエドは『元気そう』に見える。先ほどまで痛みに脂汗を浮かべ、膝を突いていたなんて信じられないほど。
 ここまで意地っ張りだと、痛々しいを通り越して腹立たしくなってくる。
「マウロさんは老けたよ。たまには日の当たる場所を歩いたほうがいいんじゃない」
「はは、いつかね。でも今は止めといたほうがいいと思ってね」
「そこまで制限したつもりはないけど?」
「心構えの問題さ。私は弱い人間なんでね。うっかり何もからも逃げ出したくなったら困るだろう」
「…マウロさんが自虐を楽しみたいっていうんならそれでいいけど…」
「……そこまで変質的ではないと、主張はしておくよ。さて、『彼』に会いに来たんだろう?」
 マウロさんはアルに挨拶代わりに目礼すると、背を向けた。
 透明なビニールで気密を保たれた、清潔な小部屋に案内される。


 様々な機材に繋がれた、気泡の浮き立つガラスケースの中に。
 ひとりの少年が眠っている。
 金の髪に白い肌。エドと同じほどの年齢の……。

 アルはハンマーで頭を殴られたような衝撃を覚えた。

 信じられない。でも、間違いない。

『この少年には魂がない』
 魂だけの存在のアルには判った。
 そこには何の意思もない。これはただ心臓が動いているだけの人形だ。

 エドの声が静かに響く。

「1番目の子供の名前はAから始まりアルフォンス。Bは女の子だったのでブリジット。Cはケリーで、Dはディーノ。そして、E はエドワード。……オレは1番目のエドワードになる」

 エドの目は不可視の底光りを湛えてアルを映す。

「アル、紹介するよ。彼は2番目の『アルフォンス』。オレのただひとりの同胞だ」





                                   To be continued


2005,1,11
はじめのほうで出で来たっきりの『彼』が、やっと再登場です。




 パラレル