穏やかざる2日目の朝
今し方入った情報によれば。
大型で非常に強い勢力の台風が、夜にもセントラルを襲撃するらしい。
チン。
朝ぱらからの長電話。
なにやら話し込んでいたエドは、受話器をおくとキッチンに居たアルを呼んだ。
「……ということで、覚悟しておけ」
そう宣言した姉は、顔にヘンなしわを寄せてガタガタ震えている。
何でこのひとは女なのに可愛く怖がれないのかなあと、溜め息を付いてからアルはふと我に返った。
楽なほうに逃げたがる本能が、現実逃避を図ったらしい。
「…兄さん師匠に連絡したのっ!?」
ヒイイィ!
なんでそんなよりにもよって!
両方に手を当てた絶叫のポーズを取ったアルは、お玉と菜箸を取り落とした。
「空間と移転に関する情報に心当たりないか聞いたんだよ…。そしたら、社員旅行がてらセントラル見物に来るって」
あの夫婦は本当に旅行が好きだなあ。
フフ、とエドは虚ろに笑う。
「…兄さん、ボク、しばらく夜逃げするから後はよろしく!」
ハッと正気に戻るや否や、エプロンを脱ぎ捨てようとしたアルのジーンズの後ろベルトを、エドはガッシリ捕まえる。
「待て、逃げるな弟よ。お前、兄ちゃんを見捨てる気か!」
「逃げるよ!師匠に殺される!それに兄さんは強い子だからひとりで平気だよ!」
「いやいやいや!お前が居なくなることを考えたら、兄ちゃん、小鳩のよーな胸が潰れそうだ!」
もちろんこの場合は、悲しみからではなく目先の恐怖で。
「うわあ!兄さんボクを生け贄にして逃げるつもりだ!」
「…………最近、知恵づいてきたよなー。それとも男女の違いかなあ」
エドが舌打ちをした途端、折りよく玄関のベルが鳴った。
思わず手を取りあい固まった2人だが、いくらなんでも早すぎる。
「エドワード・エルリック。アルフォンス・エルリック。居るのであろう?」
アルはホッと息をついた。
鈴を振るようでいて、凛とした麗声だ。
馴染みの客と知って、エドは露骨に肩の力を抜く。
「なんだ大佐か。…開いてるよ、入って!」
気兼ねない親しさでエドは声を張り上げた。ホテルでもなし、田舎育ちのエドとアルは戸締りの癖が付いていない。それでも夜間や出かける時は周りの大人に叱られるので施錠するようにはなっていたが、今は朝だ。
「ふむ。では失礼をして」
カチャリ。
エルリック家の流儀はとうに承知。
声を掛けたのは礼儀とばかりに、慣れた風情でその女性は入ってきた。
風そよぐ軽やかなドレスは、目の色と合わせた空の青。
襟飾りと揃いの手袋はけぶる白の総レース。
朝の出で立ちなので胸のブローチには光らない石を。
見事に輝く金髪は、品の良い帽子で纏めている。
「朝早くからすまぬな」
きりりとした口調こそ勇ましいが、スカートの裾を抓んだ挨拶の優雅なことときたら、思わず見惚れてしまうほど。
上流階級の貴婦人はかくあるべしと、教科書のお手本にしたいような淑女だった。
……ただし、サイズが普通ならば。
女性の背丈を云々言うのはルール違反だが、それにしても大きい。
ヒールを抜いても余裕で2メートルの大台を越している。まさに雲をつくような女丈夫だ。
(…うわあ)
「どうかしたのかアルフォンス・エルリック?」
耳飾りをしゃらりと鳴らして小首を傾げるその仕草に、ポカンとしていたアルは咳き込みそうになる。
「な、んでもないです、アームストロング大佐。今日のお召し物も素敵ですね」
……よし!頑張ったボク!
アルは内心、拳を握る。
(外見はたしかに吃驚したけど!マスタング少将と比べたら…。うん、なんてことはないじゃないか!)
アームストロング大佐は面映そうに襟元に手を這わせた。
「ああ、襟のレースか。我ながら上手く出来たと思ったが、おぬしに褒められると照れくさいな」
(…手編みだったのか)
いや、いやいや。大佐が女の人ならそれぐらいは出来そうだ。
アルは自分を無理やり納得させる。
「どうしたの大佐。非番にしても、ずいぶん早いね」
エドは世間話のついでに尋ねる。
朝食前のこの時間に、礼儀正しいこの女性が尋ねてくるのは珍しいことだ。
「セントラル中央公園で朝の散歩を楽しもうとしたら、実はそこで珍しい方とお会いしてな」
大佐は困惑を示すように人差し指を耳たぶにあてて溜め息を付く。
その仕草の優雅なことときたら。
受けた衝撃の大きさに、アルの魂は真理の向こう側を行ったり来たりを繰り返す。
(うわー、なんて女らしいんだ大佐。…ははは。見習え姉)
彼女に出来て、姉に出来ない理由はないだろう。
「その方がおぬしたちに是非、会いたいと申されて」
なにやらショックを受けている弟は放っておいて、姉は気軽に了承した。
「大佐の知り合い? いいよ、入ってもらっ……」
錬成陣の書いた床は現在2重底にしてある。見られて困るようなものはおいてない。
しかしエドはそこで言葉に詰まらせた。
ヨロリラと茶の支度でもしようとしていたアルも、ただならぬ気配を感じて振り返る。
「やあ。久しいね」
そこには、朝の清々しい光を浴びて。
爪を染めた右手を上げて、鷹揚に微笑むご婦人の姿があった。
あり得ないことに、その容貌はよくよく見慣れた知人のもの。そして不必要に豪胆な姉の額に脂汗が浮き上がっているのを見れば。
もしかして、もしかして、もしかしなくても!
Vネックのサマーセーターに、隠しスリットの入ったスカートといった見覚えのないラフな格好をしているけども!
「「ブラットレイ大総統!?」」
エドとアルは声をシンクロさせた。
何でこんなところに!?
左目に走る傷を前に垂らした髪で隠した女性は、姉弟の大声をめっと嗜める。
「今は一介の隠者の身。そう堅苦しい名で呼ばれても困るな」
「…と、マダムは仰せられているのだが」
大佐は星の瞳を困惑に揺らめかせた。その気持ちはよーくわかる。
姉弟も出来れば見なかった振りをしてしまいたい。
「いや、私も君たちに会う予定はなかったのだが。進路方向にマスタング君がいたものでね。……ところでアルフォンス君、バナナは好きかい?」
「あ、どうも…じゃなくて!」
流されてお土産を受け取ってしまったアルはギニャーと頭を掻き毟りたくなる。
元(たぶん)大総統といえば……そりゃ、世界が違うからよくわかんないけど!簡単にこんなところに居てもいい人じゃないのに!
「だってね、マスタング君と目が合ってしまったのだよ? 逃げるしかなかろう?」
姉弟の疑惑の視線を浴びて両腕を組んだ大総統の顔に、怯えに似た表情が走る。
「おりしも隠れ蓑に最適なアームストロング君と会えたのなら。ご一緒させてもらうのが成り行きというものだ」
アルはあの破廉恥美人を思い出す。
(こっちの少将って、ものすごく有能?)
アルの世界の少将も、たしかに爪を隠した鷹だったが……この大総統に恐れられるほどではなかった気がする。
「そう。私が大総統位にあったときでさえ容赦なくセクハラをしてきたのだぞ彼女は。……市井の身になった以上、私も自衛しなくてはならん。今は離れて暮らしていても、夫も子供もいるのでな。不貞はいかんと思うのだよ」
……。
あー。
(節操ないと思ったけど、ここまで節操なかったのかあの人)
なんか元の世界の少将に今すぐ会いたい。無能だの何だの扱き下ろされていたあの人が、もの凄くまとものように思えてきた。
「…それでなんでウチを逃走ルートにするんですか」
こちらの事情に疎いアルとは違って大総統の行動理由を察していたエドは、げんなりと額を押さえている。
「ふむ、簡単な論理だよ。私が逃げたらまずマスタング君は追いかけてくるだろうが、その先にエルリック姉妹がいれば矛先は分散するだろう?」
その俺様理論は女だてらに20年以上、独裁者の地位にあった人間のものだ。
(迷惑な人がここにいますよー!)
しかしそれ以上に迷惑なのは、お世話になったマスタング少将だというこの現実。
(…恩って只じゃあないんだな)
アルはそう実感せざるを得ない。
「いやでも少将は、あれで仕事は真面目らしいし…」
「ふっ。まだまだ甘いな、若すぎる錬金術師くん」
エドのフォローは一言のもと、切り捨てられる。
「ノーブラ・短パン・タンクトップ姿の君を見た瞬間、彼女に理性が残ると思えんね」
大総統は余裕たっぷりに宣言した。
家の中、しかも起きぬけのエドは言われたとおりの格好だ。ちなみにアルは藍染のシャツにジーンズといった素っ気のない服を選んで着替えていた。
仕方のない話だが。どうもアルフォンス(妹)のワードローブはアルフォンス(弟)には眩暈がしそうな可愛らしい洋服ばかりで困る。
朝、服を替えるだけでもアルには莫大なストレスだ。
そんな苦労をしているというのに、エドは『動きにくかろう』とアルの髪をツインテールのお団子に纏めてくれるという親切ぶり。なんだか上機嫌だったりする姉には悪いが、正直なところ、泣けてくる。
(ボク、男だし!そりゃ髪なんて結えないけど!赤いリボンは勘弁してくれてもいいじゃないか!)
この姉はボクが中身弟ってこと本気で理解しているんだろうか。そんな疑惑の種が芽吹く始末だ。
「なーアル。拙いかな?」
大総統の指摘に、エドは自分の胸元を見おろしてシャツを抓んでいる。アルは姉の眼を見ないようにして頷いた。
「ある意味、凄いよね。普通そこまで脱げば、女のひとだって分かると思うのに…痛っ!」
パシ!
怒ったエドに頭を一発叩かれるが、仕方ない。
(その格好は目に楽しいですーなんて正直に言うわけにはいかないじゃないか)
引き締まった二の腕とか、くっきり浮き出た鎖骨とか、なよやかに後れ毛が落ちるうなじとか!
若い男の妄想力をナメてんのかっ!
…そう叫べたらさぞかしスッキリするだろう。しかしそんな馬鹿げた理由で姉の不興を買うのは避けたいものだ。
弟は変態さんと思われたらやはり辛い。
「着替えてくる」
姉さんときたらプンスカ怒る肩なんて、そりゃあ白く滑らかで。……ドキドキするほど可愛いかったりするのだ。困ったことに。
こんな姉さんとひとつ屋根の下で暮らすなんて天国だが、ある意味地獄だ。
(今のボク女の子の身体でよかったのかも…とりあえず間違いだけはおこしようがないし)
アルは心の中で十字を切る。とりあえず何かやらかす前に、早く元の世界に帰ったほうがよさそうだ。
(そのためには、怖いけど)
本っ当に怖いけど、師匠に協力を仰ぐのもやむをえないような……いや、やっぱり逃げ出したい。
懊悩しつつ。アルはふと、遠い世界(推測)の兄を思う。
(そういや兄さん、今頃何してんだろ?)
あっちでも元に戻す術式を必死で組み立ててくれているだろうけど。
やはり苦労をしているのだろうか。
と、言うわけで一方その頃。
昨日のうちにやっつけ仕事を終わらせて、それから文献を漁って夜更かしをした兄は、当然のように休日の朝の惰眠を貪っていた。
「兄さーん。おきてっ。朝ごはんできたよー?」
外界からの刺激に意識は起きつつあるが、いかんせん目が開かない。
太陽の匂いがするベッドの中、優しく揺り起こされる至福の時。
やはり弟と妹ではひと味違う。いつもの弟だったら、兄を起こす手段はジャンピング・ボディ・アタックか、はたまた包まった布団ごと窓に干されるか、そういった容赦なく厳しいものだった。
「んもう!ごはんが冷たくなっちゃうよー?」
……ああ。
(いいなあ、妹)
エドは夢うつつでうっとりした。
まあ、身体はアル(弟)のものだから、やっぱり外見は男だが。なんていうか…甘やかさとか華やぎとか、生活の潤いが段違いだ。
「兄さんったら仕方ないなあ」
ギシリ。
掛かった負荷にベッドが鳴る。
「起きてくれないと、悪戯するよ?」
「うひゃ!」
耳の中にふっと息を吹き込まれ、エドは右耳を押さえて跳ね起きた。
(今、耳たぶ齧らなかったか?)
「おはよう」
思わずまじまじと見詰めると、妹イン弟は悪びれた風もなく朝そのものの笑顔を浮かべている。
昨日こそトイレ行くたびに青い顔していた妹は、すっかり男の身体に慣れたようだ。
それどころか野郎特有の野暮ったさがないぶん、本物の弟よりも幾分か颯爽として見える。
弟には似合わなかった緑色のエプロンさえもチャーミングに着こなしていて。
……はて。
(寝ぼけたか?)
ぼんやりとエドは首を傾げる。
「起きたね? コーヒー淹れるから、すぐ下りてきて」
「…おう」
衝撃が去ると眠気に負け、枕に突っ伏したエドにアルは釘を差す。
「言っとくけど、二度寝に入ったら罰として胸を揉むからね」
……。
堂々とセクハラを宣告されて、エドは先ほどのアレが勘違いではなかったことを知る。
「オレ、男だから胸はないけど…」
いや、そういう問題じゃないから!と頭の中で誰かが突っ込むが、寝起きの頭では対応しきれない。
「そう? でも女の兄さんともサイズはあまり変わらないよ? ん、今日も美人だね兄さん」
ちゅっ。
世界の差といってしまえばそれまでだが、挨拶代わりに送られるフレンチキスにはどうしたものか。
(弟の身体なんだけどなあ)
そこらへんを配慮してもらえると嬉しいが、妹の身体に弟の魂がお邪魔していることを考えると分が悪いのはこちらの方だ。文句を言いいたいのはむしろ妹側であろう。
エドは口を開きかけて、結局噤む。
(……慣れる前に、なんとかしよう)
妹は可愛い。
可愛いが、なんか違う。
ジェンダーのギャップに悩んだエドは、事態が発覚して何度目かの決意をした。
2005,5,7
久々の『不思議の国の〜』更新です。皆さま、きっとお忘れでしょう(笑)。
いえ、本誌の方で大総統がアレなことになる前に書かなくちゃ!…と焦りまして。
今回ちょろりと出てきた妹ちゃん。力いっぱいシスコンかつノーマルで、女焔さんの薫陶も受けている彼女は男(彼氏)は押し倒して獲るものと心得ていそうです。兄さんちょっぴりピンチですが、所詮コメディなのでたぶん貞操は安全でしょう。
それこそ読者さまのご要望がない限りは(鬼)。
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