コート


 木枯らしに冷え切ったエドワードが帰宅したのは夕方遅くのことだった。

「お帰り」
 玄関先まで出迎えたアルフォンスは、兄の薄着に口元だけでひんやり微笑む。
「朝わたした暖かいコートはいったい、どこにお散歩中?」
 兄はちいさな弟の小言に弱い。気まずそうに目を逸らし、ややあってぼそりと答えた。
「……駅の売店近くのゴミ箱の中」
「はあ?!」
 なんだってそんなところに。
「……夕方の汽車が混んでいて」
 しばしの沈黙。…よっぽど言いたくないようだ。
 それは是非聞き出さねば。先を促すと、兄はしぶりながら白状する。
「痴漢にあった」
 うわあ。
 アルは意気込む。
「まさか殺しちゃったとかっ!?」
 コートは何か証拠隠滅に使ったのか。
 でもでも目立つ兄は軍の要職にある身だし、駅なら目撃者も多かろう。
 個人的に性犯罪は極刑にしてもオーケーだと思うが、保身上いささか拙い。
「してない。気がつかなかったんだ…ほんとに、混んでいたし、相手男だし、オレ男だし。なんかやたら擦り付けてくるなあと思ったけど、巾着切りでもなさそうだったし、身動きできなかったし」
 ぼそぼそ呟くエドの顔色は土気色だ。

 混雑した汽車を出て、焦げ茶色のコートに付着した濁った液体がなんであるかやっと察したとき(間違っても牛乳ではない)、エドは昇天しそうになった。
 信じられない。というか信じたくない。おぞましさと恥ずかしさが先に立ち、怒りが湧いたのはだいぶ後だ。その頃には痴漢の姿も消えて、振り上げた拳の先も収まるところがなかった。非常に悔しい。
 夕暮れの街を歩きながら目を吊り上げる男の姿はさぞかし異様だったと思う。

「ヘンなもの付けられたコートはクリーニングしても着れない」
 あー。そりゃあ確かにそうだが。
 よりによって男に痴漢されたのですか兄さん。
 アルは天を仰いだ。
 女の人なら、『兄さん、もてるね』ってからかうこともアリだが、男にされたとあってはその言葉は鋭い刃物だ。
 ショックのあまり嘘も付けなくなっている兄の傷口に塩を塗りこむほど鬼ではなく、代わりに手を伸ばして肩をまわし、背中を数度叩いてやる。
「災難だったね」
 エドのスーツは驚くほど冷えていた。玄関先でする話じゃなかったなと反省する。
「……気持ち悪かった」
 凹んでいる兄の姿は可哀想だが愛おしい。
 胸の位置に兄の頭があるのは久しぶりで懐かしく、同時に新鮮に感じるのは鎧の身体ではないからだろう。
「ねえ、子供みたいだよ兄さん」
「まだ参政権はねえもん」
 仕方ないなあ、と膝を折って抱きついてくる兄の髪をぐしゃぐしゃにする。もっとも素性のいいエドの髪は、髪留めを解けばすぐに落ち着いてしまうが。

 悪くない気分だ。
 アルが生身の身体を取り戻してから、エドは甘え上手になった。
 今まで我慢していたのが切れたのか、それとも生来のたらしの資質が開花したのか。
「ちょっと前まで子供扱いされると怒ったくせにね」
「いいんだよ。お前が子供のうちはオレも子供で。…たったひとつしか違わねえし」
 ……。
 まったく。
 なんでこう、かわいいことを言うんだこの人は。兄はアルのことを可愛い、可愛いと連呼するが、弟は兄のほうがかわいいと思う。…駄目兄弟決定だ。
 誰に迷惑かけるわけでもないことだけが幸いか。
 ふんわり温かくなった気分そのまま、凍えている兄の頬を両手で包む。
「明日、暖かくなったら出かけようか。新しいコートをみつくろってあげる」
 嫌な記憶を払拭できるよう、鮮やかな深緑か、濃い緋色の上着なんてどうだろうか。兄は原色を着こなせる珍しいタイプの人間だからそれらはきっと似合うだろう。
「んじゃ、白いのがいい。アルのは兄ちゃんが買って同じの着る」
 甘ったれな兄は更に甘えたことを言う。
 ちょっと呆れた。
「あのね兄さん。この歳でお揃いっていうのは寒いよ」
「そんなもんか?」
 エドは一般常識が人様とずれている。若くして特殊な環境にいたからというのは、しっかり者の弟を見る限り言い訳でしかないと自覚があった。
「でも昔はおんなじ服よく着せられてなかったか」
 それは成長不良の兄が弟と同じぐらいの背丈だったからだ。賢明な弟は口を噤む。 …おかげで、しょっちゅう双子に間違われたっけ。
「まあ、兄さんがそれでいいならつきあうけど」
 外見の年齢が離れた今なら兄が弟と間違われて暴れることもなし。

 にっこり笑ったアルは兄の大きな手を引いて、夕食の待っているリビングに招き入れた。



 えーと。
 お兄ちゃんろくな目にあってないけど、アル君がいてくれると結構しあわせ。

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