妄想シャンバラ



 眩しい。

 差し込んでくる光の強さで目が覚めた。
「アルフォンス? …やっと目ぇ覚めたか。よく寝てたなあ」
 金色の影が陽を遮った。

(…エドワードさん?)
 額に掛かる髪の毛をやさしく払うその仕草に、ハイデリヒはうっとりとなった。
 願望が出たにしても、いい夢だ。
 いつも寂しげで厭世的な眼差しをしていたこの人が、見たこともないような満ち足りた微笑みを浮かべている。
(良かった。幸せそうだ)
「…帰れたんだね」

 ああ。自分の選択は間違ってなかった。
(あんなに帰りたいと言っていたんだ)
 思い切って、良かった。
 最後に役に立てて良かった。


 でも悔しかったんだよ。エドワードさん。
 エドワードさんの国がどんなに素晴らしくて、今のこの国がどんなに駄目でも、ここはボクの生きている国だ。
 故郷の話を聞かされるたびに、胸がチリリと焦げ付いた。
 ……いつも笑って誤魔化していたけれどね。本当は、殴ってでもその話をやめさせたかったんだ。
 ごめんね。
『まったく、エドワードさんは夢ばかり見て』
 片手片足を失ったのだ。よほど酷い経験をしたのだろう。……聡明なこの人が、空想の国へ逃げ込んでしまうぐらいには。
 ボクはそう、思っていたんだよ。

 ちゃんと現実を見て。
(ボクを見て!)
 見当違いに歯噛みをしていた、ボクはとても愚かだった。
 信じてあげなくて酷いことをした。
 エドワードさんは、空想に逃げても、嘘もついてもいなかった!
 エドワードさんの帰る国は、ちゃんと実在していたのだ。

 あの門の向こう側に。


『この人の未来は、素晴らしいものであるに違いない』
 ボクは今まで出会ってきた人の中でエドワードさんほど無条件に、そんな感想を持った人を知らない。彼の周りには重力が存在していて、林檎が地面に引き寄せられるように物事が集まる。そんな彼がこの現実に諦観を滲ませている姿は、ボクにとっての苦痛だった。
 耐え切れず、恨んでしまったこともある。
 がむしゃらに研究に打ち込んでいたときのエドワードさんなら、良かった。
 後世に名が残るだろう天才と、同世代に生きて親しく交友を結べた。それにボクはささやかな満足を覚え、そのまま死んでいけたのだろう。
 だけどゆるゆると絶望に飲まれていくような、エドワードさんはずるい。

 ボクには絶望に押しつぶされる暇なんてなかった。

(宙へ!)
 ボクの渇望は天上の蒼をしている。
 この道は、ボクの後を誰かが歩いてくれる道だ。
 夜空に憧れない子供などいない。ボクの後ろの誰かは、空に輝く星さえもきっとその手に握ってみせる。
 だからボクの生は無駄じゃない。
(たとえボクの名前は風塵に消えても)
 後からやってくる知らない誰かが、ボクの辿るはずだった道を、いつか切り開いてくれるだろう。
 それはワクワクするような想像じゃないか?

(だけどやっぱり、寂しかったよ)
 許されるなら、共に在りたかった。
 好きな人には好かれたい。
 その欲望は、弱いところでじわりと滲む。
 お願い。名前を呼んで、ボクを見て。
(…帰らないで)
「起きないのか? アルフォンス」
「傍にいて…」

「ああ、ここにいるよ」
 エドワードさんの声は、唇に触れるマイセンの陶器のよう滑らかだ。
(その言葉が聞きたかった)
 なんて、なんて、幸せな夢。

 もう。
「起きたくない…」



 完璧、寝ぼけている。
 とうとう漏れ出した穏やかな寝息に、エドワードは会話を諦めた。
(起きるかと思ったんだけどな)
 ハイデリヒには、話したいことが沢山ある。
 まずはきちんと礼を言って。それから心底、謝って。……あとは一発ぶん殴らなくちゃいけない(けど、それは回復してからだ)。
 エドワードの態度は最悪だったが、ハイデリヒだって相当悪い。
 同居生活していたのに、病気を黙っていたなんて酷すぎる。
 術後の経過は良好とはいえ、銃弾の摘出と周辺細胞の再構築は、弱りきっていたハイデリヒの身体に負荷を掛けた。事件から丸一日経っているのに、ハイデリヒはうとうととした浅い眠りの中にいる。
「どうかね。彼の様子は」
 ハイデリヒはホーエンハイムが偽名で保有していたアパルトマンにひとまず運び込んだ。
 なにせ多事多難だった後の事。休むように言われても、つい覗きに来てしまうエドワードを茶化すように、ホーエンハイムもよく顔を見せた。
「また眠っちまった。なんか、起きてらんねえみてえ」
 エドワードは背の高い男を見上げる。
 怪我の程度だけなら随分酷かった父親だが、あまり心配してない。エドワードを自失させた父親は化物っぷりを発揮して、もうフラフラと歩きまわれるぐらいだ。
「容態は安定したようだが」
 それでも少しは辛いのか、ホーエンハイムはベッドサイドの椅子に腰掛ける。

 ここ数日に出来事は、怒涛のように集中して起きた。
 良いことも、悪いことも沢山あった。

 まず良いことは…捕らわれの身になったエンヴィーを救うために、捨て身の演技を披露したホーエンハイムが、どうやら渦中の彼の信頼を勝ち取ることに成功したらしいこと。
 しかし一先ずは停戦だけだとかで、関係が修復されるのはまだ時間がかかりそうだとか。……ドラゴンの彼に関してはエドワードも心中、複雑なので、特に口を挟んでない。
 これは、なるようにしかならないだろうと腹を括っている。

 この世界では錬金術が使えない。しかし2つ目の良いことは、物事に例外があったこと。
 あの門が両側から開き、世界が繋がっていたひと時だけは、手応えは鈍いものの錬金術が行使できた。
 その場を逃さずホーエンハイムの保有していた賢者の石でエンヴィーの姿を人に戻し、同じく錬金術師3人がかりでハイデリヒの身体を生体錬成した。
 銃弾の摘出と血の生成はアルフォンスが、傷を塞ぐのはエドワードが、そしてハイデリヒの病に気付いたホーエンハイムは胸部の細胞を再構築した(自分はまだ腹から血をドバドバ流しながらだ)。
 思い出したエドワードは少し遠い目になった。
(化物じみた親だとは思っていたが、やっぱり化物だったな)
 ……いや、傍迷惑な父親だが、ことハイデリヒに限っては命の恩人だ。感謝している。

 そのほか殆どは悪いことだ。
 エドワードの生まれた世界は、こちらからの攻撃を受けて大勢の人が死んだ。
 こちらから向こうに行ったものも『真理』に耐え切れず正気を失い、ある者は圧力に潰され、あるいは存在自体が消失した。
 門は開かれるべきではなかったのだ。

 向こうの世界を攻撃したのはトゥーレ教会だが、情報を与えてしまったのはホーエンハイムだ。そしてホーエンハイムが協会に接触したのは、エドワードが向こうに帰りたがったためだった。

『ボクのせいなのかな…?』
 扉を開けた途端に異世界から襲撃されて。悔恨に歪んだのは弟の顔。
 開けてしまった扉の始末はつけなくてはと、あの顔に思った。
 何もしないでいたら、一生後悔をしただろう。
 あっちの世界の業も、こっちの世界の思惑も交わらせたくない。
 自分が生まれた世界はもちろん大事だ。でも、こちらの世界も大切だったと、ハイデリヒにロケットに押し込まれてから遅まきながら気が付いた。

 だから扉を閉めた。それはエドのエゴだ。
 やるせないのは。
 扉が開かれたのは、エド個人にとっては悪いことはなかったことだ。いや、むしろ……。素直に悔いることは、出来ない。

 その一瞬は、何もかも忘れた。
(会えて、嬉しかった)
 ウィンリイ。
 …とても綺麗になっていた。


「考えたのだがね。やはり彼も私と同じく、死んだことにしたほうがいいと思うのだよ」
 そう言うホーエンハイムは髭を剃り、髪もバッサリ切って栗色に染め、モノクルを付けた変装をしている。まるで結婚詐欺師のようだ。
 外見は10ほど若返り、パッとでは同一人物には見えなかった。
「ヘスに撃たれた以上。生きていると知れたら研究の続きどころか、トゥーレ協会は自らの犯罪の痕跡を放っておかないだろう。折角救った命だ、散らさせるのはもったいないからな」
「わかってる。でもアルフォンスには家族もいるんだ」
 エドワードは苦いものを飲み込んだ。
 恐い。
 果たしてハイデリヒはエドワードを許してくれるだろうか。

 エドワードはハイデリヒの命以外の総てを奪ってしまうことになる。
(それでも生きていて欲しい)
 身勝手な心でそう思う。
「…早めに、相談して決めなさい」

 気の重い話に吐息を付き、エドワードは辺りを見回した。
「そうだ、親父。アルは?」
 先ほどまで横で辞書を精読してた弟の姿がいつの間にかない。
「旅支度を整えるって買い物に出たよ。言葉もろくに通じないのに、あの逞しさは誰に似たのかねえ」
 呑気な父親に、息子はぎょっと反発した。
「独りで外に出したのかよ!?」
 右も左もわからぬこの世界に!?
「ノーア嬢も一緒だったが」
「なお悪いわー!」
 このご時世。美人ジプシー女とおのぼりさん丸出しの異界人(外見子供)の組み合わせなんて、ごろつきに絡んでくださいと言っているものだ!
 それでなくてもスネに傷を持つ身だというのに!

「追いかける!」
 肩を怒らせた後姿を、ホーエンハイムは目で追った。

(あんなに恨まれ、憎まれてたのに)

 …もし、あの時死んでいたら。エドワードやアルフォンスが泣いてくれたかもしれない。
 そう思うと、勿体無くて死ねなかった。
 何百年も生きて、まだ命は惜しい。
 その愚かしさにホーエンハイムは片頬だけで哂う。
『はぁ。ウラニウム爆弾なんて別に回収しなくても、どうせこの世界の科学者がそのうち作るさ』
『親父も!きちんと!責任取れ!』
『兄さんっ。父さんも怪我人だからっ!あっ。あっ。…魂の尾が!』
 元気な上の子に鉄拳制裁で怒られて、気立てのいい下の子に助けられるのは、とても素適なことだった。
 この状況を捨てるのは、あまりに勿体無い。

 あの子達と、まだしばらく一緒にいられるなら。
「責任、取っちゃってもいいかなあ」
 退屈だけはしないだろうし。

 ホーエンハイムはぼそりと呟く。
 その横で幸せだった夢が、突如として悪夢に擦り変わったハイデリヒは脂汗を掻いて低く呻いた。





2005,7,28

 生き残らせてみたよエルリック一家。ハイデリヒさん付き。
 ここまでやらんでもいいだろ自分と思いましたが、身体が糖分を求めていたようです。

 この後の予定としては、怪我人チームは静養を兼ねてパパの秘密基地で待機。兄弟とノーアちゃんは、とりあえず情報収集に出たみたいですね(映画エンディング)。
 ……しかしパパと一緒でお留守番なんて。
 ハイデリヒさん生き残ったほうが不幸なんて、チラと思ってしまったら負けですか。


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