Sweet days



 セントラル大学の門を初めて潜ったのは、妹の入学式以来2度目だった。
 研究所に缶詰になって早10日。久しぶりに踏む土の感触は、ゆったりとした眠気を誘う。
 木漏れ日の眩しさにエドワードは左手で日陰を作った。
 待ち合わせは本を抱えるライオン像の下だが、相手を探す必要は無かった。
 大人に囲まれている子供の姿はことのほか目立つ。
 視線の先にはアルフォンス・エルリック。エドのただ一人の妹だ。
 エドはまだ充分すぎるほど若く、振り返るほどの年輪など重ねていないはずなのだが、奇妙に懐かしい光景だ。
 アルフォンスは教生たちにからかわれて、盛大な膨れっ面を晒している。実際の年齢以上にしっかり者の妹でも、そんな顔は10歳の少女めいてあどけない。
 エドはふと口の端を弛めた。
 小柄なアルに話しかけている大人たちはそろって猫背になっている。
 微笑ましい光景だ。
(可愛がられてるんだな)
 自慢の妹だ。こと人付き合いに関して心配していないが、大切にされていると知って嬉しい気持ちは別のもの。エドは声を掛けるのを止めて、話が終わるまで待とうとした。
 秋の陽が落ちきるには時間があるし、大学でのエドは部外者だ。アルの邪魔はしたくない。
 しかしその配慮は未遂に終わった。

「兄さん!」
 パッと振り向いた眼差しは正確にエドを捉え、ためらいもなしに駆けてくる。
 スカートのフレアが広がり花のようだ。
 柔らかく天使の輪を描いたイチョウ色の髪の毛は、深い緑の上着に良く映える。
「ごめん、お待たせ」
「なんだ、もういいのか」
 別れの挨拶もなしに、というのは礼儀正しいアルにしては珍しい。
「いいよ。みんな好き勝手言うんだから!」
 拳を握り、ぷくぷくほっぺを膨らませて憤慨する少女は、身びいきなしに愛くるしい。
(つつき回される筈だ)
 苦笑して『アルをよろしくお願いします』と、こちらを見ているアルの級友たちに目礼する。すると『おおっ』と低いざわめきが走った。
 ……なんだ?
 エドは冷や汗を隠して表情をそのままキープする。
 鋼の錬金術師の悪名は、こんなところでも高いのか。…脳裏に走った過去のやんちゃの数々に、身を慎もうと反省する。
「…兄さん、あいつらに挨拶なんてしなくていいから」
 珍しい乱雑な口調で切り捨てられ、笑顔の影でちょっと凹む。
(な、なんだ、随分仲良しなんだな。アルの世界が広がるのはいいことだけど。ちょっと、淋しい、かも)
 アルは兄の袖を掴み、早足に引っ張っていく。
「挨拶するなっ…て。いくら兄ちゃんだってお前の友達には悪く思われたくないぞ」
 かわいい、かわいい妹だ。不出来な兄のために肩身の狭さを味わうのだったらエドとて辛い。
「この際、少しくらい悪く思われてもいいよもう」
 アルは小さく溜め息を付いた。
 兄はこの歳にして幾つもの物語の主人公だ。アルも大学に入ってから知ったのだが、特に同世代から若年層にかけては憧れの君のようで。
 兄に挨拶された級友たちなど、完璧に舞い上がってしまっている。
(兄さん派手だからなぁ)
 エドワード氏を紹介して欲しいコールを総て叩き落しているアルは後日のフォローを思うと気が重い。
「そういや今日は随分、おめかしなんだね」
 兄に見慣れていない級友たちがどよめくのも無理はない。家ではくつろいだ姿がもっぱらだが、対外用に身づくろいした兄はそりゃあ見栄えがするのだ。
「ん、ああ。大学に軍服で来るわけにもいかないだろ? 研究所に置いてある着替えの中でコレが一番まともだったから」
 エドはシャツの襟を抓む。
 光を弾く金髪だけでもきらきらしいのに、シャツとジャケットで濃淡を出した葡萄色の組み合わせは兄の容貌を引き立てる。いや、それが悪いというわけではない。兄がうつくしく装うのはアルも好きだ。
 しかしどうせめかしこむなら、別の服でもいいんじゃないかと思う。
「格好いいけど。同じスーツならスカートがいいな」

 ふたりが旅立ちを決めたあの日、姉はごく自然に女性であることを切り捨ててしまった。そう、あの時から姉は一度も女の子に『見間違われた』ことはない。
 もともと快活すぎる、それでも確かに少女だったエドワードは、どこに消えてしまったのだろう。
 ちんくしゃとの呼び名を返上してすらりと背の伸びた姉は、誰もが見惚れる青年ぶりだが、アルは返ってそれが切ない。

「オレに女装は似合わないよ」
 妹のおねだりに目を開いた兄はややあって首を傾げた。
「じょ…って、兄さんあのね」
「軍の仮装コンテストの時、飛び入りでドレス着せられたけど、めちゃめちゃ笑いを取ったぜオレ」
 アルはピキンと固まった。
「…………」
「アルー? 眉間にシワ。母さん譲りの美人がもったいないぞ?」
「軍人って、どこに目えつけてるんだろうね」
 知らなかった事件の衝撃を、アルはようやくやり過ごす。
 おのれ軍部。
 人の姉にドレスを着せておいて、見惚れるならいざ知らず笑い物にするとは何事だ。そりゃあエドの目は意志が反映して女の持ち物じゃないし、性格は瞬間湯沸かし器で乱暴者だし、胸に成長期はこないまま(あまつさえそのまま終わってしまいそう)だが!顔のつくりを見れば分かるだろう。こんな滑らかな頬をした十代の青年がいるはずもない。
「兄さんはねっ、女性なの!綺麗なの!もう…どうせわざと笑いを取るよう振舞ったんでしょう!」
 アルの静かな迫力に、エドは一歩後ろに下がる。
「いや、特になにもしてないし…兄ちゃんはアルのほうが100倍かわいーと」
 それはエドの本心だったが、きつく睨みつけられて言葉が尻つぼみになる。ふと、何かに気を取られていたのもあるだろう。
「ね・え・さ・ん!」
「…その呼び方は止せって、変態になった気がする。……まあ、いいからちょっと座れ」
 大学の構内は緑が多い。
 学生や市民が散策できるように、随所にベンチも設置されている。適当な場所に腰掛けてエドはアルを手招いた。
「なに?」
 エドが鞄から取り出したのは白っぽい粉末と貰い物っぽいミニブーケ。
 どの色がいい? と聞かれて黄色を指差すと、エドは茎を千切って花と葉だけを粉末の上に乗せた。
「手を出して」
 何をするんだろう。わくわくする。怒っていたはずなのに、兄の楽しげな様子にはいつも釣られてしまう。
 パン!
 エドが両手を打ち合わせる。
 淡い練成光が兄の上半身を輝かせた。そしてひんやりとした感触のものがアルの両手に落とされる。
 手に馴染む大きさの丸く平べったい形をした水晶は、薔薇を中に閉じ込めていた。
「うわぁ、きれー」
 日に翳すと薔薇が黄金に輝く。
「でもなんで文鎮なの?」
 アルは滑らかな表面の水晶をためすがえすした。
 指先が練成反応の残滓を辿る。
 アルも錬金術師であるからして、美観よりもそっちに興味を引かれた。
 中に封じた生花を傷めずに、珪酸から水晶を練成した兄の技量に感心する。もっとも珪酸は髪や肌に含まれるコラーゲンを生成するときに重要な人体の必須ミネラルのひとつだからして、人体練成を成し遂げた兄にとっては技術の応用だろうが。凄いことに変わりはない。
「文鎮……。いや文鎮にしてもいいけど、それ一応ハンドクーラーだから」
「ハンドクーラー?」
 アルも知識としては知っている。
 異性とのダンスに緊張して汗をかかないようにと、手のひらを冷やすハンドクーラーは古き良き淑女の持ち物だ。
 手を取って踊るのに、掌に汗を掻いているのはエレガントではないからだろう。
「お前、今度の学園祭で豊穣の女神をやるんだって? 社交界デビュタントにプレゼント」
 どこで聞いたんですか兄さん。なんて早耳。
 アルは額を押さえる。
「デビュタントねぇ。僕は御輿だから一曲は踊らないといけないだろーけど、どうせ話題づくりだよ。みんな子供が珍しいんだ。セントラル大、歴代最年少の女神だーってそれだけで押されたもの」
(実際に、みんなに思われているほど年下じゃないのになあ…言えないけど)
 どうもズルしたようで気が重い。
 それに『豊穣』の女神だったらスタンダートにボンキュッの大人の女性が相応しいし、足首まであるドレスなど、子供の外見の自分が着るのは違和感がある。
 先ほど仮縫いをしてきたが、鏡に映る自分は服に着られているような印象が拭えなかった。
「僕には、まだドレスは早いのにね」
「そうか? 俺はようやくって気がするけどなあ。本当は14ぐらいにファーストドレスを着せてやりたかったし」
 晴れの日に髪を結い上げ、紅を差し。
 踵の高い靴を履いて、少女たちは淑女になる。
 故郷と形は違っても、どこの土地にも似たような習慣あった。旅先で着飾った同じ年頃の女性を見掛けるたびに妹は何を感じたか(……鎧の姿で)。
 逆境を軽やかに歩いた妹は愚痴もこぼしはしなかったから、エドは推測するしかなかったけど。
 思うところが何もなかったら、やはりそれは嘘だろう。
「学園祭、見に行くよ。楽しみにしてる」
 微笑む兄は嬉しそうで、アルは言葉に詰まった。
 大抵の人間は自分のことでいっぱいだ。苦しいときは尚更だろう。
 あの波乱万丈な旅の中で(そして今も)兄はどれだけアルのことを思ってくれたか。そのことを知るたびに沸きあがる喜びは、棘の痛みのよう官能的に甘い。
(時々、ものすごーく的外れだったけどね)
 手の中のひんやりとした水晶を握り締める。

「……ありがとう」
 本当はもっといっぱいありがとうを言いたかったが、それは兄を困らせてしまう。  精一杯の笑顔の返事は、髪をくしゃくしゃにされることだった。


 思い出すのは、半月前の兄の顔。
 あんなに喜んでくれたのに。

「誰だ、こんなことをしたの!」
「……酷い」
 学園祭当日。講堂の一室は重苦しい雰囲気に包まれていた。
 皆の視線の先にあるのは、アルが着るはずだった薄桃色のドレスの成れの果てだ。
 たっぷりしたドレープも、繊細なレースの袖も、見る影もなく焼け爛れていた。薬物を掛けられたのだろう。つんとした薬品臭が漂っている。
「どうする? もう時間がないよ……」
 皆がそれぞれに寝不足で回らない頭を抱え込む。
 現在朝の8時半。10時には開場予定だ。
 アルはきゅっと唇を噛む。
 折角、皆が作ってくれたのに。
 女神のドレスは学生の手によるものが伝統とかで、縫製などしたことないクラスメイトたちは連日夜遅くまで製作に取り組んでいた。
(なんか、腹が立ってきた)
 プロの手による洗練されたものとは違うが、作り手の思い入れの深さは負けていないというのに。

 アルは目立つ。
 10歳という年齢で国の最高学府に入学を許可されたということも異例だが、なによりエルリック兄妹の片翼だ。どこに行っても視線を浴びる。
 しかし謂われもない悪意に晒されて、これも有名税と達観するにはアルも人間が出来てない。
「アル?」
「こんなことになって、ごめん。嫌だよな、こんなの」
 よりガッカリしているのはお針子さんをしていた人たちなのに、気遣われてしまった。
 どんな顔をしていたのか。ポーカーフェイスが出来ない自分に赤面する。
(…ああ、でも元気でたな)
「決めた!…みんな協力してね?」
 ちゃんと女神らしいドレスをまとって、ステージの上に立ってやろうではないか。
 誰がやったか知らないが、ざまあみろ。売られた喧嘩は5倍で買う。それが師匠直伝エルリック家の掟だ。
「え、なに」
「余っている布ある?」
「親衛隊のコサージュを作った緑の布ならあるけど、巻きつけるにもバラバラに切っちゃってあるわよ」
 女王を擁する男性陣の衣装の布を指し示され、アルは丹念に確かめた。
 うん、いける。
「上出来だよ。幸い僕は小さいし、裏技を使うから」
「裏技?」
「むしろ僕には本業だけど」
 アルは不敵に笑って、両手を合わせた。


 セントラル大の学園祭は女神の祝福と共に始まる。
 開場を今か今かと待ちわびる人波は舗装された広場をはみ出して、芝生の上まで広がっていた。
「へえ、今年の『女神』はアルフォンス・エルリックか」
 彼女を片手にぶら下げて、プログラムを見ていた青年はひとりごちた。
「なあに、有名人なの?」
「今年の主席入学者さ。うん、見れば君も驚くと思うよ」
「あっ!始まるみたい!」
 晴れ渡った秋の空に、真綿のような花火が上がる。

 トランペット隊が高らかに鳴り響かせるのは、はじまりの刻を告げるファンファーレ。

 逞しい衛兵の肩に乗って、小さな女神は登場した。
 髪は結わず肩に流し、身を飾る宝石を持たない裸足の女神は、ガラス製の甕を携えている。
 女神を守る衛兵隊と対揃えのミニドレスは深緑。
 肩や二の腕、背中を晒した悩殺的なデザインだが、年の若い少女の清潔感はそれを感じさせない。
 観客の視線に女神が片手を挙げて応えると、爆発的な歓声が広がる。
 簡易ステージの上に登った女神は、重力を感じさせない動きで衛兵の肩から飛び降りる。
 女神がマイクを握ると、誰もが自然に口を噤む。それが礼儀というものだ。
『今日の善き日に皆様と会えた事を嬉しく思います』
 鈴を振るような少女の声は、一撃で観客を魅了する。
『祝福を!』
 女神は両手を軽く合わせ、腕に抱えた甕を一振りした。
 甕から零れ落ちるのは七色の虹。
 ステージの上に、裸足の女神の足元に、幻想的な光が跳ねる。
『豊穣祭の開始を、宣言します!』
 どうっ!
 歓声はステージを揺るがした。


「ステージ濡らしちゃった」
 楽屋まで駆け下りてきたアルは、小さく舌を出した。
「オーケー、オーケー!大丈夫!」
「アルが錬金術使ったのはじめて見たよ!」
「そうよ。あんなことできるなら最初からプログラム組んだのに!」
 ストップ。  アルは周りの勢いに待ったを掛けた。
「えっとね。普通に学生している分には、錬金術は必要ないですよ?」
「でも……」
 アルは余り布で手っ取り早く作ったドレスを見下ろした。ほんの少し物悲しくなる。
「流石にこの格好じゃ、貫禄ないし。折角みんなで頑張ってきたのに失敗するの嫌だったから、盛り上げるのに使っちゃっいましたけど。あのドレスを着られればこんな見世物はしませんでしたよ、ボク」
「もったいない……」
 沈黙の後、溜め息混じりの呟きが漏れた。
 話を変えるべく、アルは斜め後ろを振り向いた。
「……あ、そういや委員長。彼と連絡取れました?」
 彼とはアルのドレスを破いてくれた腐れ外道だ。
 犯行には気を使ったようだが、コレだけの人数の隙を突いてというのは難しいようで、目撃者を探し出すのは容易かった。
 委員長はにやりと笑う。
「音楽堂で待ってると言付け承った」
「さすが委員長。仕事が速い」
 アルは手を叩いて褒め称える。
「姫君にはお褒めを預かり。その栄誉に浴して、いっしょに行ってもいいか?」
 アルはドレスの上にシャツを羽織り、サンダルを引っ掛けた。
「駄目ですよ。みんなはプログラム回すの忙しいですよね? パレードまでには片を付けてくるから待っててください」
 眉を寄せるクラスメイトたちの肩を叩く。
「大丈夫、『話し合い』をしてくるだけですから、ね?」
 クラスメイトたちはアルの後姿を見送ってしまう。
 一度言い出したら聞かないのだ、あの子は。
「まあ、アルはしっかりしているし」
「でも間違って暴力とか振るわれたら……」
 ……。
 アルに委員長と呼ばれた男は、紙縒りとペンでクジを作った。
「こっそり、後をつければよかろう。ナイト役に誰が当たっても恨みっこなしだぞ」


 音楽堂は古い建物だ。
 崩壊を懸念されて、もう何年も使われてない。ただ古い建築ともあって愛着するものも多く、取り壊しには至ってないのが実情だ。
 したがって人で賑わうこんな日も音楽堂の周辺は、ひっそり静まり返っている。
「なんでこんなことをしたんですか? ボクにも見逃せないこともあります」
 折りに触れて繰り返される嫌がらせは、ささやかなものだった。
 だからアルは大して気に止めていなかったが、今回のはやりすぎだ。

「どうして? 君のようなセントラル大きっての天才少女にもわからないことがあるんだな」
 天井の高いホールに男の声が陰々と響いた。
 講義慣れした声は美声と言えなくない。精神の失調を感じさせる声音にさえ、目を瞑ればだが。
「ボクは天才じゃありませんよ」
 アルは困って眉を下げた。
「謙遜もおこがましいなアルフォンス・エルリック。どこの教室も君を欲しがって引っ張り凧だというではないか。現に君が出した量子力学のレポート。あれは見事だった」
 紛失したレポートは、やはり彼の仕業だったか。わざとらしく溜め息を付く。
「あれも貴方の仕業でしたか。…暇なんですね」
 男はくくくと低く呻いた。いや、笑ったか。
「お前に何がわかる!若く!うつくしく!世の中のすべての幸運を与えられ!常人がどれだけ研鑽しても手の届かない高みにいるお前などに!」
 それが理由か。アルは一瞬、目を伏せる。
 人間が逃れられない原罪のひとつ『嫉妬』。
 年老いた男の姿は醜く、哀れだった。アルは忘れないよう心に刻む。
(彼は、もしかしたらなったかもしれない自分の姿だ)
「褒めてくださって有り難う御座います。助教授。でも、先ほど言いましたでしょう? ボクは天才じゃないんです。この身に付けた知識は、すべて努力の賜物です。罵られる理由はひとつもありません」
「なにを…」
「ボクはエドワード・エルリックの妹です。助教授、貴方は本物の天才をご存じない」
 爛々と光る金色の目に男は一歩、後じさった。
「ボクは、真の天才を知っています。生まれた時から傍にいましたから。そして傍に居続けるために努力をしています。……貴方は何をしましたか?」
 たとえ自分が何も出来ない少女でも、兄は愛してくれただろう。しかしそれは、アルの矜持が許さない。
 兄の傍で誇り高くいるために、払った努力という名の『代価』で現在のアルを作られている。これも『等価交換』だ。
「私だって、何もしなかったわけではない!」
 男は哀れだ。セントラル大の助教授ともなれば、むしろ人の羨む立場だろう。それなのにこんな小娘相手の嫉妬からも逃られないのか。……なるほど原罪とはよく言ったものだ。
 こんなにも人は弱く出来ている。
 アルはシャツのポケットに入れておいたハンドクーラーをそっと握った。
「だからボクに嫌がらせを? 弱者に当たるのはセオリーですしね」
 わかりやすいストレス解消法だ。アルは一見か弱そうに見える。
 でもドレスはやりすぎだった。アルひとりの問題ではない。
(学識が高いのと、人間性の善し悪しは別問題なんだなあ)
 縫製に携わった人や、学園祭を成功させようと奔走している人の気持ちも踏みにじったことに気が付いて踏み切ったのであれば、教育者としては失格だと思う。
「でもね、助教授。殴られたら、痛いんですよ? 例え殴ったほうは忘れても、やられたほうは覚えてます」

 それにアルがこんな嫌がらせを受けていると、もし兄が知ったら。
(大学が半壊する)
 冗談ではない。アルは怖い想像を追い払った。さっさと自分でケジメをつけておくに限る。
「あと誤解をしているようですが…僕は弱くありません」
 両手を合わせ、地面に手を付いた。
 錬成光と共に一振りの刀が現れる。
「なにを…する気だ」
 アルは大学では滅多に錬金術を使わない。だからと言ってアルが錬金術師だと本当に知らなかったはずはない。なにせアルはアルフォンス・エルリック。エルリック兄妹の片割れなのだから。
 それとも攻撃には使わないと高をくくっていたのか。
(当たりだけど)
 銃や剣を向けられたわけでもなし。
「これは貴方が使ってください。ハンデです」
「あ?」
「今からボクは貴方をぶちのめしますんで。全力で反撃してくださいね。でないと心が痛むので」
 アルは花のような笑顔を浮かべた。


「鮮やかな手並みだな。アルフォンス・エルリック」
「委員長、見てたんですが」
 音楽堂の扉の前に仁王立ちして逆光を背負い、腕組みした男は感慨深げに頷いた。
「ああ、素晴らしかった。敵に一撃もダメージを与えることなく恐怖のあまり気絶させるとは!生半可なことではない」
「やりすぎちゃいましたか?」
 ちら、と振り返った音楽堂は闇に包まれている。一応、壊したところは直しておいたのだけれども。
「お仕置きでは適当だろう。助教授が訴える事はないだろうが、もしそのときは我が教室は全力を持って貴君の援護に当たろう。うはははははは、いい気味だ!」
「……ど、どうも」
 テンションの高さにアルは引きそうになった。委員長は恐ろしいほどの上機嫌だ。

「しかしだな。僕は錬金術に詳しくないが、それでも一流の仕事はわかるつもりだ。君はどうして大学に来たのだ? 学ぼうにも錬金術に関しては教授陣より君の技量に軍配が上がるよう見えるが」
 嫌味ではなく、純粋に不思議そうに尋ねられて頬を掻く。
「ええっと。自分の世界を確立したいなあって思って」
 迷惑を掛けた手前もあるし。
 アルは迷いつつも口を開いた。
「自分の世界?」
「何て言ったらいいんでしょう。ええと、ボクには生まれた時から兄がいました。そして同じ環境で育って、同じ事に興味を持ち、同じ師について学びました」
「ふむ」
「兄は素晴らしく錬金術の才能があったので。理解の手法。分解の理。再構築の技術。果ては研究する専門分野の選択まで…ボクはとても影響されたと思います。それが嫌だというわけではありません。むしろボクは幸運でした。……でもずっとそのままでは学問においては兄の庇護下に居ることになります」
「それはいけないことなのか?」
 委員長は興味深げに目を細める。
 アルはまっすぐ首肯した。
「駄目です。同じアプローチをするんだったら明らかに兄のほうが優れている。ボクは兄と対等になりたい、重荷になるのはご免です。そのためには兄とは違った経験を積んで、多角的な視線を養いたいなあって…………あー。何を言っているんでしょうねボクは。支離滅裂だ」
 あーうー。唸ったアルは屈み込んで頭を掻き毟った。なんか…猛烈に恥ずかしい。
 余計なことまで言ってしまった気がする。…自爆だ。
「頬が赤いぞ、アル。ははは道理で助教授のような人と馬が合わないわけだ」
「……ほっといて下さい」
「いや、想像以上にプライドが高いな君は。なるほど、だったら君の選択は正解だ。大学という社会は特異でな、世俗に汚れぬ青臭さい理念が横行する場所だ。だからこそ僕は愛しいと思うのだが」
 委員長が差し出したのは友愛の右手。アルはふと気が付いた。
(この格好になってから会った人では、はじめて子ども扱いされなかったな)
 昔は子ども扱いされるのが嬉しかったが、今は同じ視線で扱われるのがとても嬉しい。
 これも成長した証だろうか。そうであるならいいけれど。
「この土壌から君がどんな花を咲かすのか、僕はとても楽しみにしている」
「…はい」
 アルはきつく手を握り返した。


 夕闇の帳が空を覆い星が夜を飾る頃には、広場はダンス会場と化した。
 音楽隊は疲れも見せず、ひたすら陽気なメロディーを奏でる。
 ひたすら忙しかった一日にアルは小休止を決め込み、ベンチで足をぶらつかせた。
「よう女神!兄ちゃんが来てるぜ!」
「本当?!」
 掛けられた声に立ち上がった。わざわざ探してくれたのだろうか。グッジョブ!と親指を立てられる。
「ライオン像のほう行ってみな、凄い美人と一緒だったぜ」
「ありがとう!」
 もう何曲踊ったか分からない。
 保護テープは巻いたものの、踵の高さに靴擦れしたアルはひょこひょこした足取りで人波を掻き分けた。
「女神さん、俺と踊ってくれないか?」
 唐突に目の前に花束が差し出される。
「ごめん、人を探しているんだ。それに足が限界で」
「ああ、そりゃあ残念だ」
 バイバイと手を振る男は赤鼻のピエロ。
 軽快な音楽に乗せて踊るは準紳士に、準淑女。ネクタイなんか横を向き、エプロンの裾が翻る。
 目に入った金の髪に、アルは大きな声を出した。
「兄さん!それにリザさんも!」
 来てくれたんだ。てっきりもう、今日は駄目だと思っていたのに!
「おう。間に合わねえかとヒヤヒヤした。そのドレス、すごい可愛いな!」
「本当に、よく似合っているわアルフォンス君。妖精みたいね」
 口々に誉めそやされてえへへと照れる。
「リザさんも私服、素適です。兄さんも見習えばいいのに」
 リザは仕事に忙殺される兄を引っ張り出してくれたのだろう。エドの仕事を抜けてきましたという格好からして、その想像は容易い。
 襟の高いブラウスに、枯れ草色のスカーフが大人の女性の魅力だけど、それだけじゃなくて…ああ、素適だなあとしみじみ思う。
「…悪かった。遅れたのは本当に悪かった。だからことあるごとにソレを蒸し返すのはやめてくれ」
 エドは口をへの字に曲げる。

 微笑ましい兄妹喧嘩は、いつも兄の分が悪い。耳を済ませていたリザは音楽が変わったので提案した。
「ラストダンスが始まるようよ。折角だから踊ってきたら?」
「でもボクこの靴履いて踊るのは、結構辛いかも」
「あー。そんな窮屈なもの脱いじまえ」
 ぽんぽんと靴を投げ出すと、すっきり足は生き返った。
「じゃあ、靴は私が預かるわ。いってらっしゃい」
「えっ。でもリザさんは?」
「今日はアルフォンス君の艶姿を見に来たんですもの。ここで楽しませてもらうわ」
 柔らかな笑顔に背中を押され、兄妹はダンスの輪に加わった。

 兄の衣装はお仕着せのカッターシャツに色気のないスラックス。
 妹のドレスは引きずる裾も付いていない。折角貰ったハンドクーラーも使わずシャツのポッケに入れたまま。
 ああ。予定とは、まったくもって大違い。それでも周囲の観客は、彼らに場所を譲って退いた。
「もう兄さん、なんで男性パートそんなに上手いの…」
「言うな。オレも悲しくなってきた」
 妹はいささか呆れ気味だ。それでも浮かんでくるのは楽しげな笑顔。まさしく値千金の微笑みだった。
 見目麗しい兄妹を眺め、感嘆する観客に2人の会話が聞こえないのは幸いというもの。
 広場の夜空を彩るカンテラは無数に輝き、兄妹の髪に宝冠を乗せる。

 秋の夜の扉は音楽と共に閉められていった。




 2004,8,7 up
 サーチに登録したのでワシワシ書いてみたり。



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