ちょっと怖い遠野物語。

柳田国男の「遠野物語」には119の物語が実に簡潔にまとめられている。
でも、遠野を訪れて耳にしたり目にしたりする話はだいたい決まっていて、昔話らしい、ほのぼのとしてのどかでちょっと不思議な話、というのが通例パターンとなっている。ところが、ね。実際は遠野物語って暗くて怖い話も結構あるのよ。それをいくつかピックアップ。

11:
この女というは、母一人子一人の家なりしに、
嫁と姑の仲悪しくなり、嫁はしばしば親里へ行きて帰り来ざることあり。

その日は嫁は家にありて打ち伏しておりしに、
昼の頃になり突然と倅(せがれ)の言うには、
ガガはとても生かしてはおかれぬ、今日はきっと殺すべしとて、
大なる草刈ガマを取り出し、ごしごしと磨ぎ(とぎ)始めたり。
そのありさまさらに戯言とも見えざれば、
母はさまざまに事を分けて詫び(わび)たれども少しも聴かず。
嫁も起き出でて泣きながらいさめたれど、露したがう色もなく、
やがては母が逃れ出でんとする様子あるを見て、
前後の戸口をことごとく閉ざしたり。
便所に行きたしと言えば、おのれ自ら外より便器を持ち来たりて、
これへせよと言う。

夕方にもなりしかば母もついにあきらめて、
大なる囲炉裏のかたわらにうずくまりただ泣きていたり。
倅はよくよく磨ぎたる大ガマを手にして近寄り来たり、
まず左の肩口をめがけて薙ぐ(なぐ)ようにすれば、
カマの刃先、炉の上の火棚に引っかかりてよく斬れず。
その時に母は深山の奥にて弥之助が聞きつけしようなる叫び声をたてたり。
二度目には右の肩より斬り下げたるが、これにても尚死に絶えずしてあるところへ、
里人ら驚きて馳せつけ倅を取り押さえ直に警察官を呼びて渡したり。
警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。
母親は男が捕えられ引き立てられて行くを見て、滝のように血の流るる中より、
おのれは恨みも抱かずに死ぬるなれば、孫四郎は許したまわれと言う。
これを聞きて心を動かさぬ者はなかりき。
孫四郎は途中にてもそのカマを振り上げて巡査を追廻しなどせしが、
狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里にあり。

79:
長蔵、代々田尻家の奉公人にて、その妻と共に仕えてありき。
若き頃夜遊びに出で、まだ宵のうちに帰り来たり、
門の口より入りしに、洞前(ほらまえ)に立てる人影あり。
懐手(ふところで)をして筒袖(つつそで)の袖口を垂れ、
顔はぼうとしてよく見えず。
妻は名をおつねといえり。
おつねの所へ来たるヨバヒト(=夜這いに来た男)ではないかと思い、
つかつかと近寄りしに、裏の方へは逃げずして、返って右手の玄関の方へ寄る故、
人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、なお進みたるに、懐手のまま後ずさりして、
玄関の戸の三寸ばかりあきたるところより、すっと内に入りたり。
されど長蔵はなお不思議とも思わず、
その戸の隙に手を差し入れて中を探らんとせしに、中の障子は正しく閉ざしてあり。

ここに初めて恐ろしくなり、少し引き下がらんとして上を見れば、
今の男玄関の雲壁にひたとつきて我を見下ろす如く、
その首は低く垂れてわが頭に触るるばかりにて、
その眼の玉は尺余りも、抜け出でてあるように思われたりという。
この時はただ恐ろしかりしのみにて、何事の前兆にてもあらざりき。

90:
松崎村に天狗森という山あり。その麓なる桑畑にて村の若者何某という者、
働きていたりしに、しきりに眠くなりたれば、しばらく畑の畔(くろ)に腰掛けて
居眠りせんとせしに、極めて大なる男の顔は真っ赤なるが出で来たれり。
若者は気軽にて平生相撲などの好きなる男なれば、
この見慣れぬ大男が立ちはだかりて上より見下ろすようなるを面憎く思い、
思わず立ち上がりてお前はどこから来たかと問うに、何の答えもせざれば、
一つ突き飛ばしてやらんと思い、力自慢のまま飛び掛り手を掛けたりと思うや否や、
かえりて自分の方が飛ばされて気を失いたり。
夕方に正気づきてみれば無論その大男はおらず。
家に帰りてのち人にこの事を話したり。

その秋のことなり。
早池峰の腰へ村人大勢と共に馬を曳きて萩を刈りに行き、
さて帰らんとする頃になりてこの男のみ姿見えず。
一同驚きて尋ねたれば、
深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死していたりという。
今より2、30年前のことにて、この時のことを良く知れる老人今も存在せり。
天狗森には天狗多くいるということは昔より人の知るところなり。