鼻緒。


「もう、ホント胸にじぃんてきちゃった!」

2時間目の終わりの休み時間、私とモモはベランダに出て、
校庭を眺めながら林檎ジュースを飲んでいた。
次の時間に体育で野球をやるクラスが、せっせと準備しているのが見える。

「無言で切れた鼻緒を直す、その色気が素敵なのよ。」

『たけくらべ』、の話だ。
モモは最近日本の文学作品に凝っていて、
この間は川端康成『古都』について、
出てくる女がどいつもこいつもヤマトナデシコすぎて気に入らない、とボヤいていた。
「これだから古い男は嫌なのよ、紋切り型な女しか登場させないんだから」
そう言い切った彼女は、ならば女性作家の作品を、と、樋口一葉に目をつけたようだ。
作品中で、女の子の切れた鼻緒を直す男の子の姿にすっかり魅了されたらしい。

「ああいう瞬間に、純な恋が生まれるのよねぇ…いいなぁいいなぁ。」

そろそろ寒い季節なので、モモなりに人恋しく、ロマンスのひとつでも欲しいのだろう。
高すぎる理想をもうちょい現実的にランクダウンさせればすぐ彼氏なんてできるよ、
と、いつも私はモモに言うのだが、てんで聞く耳を持ってくれない。

「やっぱりね、何でもそうだけど、はじまりって大事よね。」

モモは、ハッキリ言ってかわいい。
ぱっちりした黒目がちの瞳に、天然カールの上向きまつげ。
色も白いしスタイルもいいし、笑うと右のほほに片えくぼができる。
けれど、自分の素材の良さを全く自覚していないモモは、
端から見ていると勿体無いくらい、それらの逸材に手を加えない。
基本的に夢見がちなので、誰かに想われていてもその現実に気がつかない。

「普段距離のある男の子と女の子が、
そういった小さなきっかけで、ぐん、と距離を縮めて、そこで歯車が動き出すんだよ。
その小さなきっかけとして、鼻緒が切れるなんて最高じゃない。」

じゃああんたも下駄でも履けば、と笑いながら言ったら、
モモは真面目な面持ちで、
「それも考えたの。でも、いつ鼻緒が切れるか分からないでしょ?
2年も3年もずっと切れなかったらどうしようかと思って、まだ買ってはいないのよね。」
と答えた。

「とにかく、小さなきっかけが大事なの。ああ、この上履き、破けたりしないかなぁ。」

上履きが破けても男の子は直せないだろう、と思ったけど、
夢を口にする分には私が水を差すこともなかろう、と黙っていた。

その時、ベランダに通じるドアがカチャリと開いて、同じクラスのスヌーピー君が顔を覗かせた。
彼は新学期が始まったばかりのころ、
うっかり妹のお弁当箱を間違って持ってきてしまい、
そのお弁当箱があまりにかわいいスヌーピーの柄だったため、
本人としてはいささか不本意なあだ名を頂戴するはめになった。

「あ、これ、さっき教室で拾ったんだけど、違う?」
そう言って彼は、モモに水色のシャープペンシルを差し出した。
モモが今朝から失くした、と騒いでいた愛用のやつだ。
私の記憶では、中学時代からずっと使っている。

「あー!良かった、探してたんだ、これ。ありがと!!」
モモは嬉しそうにはしゃいでシャープペンシルを受け取ると、
傷はないかと太陽の光に当てて入念にチェックしだした。
スヌーピー君にはそれきり見向きもしない。
彼はしばし、所在無げにその場でモモの動向を伺っていたが、
「…じゃ。」と気まずそうに私に軽く頭を下げて、教室へ戻っていった。

きぃんこん、かぁんこん、こぉんきん、かぁんこん。
チャイムが鳴った。
3時間目が始まる合図。

「あ、先生来ちゃうね、早く戻ろう。」
モモは残りの林檎ジュースをちゅうっと飲み干し、空になった紙パックを器用に折りたたむ。

パタパタと小走りで教室に戻りながら、
どこにでもありそうな平凡なシャーペンを、どうしてスヌーピー君はモモの物だと分かったのか、
その辺の事情をモモはもう少し考えてみたらいいのに、と思った。

そうして彼女は、今月何度目かの「小さなきっかけ」を、ことごとく逃している。
だめだこりゃ。
やっぱり、赤い鼻緒の可憐な下駄を履かせるしかないかもしれない。



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