釣りをするひと。
ああ、またいる。
今日もあの人が水の中に立っている。

「あの。」
僕が呼びかけても、彼女はふりむかない。
昨日もそうだった。おとといも、その前の日も。
さらさらと清流が彼女の素足に触れ、時に小さく跳ね上がり、
彼女の白いワンピースの裾を濡らす。
彼女は毎日白いワンピースを着ていたけど、
同じワンピースではなく、かすかにデザインや素材が違っていた。
一体何枚の白いワンピースを、彼女は持っているのだろう。

「あの。」
いつもは1度だけ呼びかけて、後はそのまま通り過ぎてしまう。
でも今日は、東の空に真っ黒な入道雲が湧いていた。

嵐が来る。

「天気、気づいてますか?嵐が、きますよ」
あらし、という言葉に、彼女が反応した。
「そう、あらしがくるの」
こちらはふりむかずに彼女は答えた。
そんなこと知ってるわ、という響きでもあり、
あらそうなの、それは楽しみね、という響きでもあった。
どちらかは僕にはちょっと判断しかねるし、
もしかしたらそもそもそう僕には聞こえただけで、
彼女はまったく違うことを言ったのかもしれない。

それきり、彼女は口をつぐんだ。
釣り糸が一瞬キラリと光った。

30分後、遠い空で遊んでいた黒雲は華麗な足さばきでこちらに走ってきた。
大粒の雨がイキナリ大地を打つ。

かろうじて屋根を支える4本の細い木の柱と、
その柱の上に申し訳なさそうに乗っかっている赤茶色のトタン屋根の下で、
僕はバスが来るのを待っていた。
なにしろ田舎町だし、この雨では予定より大分遅れるに違いない。
彼女はまだ何かを釣ろうとしているのだろうか。
だいたい、何時に来て、何時に帰っているのかも良く分からない。
あんな細い腕で、魚を引き上げられるのだろうか。
彼女がいきいきとリールを巻く光景を想像しようと試みたけれど、
試みている最中に、いつの間にか彼女の姿は釣りバカ日誌の浜ちゃんにすりかわってしまう。
馬鹿馬鹿しい、だいたいあいつらは海釣りが専門じゃないか。
彼女とは違う。

魚を釣ろうとしているのではないかもしれないな、と、なんとなく思った。
水は、いろんなものを巻き込んで流れて行くから。
せいぜい彼女が巻き込まれなければいい。
いつか彼女が望むものが釣れた時には、もう少し話してくれるかもしれない。

秋風が吹くようになっても突っ立ってるようなら、
長靴を買ってやらなきゃなるまいな。
きっと白いワンピースは着続けるんだろうから、
そのワンピースに少しでも似合う、真っ白な長靴をさ。



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