手を繋ぐ。

昼間から降り続いていた小雨が、夜になって雪へと変わった。
カーテンの隙間からチラと外を覗いて見ると、
もうすでにベランダのサンダルにうっすら積もり始めていた。
窓ガラスを通して、外の冷気がそよそよそわそわと伝わってくる。

明日、学校休みで良かった。
おととい、無理してでも小さなこたつを買ってきておいて良かった。

昼食の残りのじゃがいもポタージュを弱火で温め、白いボウル皿にたっぷりそそいだ。
このポタージュ飲み終わったら、そろそろ寝ようかな。
眠くないけど。
明日は早起きして、雪が積もったかどうか確認しよう。
積もってたら、近所のカフェで白い景色を楽しみながら朝ごはんを食べよう。
積もってなかったら、家で目玉焼きでも食べようかな。
雨だったら…うーん、2度寝。

その時、チャイムが鳴った。
ぴんぽんぴんぽんぴんぽん。

こんな時間に訊ねてくるのは、どうせ近所に住むタローだ。
アパートの鍵失くしたから泊めろとかいうんだろう。
もしくは友達が大勢泊まりにきて、自分が寝るスペース無くなったとか。

あたしは、インターフォンに出るでもなく覗き穴から外を確認するでもなく、
自然な乱暴さで玄関のドアを開けた。

「よぅ。」
やっぱりタローだった。
ふわふわのファーがフードと袖についた、お気に入りのコートを着て立っている。
「あんたね、今何時か分かってる?」
「午前1時。」
「分かってるんならもうちょっと悪びれなさいな。
1人暮らしのレディの部屋に訊ねてきていい時間じゃないと思うんだけど。」
「レディの部屋は訪ねない。お前だからいいかと思って。」
「・・・・・・・・・・・。」
「冗談だろー。怖い顔すんなよ。」
「何の用?悪いけど今日は泊められないわよ。明日予定あるし。」
「違う。お前、三つ葉公園分かる?ほら、クリーニング屋の門曲がったとこの。」
「…ああ、あそこの公園。知ってるわよ、毎朝大学行く途中脇通るし。」
「あそこに、空中庭園が出現したらしいぜ。見に行こうよ。」
「空中庭園??」
「うん、さっき後輩のヒサシからメールが来てさ、
三つ葉公園に空中庭園が現れたからビックリしてしばらく見上げちまったって。」
「どういうこと?温室でも作ってたっけ、あそこ。」
「良くわかんないから行ってみようって言ってるんじゃんか。」

あたしがパジャマ姿で、すっぴんで、今にも布団に入りそうな気配をプンプンさせているというのに、
目の前の女の一体何をコイツは見ているんだろう。
まぁいい、そういう奴だ、タローは。

「行くって言うまで引き下がらないんでしょ?
はいはい、じゃあちょっと待ってて、着替えてくるから。」
呆れた口調でそう答えると、タローを外に立たせたまま一旦ドアを閉め、
台所でお皿にそそいだばかりのじゃがいもポタージュにラップをかけた。
パジャマをぱぱぱっと脱ぎ捨てると、
ジーパンと黒いセーター、その上にグレイのチェックのダッフルコートを着こみ、
さらにもこもこの毛糸の白いマフラーを首に巻いて再び玄関のドアを開けた。
タローは同じ場所で、同じ格好で立っていた。

雪だから傘はいいや、と思い、その代わりにコートのフードをぽすっとかぶった。
大粒の結晶が、コートに落ちては一瞬きらめいて、すぐに体温で溶けていく。
タローは両手をポケットに突っ込み、ずんずん歩いていく。
あたしはちびだから、一生懸命歩かないとタローの早さについていけない。

ポストの脇を通り抜けて、シャッターの降りた小さな煙草屋さんのところを右へ、
その次の門をまた右へ曲がってしばらくは道なりに歩き、
すると左手にクリーニング屋さんが現れるので、そこを左に曲がる。
いつもは自転車で走りぬける道筋だ。
20メートルも行くと、突然左手に大きな公園が現われる。
この辺りの憩いの場、だったんだろうが、
敷地だけ広くて遊具もベンチも少ないために、いつ来てもあまり人はいない。
うっそうと茂るブナや熊笹、成長しすぎた感のあるつつじ、
近所のおばさんが手に余って植えたのだろう、やたら巨大化したアロエが
冬だというのに青々とした肉厚の葉を宙に向かって伸ばしている。
だんだん自然に侵食されていくこの公園の未来が見えた気がした。

「で?何が空中庭園なの?」
砂場の近くまで歩いてきて、あたしとタローは辺りをキョロキョロ見回した。
新しい温室ができた気配はまったくないし、庭園ぽくガーデニングされた一画があるという訳でもない。
「おっかしいなぁ。ヒサシ、この公園だって言ってたんだけどなぁ。」
「ヒサシ君、酔ってたんじゃないの?」
「いやぁ、アイツ酒飲めないし。妙な冗談言うような奴でもないし。」
「でもあたし、今朝もこの脇の道通ったけど、何も工事とかしてなかったよ?」
「うーん。うーん。」
タローはあちらこちらに視線を飛ばしながら、熊笹の茂みの方へ歩いていった。
コートにつもる雪の結晶を観察しながらついていくあたし。
熊笹の茂みの裏を少し先へ行った所に、ぽっかりと小さな空き地のような空間ができていて、
その空き地の真ん中に、小さな石で出来た水呑場があった。
普段こんなところまで入り込まないので、水呑場があるなんて知らなかった。
こんな、誰もこなさそうな水呑場で水なんて出るんだろうか。
蛇口をひねってみたい衝動に駆られて、あたしは水呑場へ走り寄った。
きゅい、と冷たい銀の蛇口をひねると、ぴしゃぱしゃ水が流れ出た。
どうやら健在。きちんと使える。
…と、あたしは、その水呑場に雪がまったく積もってないことに気がついた。
ふと辺りを見回すと、この小さな空き地全体に雪が積もっていない。
熊笹の茂みはすでにホワイトグリーンのじゅうたんみたいになっているというのに。
その時、タローが後ろから押し殺したような声で言った。
「おい、上見ろ、上。」

ぽかんと口を開けて上を見上げているタローを振り返り、
そのまま彼の視線を辿ってあたしも上を見上げた。

「おお。」

空中庭園、が、そこにあった。
名前そのまんま、の、空中庭園。
どこかのお金持ちの家の、手入れされた中庭とガラスの温室が、家出してきたみたいだ。
空き地の真上、結構高い位置に、ぽっかり浮かんでいる。
中庭にはかわいらしい木製のベンチまであるのが見える。
温室には白熱球の黄色い光が暖かそうに灯り、中の植物たちを優しく包んでいた。

「あれ、何?」
「何って、だから、あれがヒサシの言ってた空中庭園だろ。」
「どうやって浮いてるのかな?」
「知らん。私立文系コースの俺に聞くな。」
「風に乗って流れてきたのかな?」
「そうかもな。これからまら移動していくのかも。」
「あの庭園の持ち主、今頃困ってるんじゃないかなぁ。」
「きちんと管理してない奴が悪いんだ。あの庭園に罪はねぇよ。」

あたし達はしばらくその庭園を見つめていた。
晴れた日の午後には、あのベンチに座って読書がしたい。
っていうか、きっと、この庭園の持ち主だってそうしていたに違いない。
あの温室の中には、どんな花があるんだろう。
おしゃれな水差しなんかが用意されているんだろうな。

「いいなぁ。行きたいね、あそこ。」
あたしがうっとりした口調でそう言うと、タローはチラと横目であたしを見て、
「まぁな。」と言った。
「行きたい。行って見たいよぅ。」
10分でいいからあの庭園に行けたらいいのに。
都合よく梯子がその辺にないかと探してみたけど、さすがにそんなものは落ちていなかった。
明日まであそこに浮いているだろうか。

「行きたいっていうんなら。」
タローがためらいがちに言葉を紡いだ。
「どうしても行きたいっていうんなら、どうにかして俺が連れていくけど。」
意表を突かれた気がした。
あそこに行ける方法をタローが知っているのだろうか、という驚きではなくて、
あたしのためにタローが何かをしてくれる、そんなセリフへの驚きだった。
「え?どうやって?」
「どうにだって方法はあるだろ。
だから、
お前がどうしても行きたいっていうんなら、俺が連れてくって言ってるんだよ。」
タローは真顔でそう言い切った。
白い息が闇に溶ける。
タローの黒い瞳にあたしが映る。
空中庭園。高い宙に浮かぶ庭園。暖かな灯火。かわいらしいベンチ。
あたし達は地面にいる。2本の足でしっかり大地をつかんで。
何で馬鹿にしないの。
「行けるわけないだろ。」とか、「勝手に行ってくれば。」とか。
連れてってくれる、なんて、まるで、
駄々こねるワガママなお姫様と、優しいナイトみたいじゃない。
ナイトって大変なんだよ。
お姫様のこと守って、忠誠を尽くして、誰より大事にしなきゃいけないんだ。
あたしとお姫様なんて、似つかわしくない連想ゲームで真っ先に思いつくような位置関係なのに。

瞬間、あたしはうつむいた。
わかってしまったのだ。いろんなこと。
タローのことも、あたしのことも。
確認するように、タローの顔を見た。
タローは当たり前だろ、と言わんばかりの表情をしていた。
「どうする?行きたい?」
初めて聴く声だった。
何かが変わってしまったことを、あたしの五感に気づかせるのに充分な声だった。
彼はいつも、こんな風にあたしに話しかけていたんだろうか。
あたしは全く気づかなかったんだろうか。
何か、フィルターでも通して彼の声を聞いていたのかもしれない。

「…ううん、ここから観てられるから、いいや。」
「そっか。…まぁ、一応人んちの庭だろうしな。勝手に入っちゃマズイかもしれないな。」

しばらく無言で、庭園を見上げていた。
あたしは首が痛くなってしまい、右手で首筋をさすった。
タローがそれを見て、
「そういや俺も。」と、はっとして首筋をさすった。

「帰ろうか。」
「うん。」
「明日まであるといいな。」
「でも、持ち主の人に見つかっちゃうかもね。今頃血眼で捜してるよ。」
「そうだなぁ。しっかり、覚えとこうな。もう見れなくても、すぐに思い出せるように。」

ゆっくりきびすをかえして、あたし達はその空き地から離れた。
熊笹の茂みを抜けて、公園の中心部へ戻る。
振り返っても、背の高いブナの木に隠れて、勢いを増した大粒の雪に隠れて、
空中庭園はこちらからは見えなかった。

しんとした雪降る夜の帰り道、
あたしとタローは初めて手を繋いだ。



                      BACK