音楽のある生活

 いつもの朝と同じように、蓮華寮の前で美琴に出くわした。
「おう美琴、おはよう‥‥‥美琴?」
 いつもと違ったのは、大体先に声をあげて、手を振りながら駆け寄ってくる美琴が、今日は直樹が声を掛けても振り向きさえしなかったことだろう。妙にご機嫌な様子で、指揮者か何かのように小さく手を振ったり首を動かしたりしながら、そこにいる直樹たちのことになどまるで気づいた風でもなく、踊るように歩を進めていく。
「何だあれ?」
 傍らの保奈美に顔を向けると、同じように首を捻っていた保奈美が、不意にぽんと手を打った。
「ああ、そうそう。ヘッドホンステレオだよ、きっと」
「ヘッドホンステレオ?」
 直樹や保奈美の家からならともかく、蓮華寮から学園までは歩いて十分くらいの距離しかない。その上、登校してくる時間帯はみんな一緒なのだから、大体途中で誰かに会って、それからは何か喋りあいながら校門をくぐることになる。
 実際、今日も美琴は直樹や保奈美に会った。美琴が気づかなかっただけで。
 ‥‥‥なんでコレで、ヘッドホンステレオなんかが要るんだ?
 不審そうな直樹の視線に見送られて、楽しそうに跳ねながら歩く美琴の背中がだんだん遠くなっていく。

「みーこーとー」
「うわわわっ!」
 数分後、教室。
 とっくに席に着いて、自分の机に頬杖を突いたままリズムをとるように足を動かしていた美琴の耳元から、いきなり、直樹は白いイヤホンを引き抜いた。
「どうしたんだお前? さっきも声掛けたのに」
「え、そうなんだ。全然気づかなかったよ。ごめんねー」
 てへへっと笑って舌を出す美琴は、見慣れない、板ガムの束か何かのような真っ白い何か、を首にぶら提げている。
「それか、ヘッドホンステレオって」
「これ? えへへっ。この間もらっちゃったんだ」
「もら‥‥‥った?」
 モノが何かは知らないが、それが100円や200円のシロモノでないことは流石に直樹にもわかる。そう簡単に、ほいほいもらえるようなものとも思えなかった。
「誰がくれるんだそんなの? 高いんだろ?」
「んー、よくわかんない。この間、図書館のパソコンからインターネット見てたらね」
「うん」
「プレゼントするから、欲しい人はメールにおもしろいこと書いて送ってね、っていうのを見つけて」
「‥‥‥うん」
「なんかこれ杏仁豆腐にそっくりだったから、当たったら包丁で切って杏仁豆腐と一緒に食べまーすってメールに書いて送ったら、本当に当たっちゃった」
「そこか。結局オチはそこなのか」
 それよりも、その話の流れで手に入った、確かに見ようによっては杏仁豆腐のように見えなくもないそれを‥‥‥美琴は、食べなくてもいいのだろうか?
 ひとつ頭を振って、恐い考えに嵌り込みそうになる意識を現実に引き戻した。

「でもそれ、曲はどうやって録音するんだ?」
 取り敢えず食べることから頭を離すべく、適当なことを訊いてみる。
「録音するっていうか、パソコンでCDとかから曲のデータを作って、パソコンからコピーして聴くんだよ。なおくん、知らなかった?」
「まあ、パソコン持ってないしな」
 こういうことに保奈美の方が詳しい、というのも何だか無駄に悔しいものがあった。
「それで、パソコンは美琴も持ってないから、今はわたしとか、データ作れる人が適当に何曲かずつ入れてあげてるの」
「へえ‥‥‥じゃあ、保奈美はそこに何を入れたんだ?」
「部屋とYシャツと私」
「ぶっ」
 吹いた。
 素で吹いた。
 飲み物の類を口に含んでいなかったのは不幸中の幸いであった。
「仁科先生が中島みゆきの『ひとり上手』だったかな? 野乃原先生は確か『携帯哀歌』」
「携帯哀歌? って、どんな曲だ?」
「わたしはよく知らないけど、歌ってるのが『東京プリン』ってグループなんだって」
「結先生までオチがそこかよ」
「それでまあ、大分偏ってるなあと思った俺が」
 後ろから弘司が話に割り込んだ。
「『divergent flow』と『amulet』を」
 やっぱり、どこか偏っているのだった。

「ね、だから今度、みんなでカラオケっていうのに行ってみようよ」
 嬉しげにそう言って美琴がしゅたっと手を挙げる。
「でも美琴が聴いてる曲ってあんまり入ってなさそうだけどな」
 あっても誰も歌わない、と言った方が正確だったかも知れない。
「えー、そうなのー?」
「でもほら、まだまだデータはたくさん入るし。今入ってるのだけじゃなくて、いろんなのをいっぱい聴いて、いっぱい憶えればいいと思うよ」
 保奈美がそう言って笑う。
「うん!」
 猫が猫じゃらしに擦り寄るように、首元から持ち上げた白い直方体に美琴が頬擦りをしたところで、始業のチャイムが鳴った。