私のエッセー集:現在通学中の心斎橋大学の授業中または宿題として書いたもの(一部加筆修正)です。

            その他投稿原稿等も混在しています。
 

故郷
(平成17年12月13日)
無題
(平成17年12月5日)

(平成17年11月15日)

(平成17年10月24日)
かばん
(平成17年10月18日)
めがね
(平成17年9月13日)

(平成17年8月30日)
無題
(平成17年8月8日)

(平成17年7月19日)

(平成17年6月21日)
年齢
(平成17年6月20日)
ハプニング
(平成17年5月23日)
終わり
(平成17年3月28日)
変化
(平成17年2月28日)
最近の出来事
(平成17年2月14日)
無題
(平成17年2月7日)

(平成17年1月17日)
16年度修了制作
(平成17年1月15日)

(平成16年11月8日)
三国志史跡巡り
(平成16年10月18日)
あの時(2)
(平成16年9月27日)
あの時
(平成16年9月13日)
あの人
(平成16年8月30日)
近江商人の理念
(平成16年7月15日)

(平成16年7月12日)

(平成16年6月14日)
怒り
(平成16年6月7日)
喜び
(平成16年5月24日)
太田知事はんへ
(平成16年3月115日)
小さな疑問
(平成16年3月8日)
大阪と私
(平成16年2月11日)
もう一人の自分
(平成16年2月7日)
わが至福のとき
(平成16年1月19日)
エッセーコンテスト応募
(平成16年1月15日)
15年度修了制作
(平成16年1月6日)
私の重大ニュース
(平成15年12月15日)
もう一人の自分
(平成15年10月20日

【故郷】(平成17年12月13日)     
 戦後60年  
 「お母ちゃん、ここで死のか」
と7歳(当時)の私がボソっと言った。
 昭和20年7月3日深夜から4日早朝にかけて、姫路市は2回目の空襲を受けた。その時の逃避行でのことである。
 自宅は姫路城の東南1キロ余の処にあった。少し北の東西に走る国道2号線まで逃げてきた時、既に北方と南方は燃えていた。
 母は、実家のある西方向へ乳母車(4歳の妹が乗っていた)の向きを変えようとしたとたん、乳母車の車輪が鉄線に絡まった。
 前月の1回目の爆撃で被弾した陸橋の残骸に引っかかってしまったのだ。母は焦った。もがいている姿をあざ笑うかのように西方にも火の手が上がった。
 「ウァー、どないしょう…」
めげそうになった母だったが、子供の「死のか」との声に、
 「アホ!こんなとこで死んでどないすんの」
と怒鳴りつけ、必死で乳母車を東に向けて、親子は唯一の暗い方向へ逃げた。
 被災した親子は縁を頼って神崎郡田原村(現福崎町)へ疎開して父の帰還を待つ。しかし、21年3月8日、無常にも「父戦死」の公報が入った。30歳過ぎで戦争未亡人になった母は、一時は途方にくれたが、暖かい周囲にも恵まれ必死に生きた。
 「お父ちゃんの50回忌までは死なれへん」
というのが口癖だったが、空襲の話になると、
 「あの時、アンタに『死のか』と言われて一遍に背骨がシャンとした」と述懐した。
 その母も亡夫の50回忌を済ませて数年後ぽっくりと逝った。
 母の存命中のしきたりを継承して毎年のお盆に姫路へ墓参りに行く。今年の墓参りの帰路、自宅があった辺りへ行ってみた。
 母を焦らせた陸橋はずっと以前に撤去され、逆にJR播但線が高架になっていてその下を国道2号線が走っている。
丸焼けになった自宅と思しき周辺は見知らぬ住宅がひしめいており、当然ながら当時を思い出させるものは何も無い。
 私には故郷はない。

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【無題】(平成17年12月5日)
 楽しき哉人生            
 最近はおかげ様で思い煩わされるような事がほとんど無い。そのせいか毎日の過ぎるのが早い。今年も後1カ月たらずだ。
 今年新たに挑戦したのは、料理と水彩画。 料理は「料理が脳を活性化させることの研究」のモニターとして、3月から5月にかけて10回コースに参加した。モニターの義務として、開始前と終了後に知能テストを受けた。
 毎回の実習後、自分が作ったものをワイワイ言いながら試食するのは実に楽しい。
 さて、料理(和食)の味付けは、しょうゆ、日本酒、みりん、だしの味は昆布とかつおで決まる。しかし、何といっても料理のうまさは新鮮な食材(ネタ)次第だ。文章づくりも同じだなと悟った。
 謝礼のモニター料を水彩画のレッスンに投資することにして、5月から7月の6回コースで基礎を勉強した。その先生、仲間達と8月末に、南仏、パリへスケッチ紀行をした。
 11月のOB作品展に、昨年までの書(扁額)、川柳(短冊)に加えて、水彩画(「セーヌ河畔からノートルダム大聖堂を臨む」8号)を出品した。だが、水彩画の出来ばえは自己採点では60点位。というのは、中景の橋、水面に映る影の写生はまずまずだが、肝心のノートルダム大聖堂が迫力に欠けている。
 見に来てくれたT子は、「アラッ、エッセイよりもうまいやん」と大きな目をパチクリした。気分を良くしたのでお茶をおごった。
 来年も楽しくなりそうだ。

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【机】(平成17年11月15日】   
 机上の空論              
 書斎の机は、30年余り前に家を新築した際、義父が調達してくれたものだ。岡山県の片田舎の実直な大工職人の手になるもので実にがっしりとしている。横150p、たて75p。地震のときにもぐり込んでもびくともしないだろう。
 会社生活では年功によって、だんだん机の寸法と材質が立派なものになっていったが、終始自宅の書斎の机の方が優れものだった。
 しかし、机の上での作業による稼ぎとなるとてんで比較にもならない。書斎の机での今までの稼ぎは、せいぜい図書券かごく少額の賞金位でしかない。
 現在、机の上はパソコン、ディスプレイ、キーボード、印刷機等で、ほぼ半分のスペースを占めている。残りの半分は日記帳、読みかけの数冊の本や予定表等が散らばっている。
 原稿を書く場合、第一稿はざっと手書きして推敲はパソコンでやるので、机の上に少しばかりの空きスペースがあればそれで十分である。
 だが、確かに雑然としている。床の上は、さらに乱れている。数か月分の雑誌、茶封筒に入った資料群、新聞雑誌のスクラップ等が、平積み状態やら机に立てかけられたり、ファイリングケースに押し込まれたりしている。
 これまで何回か整理整頓を試みた。整理法のノウハウ本も何冊か買った。
 ある時期、「捨てる技術」なる本がベストセラーになった。「収納法・整理法では解決できない!本当に豊かな生活は『捨てる』ことから始まります」という書き出しで「捨てるための考え方10か条」と「捨てるためのテクニック10か条」をウリにしている。
 従来の「モノに執着する考え方」を改めさせた上で「捨てるための具体的な技術」を説くものでそれなりに説得力がある。
 例えば、「捨てるための考え方10か条」の第3条に「"いつか”なんてこない」があり、「自分なりに3ヶ月なり1年なりの基準を定め、一定期間使わないものはその後も使わないのだと、思い極めること」とある。
 しかしながら、実際にはこのように割り切って思い極めることが如何に面倒で、かつ、困難なことか。それで、つい「とりあえず残しておく」それも「その辺に」ということになって、机の上やその周辺は乱雑な状態が改善されない。
 家人は「こんな汚い空間でいい文章が書けるはずがない」と顔をしかめる。見かけが整然としていたら流麗な文章が書けると思っているから単純なものだ。時々、雑誌のグラビヤで拝見する作家の書斎はほとんど例外なく雑然としているし、机の上の執筆のスペースもわずかなものである。
 物書きの専門家やそれを夢見るアマチュアにとって、不要な資料を捨てて身辺をすっきりさせる等のことは、所詮机上の空論ということだろうか。

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【金】(平成17年10月24日)    
 やせ我慢     
 人生に大切な三つのモノは「友情と勇気と少しばかりの金」と言ったのは、喜劇俳優のチャップリンだったかと思う。
 友情と勇気はともかくとして「少しばかりの金」とは、けだし名言だ。確かに「少しばかりの金」の有無によって、世間とのつき合いの仕方や生活の楽しみ方は随分と変わる。
 ずっと以前の記憶であるが、著名な評論家が「月収の三カ月分を小金、一年分を中金、三年分を大金というが、男は三十歳を過ぎたら家人に話さずとも出せる小金位は用意しておくべきだ」と書いていた。
 成程と思って、数十年の会社員生活を通じてその程度の準備はしていた。しかし、おかげ様で友人や部下からの借金の申し込みや自分自身の他聞をはばかる緊急の出費といったことも無く四年程前に定年を迎えた。
 現在は「年金+α」の生活であるが、その習慣は続けているし、今後も続けるつもりだ。
 さて、大抵の人は小金どころか大金を望みながら、しかし、金のことをあからさまには口にしない。勿論私も小金を貯めていること等を他人に話したことはない。人生に必要不可欠な金ではあるが、積極的に口にするのがはばかられるのは何故だろう。
 それは多分、一攫千金を望むのは浅ましいとか、金のためだけに生きるのは潔しとしないといったやせ我慢的な潜在意識のせいであろうか。

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【かばん】(平成17年10月18日)    
 トートバッグ         
 最近、ちょっとした外出にトートバッグを重宝している。少し前までは、トートバッグというと、女性や若者のバッグというイメージがあって敬遠していた。しかし、使ってみるとなかなか優れもので使いやすい。
 もとはといえば、今年の春先、水彩画を始めるにあたって、スケッチブック、絵具、パレット、イーゼル等を持ち運びするために買ったものである。
 帆布製で重さ460g、一応、ドーチェなるブランドもの。開口部はしっかりしたファスナー仕様で中身が見えない設計である。
 外側前面にボタン付きとファスナー付きの二つのポケットがあり、内側にはファスナー付きポケットと小さなオープンポケットがある。横30cm、高さ38cm、幅(底)13pで、ハンドルの高さは23pあるのでショルダーバッグにもなる。
 日常の私の携行品は、二、三冊の本、メモ帳、ペットボトル、携帯電話、デジタルカメラ、傘位のものだが、以前使っていた小ぶりのショルダーバックでは、マチが少ないのでかさばると不恰好になっていた。
 その点、このトートバッグは使い勝手がよい。ちょっとした買い物、衝動買いした新刊書等もゆうゆう収納できる。お蔭さまで複数の手荷物のひとつを電車の網棚に置き忘れる、といった失敗もなくなった。
 手許の辞書で、トートバッグ(tote bag)を調べると「《主に米》(女性用の)大型手さげバッグ」とある。何かと大型のアメリカ女性が、しこたま買い込んだ品物を持ち運んでいるイメージが浮かぶ。
 ところで、洋の東西を問わず女性がトートバッグを愛用するのは使いやすいからだ。そうであるのなら、それを女性だけのものにしておく手はない。
 この頃、熟年の男性のリュック姿を時々見かけるようになったが、トートバッグにすればいいのに、と思う。もっとも、リュックは、転んだ時には両手が自由になるので有利だとは思うが…。
 高級品で有名なSファミリークラブの通販商品の説明を見ていると「…帆布製やナイロン製のトートバッグは、熟年男性が持つには少々カジュアルすぎるきらいがある。そこで、ホースレザーを全面に使い…、ホースレザーは使い込むほど味わいが増し、スポーツジムに通うとき、街歩きから一泊二日の旅行など、使うシーンは無限…」と魅惑的な表現でオトコ心をそそる。
 カラーは、ブラウンとブラックがあり、モデルが使っている写真は恰好いい。しかし、値段もそれなりのもので大枚3万円也。    当分は、分相応の帆布製を大切にするとしよう。しかし、お忍びの旅行などにつき合ってくれる奇特な相手が見つかった場合には、奮発するぞ!

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【眼鏡】(平成17年9月13日)
 やっぱりイヤだ         
 私は現在67歳になるが、おかげで様でまだ老眼鏡を使わずに新聞が読める。同世代の連中が、似合っているとはお世辞にもいえぬ眼鏡をかけて書類を読んでいる姿を見ると、気の毒に思うと共に何やら優越感を覚える。
 まして、年下の世代がバツが悪そうにしながら、モソモソと眼鏡を取り出す場面に遭遇すると、心の中で快哉を叫ぶ。
 このたわいない心情はどこから来るのだろうかと、あるときふと思ったが直ぐに気がついた。
 俗に「ハ・メ・マ○」の順に男性機能(女性の場合も似たようなものであろうか)は低下していくといわれる。そうであれば、第2段階にある者の何割かは既に第3段階にも達しているに違いないという推論が成り立つ。すると、私の優越感には 、極めて合理的な根拠があることになる。
 そうはいうものの、医学的には、乱視気味の近視というだけのことで、とりたてて自慢する程のことでもない。現に、三日月等はきれいには見えない。
 私が始めて近視用の眼鏡を購入したのは、48歳頃で、動機は、ゴルフの打球の落下地点を明確にしたいということだった。
 裸眼では打球方向は分かるが、前後の遠近関係をはっきりさせかったのである。 
 だが、49歳で車の運転を取得したときには、眼鏡着用の条件が義務付けられた。ところが、今でも運転を開始してしばらくしてから眼鏡をかけていないことに気がついてはっとすることがある。眼鏡をかけて運転すると今度はカーナビの文字が見難い。
 日常生活では、眼鏡を携行はしているものの、その必要をほとんど感じないのでかけてはいない。とはいっても、近眼はそこそこ進んでいるので、道で行き合った際、先方から会釈され、先輩と分かって恐縮することが時にある。そんな時、常時眼鏡をかけようかとも思うが、そうすると、書物を読むときその都度はずすのが煩わしいので踏み切れないでいる
 結婚するまでは身内に眼鏡族がいなかったので、眼鏡をかけている女性を配偶者と決めるには少なからず抵抗感があった。ガラス越しに見たり見られたりするのが、どうも馴染めなかったのであろうか。
 しかし、結婚後、40年も経つとお互いの長所短所にも鈍感になって、家人の眼鏡もほとんど気にならなくなっている。とはいえ、いまだに目元の涼しい女性を見かけると、心もきっとそのように違いない等と思えて、あらぬ想像をめぐらしたりもする。
 やっぱり眼鏡は敬遠したい。

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【音】(平成17年8月30日)
 義父と補聴器          
 「あっ、お父さんが補聴器を使ってる…」とびっくりした妻が声を上げた。
 数年前のある日、連れ合い(義母)に先立たれた後、ケアハウスに入所している義父を見舞った時のことだ。
 妻が意外に思ったというのは、以前、米寿のお祝いとして、5人の子等が補聴器を買うようにとお金を渡した処、義父は
 「補聴器なんか要らん」
といってそれぞれの預金口座に返金してきたことがあったからである。
 そんな義父が、その時は私達に手を上げて会釈した後も、いつになくにこやかに話し続けている。電話の相手は、どうやら女性らしい。
 「きっとM子さんやと思うわ」
と妻が小声で言った。M子さんは義父の最初の見合いの相手で遠縁に当たる。
 「だいぶ楽しそうやったね、M子さんでしょう?」
と妻(娘)に冷やかされた義父はテレながら
 「ウン、『一度会いたい』というとった」
 「どう?補聴器もエエもんでしょ?」 
 「女の声はきれいに聞こえる…。実はなあ、Yさんが『補聴器を使うんやったらお見舞いに行く』と言うとるらしいから、こないだから使うとるんじゃ」
 「マァ…、私らにはお金を返しといて…」
 Yさんは、義父が女学校の教員をしていた頃の教え子で、なんでも、当時二人はちょっと噂になったことがあったとか。
義父は、かつて、補聴器は
 「雑音も拾うてしまうんで頭が痛うなる」
といって嫌がっていた。それで、私達が時折訪問した時も、義父は、月並みの挨拶をして、自分の言いたいことを一方的に話し終わると、後は雑文を書いたり短歌を作る等、自分の世界に入り込むのが常だった。
 そんな時、こちらから大声を出して話しかけるのは、なにやら気恥ずかしいし、第一エネルギーも要る。だから、身内との会話の時だけでも補聴器を使えばいいのに、と何度か思ったことだった。
 それなのに、あの頑固者の義父が、異性との話し合いのためには、身内も知らぬ間に補聴器を買い揃えていたとは、なんとも微苦笑を禁じ得なかった。
 今年3月、義父が97歳で逝去した際、晩年使っていた補聴器を棺に入れた。
 義母は、おおらかな人柄だったが、補聴器の件を知ったら、少しは妬いているかもしれない。

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【無題】(平成17年8月8日)
 ナットとトン         
 今年の6月、バンコックは雨期にも拘らず快晴に恵まれた。今日、我々夫婦をアユタヤ遺跡へ案内してくれるのは、地元タマサート大学の学生ナット君と同大学生トン嬢(以下敬称略)である。ナットが昨年大阪大学へ留学していた際、ホストファミリーとして少しばかりお世話をしたご縁で、今回のタイ旅行が実現した。
 ナットは、ガールフレンドのトンを「豚カツのトンです」と紹介してくれたが、トンは、ほっそりとして控えめで愛らしい。
 トンは、英語は出来るが日本語は出来ないので、トンとの対話は、英語での簡単なやりとりになる。少し込み入ってくると、ナットが、こちらの日本語とトンのタイ語を適当に通訳してくれるのでありがたい。
 トンは、一度来日したことがあり、お好み焼き、たこ焼き、てんぷらが好きだが、生ものの刺身とすしはダメという。
 アユタヤで我々は象に乗ったが、トンが「恐いからイヤ…」といって乗らないので、初乗りを期待していたナットも諦めた。
 二人が通学しているタマサート大学へも案内してもらったが、構内にトヨタやホンダの車が多いのには驚いた。
 ナットとトンのおかげで通常のツアーでは体験できないタイの一端に触れることが出来た。
 「コップクン カップ(ありがとう)」。

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【靴】(平成17年7月19日)    
 隔靴掻痒                
 映画「砂の器」を見た。松本清張の原作で、昭和49年(1974年)に初公開されたもののデジタルマスター版だ。
 ストーリーは、栄光の階段を登りつつある天才音楽家和賀英良(加藤剛)の隠された過去とその破局を描くものである。 
 山場は、殺人事件の犯人が観客にも判ってから後の進行だ。カットバックにより、オーケストラの演奏舞台、警視庁の捜査会議、父子放浪の回想シーンを同時進行させる方式は、劇的効果を大いに高めている。又、劇映画でありながら大作のシンフォニーをじっくりと聞かせる構成になっているので、本作品が音楽映画としても高い評価を得ているのも頷ける。
 しかし、ストーリーの中核である殺人事件については、その全容は、つまるところよく分からないままで終わる。
 和賀が昔の恩人である三木(元巡査、雑貨商 緒形拳)と図らずも再会し、三木から老い先短い父(ハンセン氏病で隔離病棟にいる)に会うように数回にわたり強く言われ、遂に三木を殺すことになる。
 確かに、和賀には戦後の混乱期に戸籍偽造をした過去があり、現在政界の大物の令嬢と婚約中でもあり、忌まわしい過去に触れられたくはないという事情がある。だが、三木は、温厚篤実な性格で、和賀を一時実子同様に養育したこともあるので、もし、和賀の不正事実を知ったとしても、それを和賀の不利益になるような形で暴露することはあり得ないと思われる。
 従って、一般人が、和賀と同様の立場におかれた場合、父との面会をいかに要請されたとしても「殺す」までには至らないのではないか。
 そして、三木にしても配慮に欠ける面がある。昔世話ををした父子が生き別れになっているという事情があるにしても、まずは、子の写真を届ける等の方法により、父の意向を確かめるべきであっただろう(現に、刑事から子の写真を見せられた父は、号泣しながら「知らない」と言い切っている)。
 結局、本作品の場合、殺人の動機、場所(なぜ国鉄の操車場なのか)、方法等について、かなり無理があり、かつ、説明不足と思われる。
 観客は、私も含めて、和賀の犯行に及ぶまでの葛藤、引き金となった事情等を詳しく知りたくて、映画館を出た後も隔靴掻痒の感が残る。

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【家】(平成17年6月21日)
 畳の上で死ぬ                
 私が現在の団地(兵庫県川西市)に住み始めたのが昭和45年11月だから早いものでかれこれ35年になる。
 その2年前の43年に土地を購入したのだが、この団地は、著名な(現在は不振を極めているが)関東系のデベロッパーが関西で最初に開発分譲する、との触れ込みで人気が高かった。
 私達夫婦が、販売予定日の3日前に当地を見に来ると、なんと、数日前から購入希望者の行列が始まったというではないか。驚きあきれながら行列に参加することになった。180番位の順位札を貰った。商店街のいくつかの店舗予定地にムシロが敷かれ、行列に割り当てられた。朝、昼と夕方に点呼があった。要領のいい人は学生アルバイトを雇って点呼に対応していた。そんな準備がない私達は、昼間は妻が張り付き、夜は夫婦共雑魚寝をして、私も2日ばかりここから通勤した。
 土地購入後、いろいろな建物展示会場を見て回ったが、結局、Sハウスのプレハブ軽量鉄骨を建てることにした。本格木造建築の風格には及びもつかないが、何よりも比較的低価格で、かつ、間取りが自由に決められるというのがメリットだった。
 さて、土地・家の購入は一生で最大の買い物といわれるが、私がツキに恵まれたことになるのは、その数年後に発生した2度のオイルショックによるインフレだ。予想外のベースアップのお蔭で、重くのし掛かっていた住宅ローンの返済がほとんど苦にならなくなった。
 このような次第で、わが家は築後35年程になるが、後20年位はお世話になるつもりで、最近、屋根・外壁・浴室・台所等のリフォームをやった。
 ところで、私としてはこの家を終の住みかとして、その直前まで活力を維持し、「生きてきてよかったなぁ」と感じながら、まわりに「ありがとう」と言ってお別れができれば、と思う。古人のいう「畳の上で死ぬ」ことの真意は、わが家での、このような穏やかな死を意味しているのではなかろうか。

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【年齢】(平成17年6月20日)   
 未見の我       
 私は、現在67歳。従って、3年後に古希、10年後に喜寿を迎えることになるが、その時の自分をなんとか好きになりたい。
 どんな自分が好きか、と何度か自問自答を重ねた末に、「夢を実現した自分」ならば好きになれそうだ、と一応思い至っている。
 平成12年4月に心斎橋大学へ入学した際の私の100文字自己PRは、
 「私は少し碁が打てる。といっても、府県代表クラスには届かない。そこで、私の夢は文壇本因坊になることである。そのためには文壇デビューをして出場資格を得なければならない。心斎橋大学に賭けることにした」
というものである。
 今、改めて自分が何を望んでいるのか、と問うてみると、結局は目立ちたがり屋の自分がいるだけのことに気付くのだが…。
そんな自分の夢を目指して自らを駆り立てている原動力は、周囲の環境・出来事についてのそれなりの好奇心と向上心であろうか。
 そして、やる気を持続・増大させるために意外に効果があるのは、他人からの率直で、しかし好意的な意見や感想だ。そのためには、周囲に夢を語っておくことも有用だと思う。このようにして、なりたい自分を目指しておれば、今まで知らなかった自分(未見の我)との出会いの可能性もありそうに思える。
 だが、家人は、「あなたが小説なんて書けるはずがない。甘いねぇ…」とそっけない。

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【ハプニング】(平成17年5月23日)
  料理事始め
 今年の3月から5月まで、週1回延10回の料理講習に参加している。この講習は、T大学とO社とが共同で行う「調理習慣と脳の活性化についての実証実験」であり、私はその被験者の一人である。
 被験者は、
 ・基礎の調理技術を修得するために、週1回延10回の料理講習に参加する
 ・自宅で1日15分・週5日以上、3ヶ月にわたって調理に取り組む
 ・調理の実践について料理メモの提出
が義務付けられており、実験の開始前と終了後に脳機能検査を受けて、その効果を確認されることになっている。
 第1回目のレシピは、「カレイの煮付けと菜の花の辛し和え」だった。最初全員(23人)に対し、20〜30分間当日のレシピの説明があり、それを3〜4人のチームで調理する。食材は準備されているし、アシスタントもついてくれるので、難しいことはほとんど無い。調理が済んで盛り付けが終わったら試食する。
 数日後、近所のスーパーでカレイの切り身や小松菜、菜の花等を買ってきて、始めて自宅で復習した。案外簡単に、講習時と同じような味に仕上がった。
 作った料理を息子夫婦に届けると、嫁が目を丸くした。一口食べて「ワァー、おいしい」といってくれた。少し得意になった。
酒の肴を一皿増やしたいという位の気持ちで講習に参加したのだが、褒められるとやる気が出てくるから不思議だ。
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【終わり】(平成17年3月28日)
 「終わりよければ、すべてよし」
3月2日に妻の父が亡くなった。享年97歳。 最近の老人治療では、自力で咀嚼が出来なくなったら食道に管を通す、それも無理になったら胃に穴を開けて直接栄養剤を流し込む方法(胃瘻)が、しばしば行われるという。
義父の場合は、もし、自力で嚥下が出来なくなった際には延命治療までは行わない、と本人と身内の者達でずっと以前に協議して決めていた。これは賢明な措置だと思う。
と、いうのは、義父は、最後まで自力で嚥下はしていたものの、浅い眠りから覚めた時などに、数年前に亡くなった自分の妻(義母)が「見舞いに来ない」とつぶやいていたからボケ症状も出始めていた。このような患者本人に健全な判断能力が無い状態のもとでは、関係者間だけで延命治療をうち切ることを決断するのはなかなか難しいと思う。
さて、自分も、当然ながらいずれその時を迎えるが、今わの際には「生きていてよかった。ありがとう」と、周囲に言ってお別れをしたいと願っている。
そのためには、これからもその時までに「生きていてよかった」と思える出来事を積み重ねておきたいし、そして、何よりもその時の直前まで、周囲に感謝の念を伝えられるような心身の状態を維持し続けたいものだ。
そのようにしてこの世から去ることができれば、本当に「終わりよければ、すべてよし」と言えると思うのだが…。

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【変化】(平成17年2月28日)
  「初孫」       
最近の数年間で身の回りの変化といえば、家族(親族)が増えたことだ。
平成14年10月に長男が、翌年10月に二つ違いの次男が結婚して家を出た。
昨年3月に長男夫婦が第一子に恵まれた。私にとっては初孫で、現在11ヶ月になる。
長男の結婚式の披露宴で、「オレに似た孫を作れと無理をいい」と心境を川柳に託した処、まもなく身ごもった嫁は、「もし、男の子ならお父さんの名前の一字をいただきます」と言っていたが、幸か不幸か初孫は女の子だった。女の子の場合は、息子が命名することにしていて、「響子」と決めた。何でも産声が大きかったことと、最近は「子」の付く名が少ないことがその理由という。
先日、長男一家と顔を合わせたが、孫を抱きとろうとすると、こちらの顔を疑わしそうにじっと凝視して、やがて顔を歪めたかと思うと泣き出して、母親にすがりつく。
まだ歩けないが、ベビーベッドの柵に掴まり立ちをして、手を振ったり、拍手をしたり、名前を呼ばれるとバンザイをして喜ばせる。
音楽が聞こえると腰を振って反応している。
こんな孫を見ていると、過去・現在・未来への血のつながりの不思議さを思う。
そして、これからの10年後、20年後は、どんな世の中になっていて、孫はどんな風に育っていくのかなと興味深い。それを健康で確かめられるのならば、しくはないが…。

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【最近の出来事】(平成17年2月14日)
  「アーユボーワン」   
先日、JICA(国際協力機構)青年招へい事業の参加研修生として、スリランカの女性が、ホストファミリーのU夫妻と一緒に我が家へやって来た。
玄関で迎えた時、シンハラ語(インド・アーリア系民族の言葉)で「アーユボーワン(こんにちは)」と言うと、黒い瞳を大きく開けてにっこりとして「オー、アーユボーワン」と同じ言葉が返ってきた。
居間の掘り炬燵に招き入れて、
「ナマ モカク ダ(お名前は?)」
「マゲー ナマ ウシャニ(ウシャニです)」「マゲー ナマ カワグチ(川口です)」
と、双方が自己紹介をすると、U夫妻は、2泊の宿を提供したものの、ずっと英語で応対していたので「参ったなあ」と苦笑した。
ウシャニさんは、高校の数学と化学の先生で、一児(11ヶ月)の母である。子供を主人と母親に預けて、今回の海外研修に参加した。
彼女は、流暢な英語で「スリランカは、『光り輝く島』という意味。今度の津波被害で有名になってしまったが、緑豊かな国で、紅茶、宝石、スパイスの産出国。アジアで最も男女平等が進んでいて大学入学者、医師国家試験合格者等は女性の方が多い」という。
帰りがけに、彼女がお礼を言うので、「ホンダイ(どういたしまして)」と返すと「アーユボーワン(さようなら)」と丁重に挨拶をして、手を振りながら帰っていった。

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【無題】(平成17年2月7日)
  「甘酒とワサビ」    
寒い日が続いた週末の昼下がり、缶入り甘酒が目に入ったので家人に所望した。
手鍋に移して温め、少し大きめのコップに注いだ後で、家人は「あっ!ショウガが無いわ」と、すまなさそうでもなく言った。
「しょうがない」と駄洒落を言い、ふと思いついてワサビを入れてみることにした。
「気持ち悪いわ、ワタシは結構。でも、小さいコップで試してからにしたら…」
そこで小さいコップで試してみると、甘みの中にワサビ味が程よくミックスしている。
「ウン、いける」、「本当?」
大きめのコップにたっぷりワサビをいれた。
「オマエは相変わらずアタマが固いわ」
「石頭は英語で何と言うんやったかな…」と、家人は話題をはぐらかして電子辞書を見ている。最近英会話に凝っている家人はこまめに辞書を引くようになった。
「石頭は hardheaded personだって…」
家人は、私がうまそうに飲むのを、まだ疑わしそうに見ていたが、「ちょっと飲ませて」と、一口含んで「フーン」とだけ言う。
素直にうまさを認めるのが悔しいらしい。 飲み干した私は、
「これからはショウガよりワサビにする」と自信を持って宣言した。
「ワタシの買い忘れも役に立ったね」と、負け惜しみを言って、家人は、しぶしぶ私の新発見を認めた。

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【初】(平成17年1月17日))
  「珍しい地図」     
クライストチャーチ(ニュージーランド南島)の免税店で珍しい地図を見つけた。それは、南半球が上に、北半球が下に描いてあるつまり、南極やニュージーランドが上方にあり、北極や日本が下方にある。
B&B(簡易宿泊所)の女主人に見せると目を丸くして驚いた。初めて目にしたらしい。
以前、ある企業経営者が、この種の地図に言及して「発想の転換」の必要性を説いたことがあった。要するに、我々が常識と考えていることが、時と場所が違えば、必ずしもそうではないという例として、このような地図を例に挙げたのである。
しかし、南半球においても、通常使われる地図は、やはり北極が上で南極が下に描いてある。
上下反対の地図は、観光客用のみやげ物として、珍しさを狙ったアイデア・マンが開発したものらしい。
ところで、太陽は、南半球でも東から昇って西へ沈むが、日当たりは北向きの敷地の方がいい。
B&B周辺の敷地でも、大抵北側に庭があり、バラの花や豊かな緑が多い。家は平屋がほとんどで2階建てはごく稀である。
今回(16年12月)は南半球への初めての旅だったが、そこでは、木も家も人間もごく自然に北半球とは反対向きに立っているのは不思議といえば不思議なものである。

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【平成16年度修了制作】(平成17年1月15日)   
  「留学生の覗いた日本」 
私は、タンパニッチュ・ナットです。現在、大阪大学経済学部研究科に在籍しています。 国籍はタイ王国で、先祖は中国広州出身の華僑です。24歳で干支は酉(十二支はタイも同じ)なので、今年(05年)は当たり年です。 昨年4月、タイ駐在日本大使館 推薦の留学生として来日しました。
私が留学先として日本を選んだ理由は、昔から日本とタイとは皇室も含めて友好関係が続いていること、経済大国として世界をリ ードしている日本人の考え方や日本文化を勉強したかったからです。
日本語については、3年前に交換留学生として国際キリスト教大学で10ヶ月程学び、今回の来日以来、大阪大学で4ヶ月間日本語研修コースを履修しました。
この研修コースでの最終報告会(8月初)で私の選んだ発表テーマは、「バブル崩壊後の日本と景気対策」でした。
日本経済は、いわゆる土地神話の崩壊によってバブルが崩壊した後の90年代から現在に至るまで、依然として長期不況に陥っています。景気が回復しない主な原因の一つは、銀行の「不良債権処理」の遅れと考えられます。
政府は、銀行に対して、「公的資金」を注入し、また、景気対策として減税と公共事業を柱とする施策を講じました。日銀は、ゼロ金利政策、(金融機関への供給資金の)量的緩和を行いました。一方、少子高齢化の傾向が進み、労働力不足→財・サービスの供給不足→輸入依存→貿易収支赤字→内外価格差によるデフレの発生という問題が生じました。政府は、歳入減と歳出増に対処するために国債を発行していますが、その発行残高は220兆円を越えました。この様な次第で、景気対策は成功とはいえませんが、最近の経済指標では良くなる兆しも見えて来ていると思います。
報告会の前に、ホスト・ファミリーの川口夫妻から、冒頭の切り出し方、言葉遣い、時間配分等についてアドバイスを受けました。
発表後の指導教官の講評は「日本経済について、聞き手にとってわかりやすい発表です」ということでほっとしました。
私は、現在奨学金として、月17万5千円程支給されています。タイの法定最低賃金は、1日170バーツ(約500円)ですから、奨学金としては随分恵まれていると思います。
宿舎は留学生会館(吹田市)で、自炊しています。スーパーでブタ肉、トリ肉、魚介類、野菜等を買っていますが、店員さんは親切で愛想がいいと思います。
買ってきた食材をフライパンで炒め、タイのピリ辛ソースやナンプラー(魚醤油)をかけて食べます。昼食用の弁当も作ります。
日本食では、すしが一番口に合いますが、わさびが苦手なので取り除いて食べます。
来日して感じたことは、日本人は勤勉で、公共道徳心が高いということです。タイ人は、米、野菜、果物等に恵まれているためか、あまり熱心に働かないように思います。また、時間を守らないし、公徳心にも欠けています。例えば、電車の中で大声で話したり、町中の道路にはイヌの糞が転んでいたりします。
しかし、女性の社会進出とか男女平等といった点では、タイは案外進んでいると思います。タイでは、大学の学部長等にも多くの女性が就任しているし、家庭では男性がよく家事に協力をしています。
日本の歴史では、平安時代がすばらしい。奈良時代は中国の模倣でしたが、平安時代に「かな」文字が発明されて、日本独自の文化が開化したと思います。それで、私は、奈良よりも京都の寺院のほうが好きです。特に東寺の菩薩像等を見ると心が安らぎます。
先日の大晦日に初めて実際に雪を見て寒さを忘れました。夜中から元日にかけて、京都の八坂神社へ初詣に行きました。
タイの正月は4月ですが、初詣の習慣はありません。ただ、九つのお寺巡りをする人達がいます。タイでは「9」という数字は縁起が良くて、「前進・発展」を意味します。日本の七福神巡りと似ていますね。
ところで、タイでは、僧侶の社会的地位が高く、王様でも僧侶には頭を下げます。そして、一般市民(男性のみ)も、得度式を経て数ヶ月間僧侶として読経や托鉢等の修行をする風習があります。この修行をすると一人前と認められ、親孝行にもなるとされています。
それで、私も今年の春休みを利用して、父と同じお寺で得度式を受けて、お釈迦様の教えを学びたいと思っています。
実は、今年の後半からアメリカへ留学する予定になっています。今度はタイ政府から奨学金を貰います。研究テーマは「タイ経済における貿易の役割」です。 
アメリカから帰国後は、少なくとも四年間は公務員になることが義務付けられていますが、日本とアメリカの良いところを取り入れて仕事をしていきたいと思っています。

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【嘘】(平成16年11月8日)
  「フィクション」    
「事実は小説より奇なり(イギリスの詩人バイロン)」といわれる。
実際世の中には、よく仕組まれた小説よりも思いもよらぬことが起きる。例えば、先日の新潟地震の際92時間後の2歳の男子の生 還、3億円宝くじ当選等々。
しかし、今までの自分の人生では、良くも悪くもそのような奇跡的な出来事には全く縁が無い。
ところで、直木賞等の受賞者の経歴を見ると、多額の借金を賞金で返した人、転々と職業を変えた人、女性遍歴のすごい人等々、「小説より奇なり」を地で行っている人が多い。
それにしても、作家という人種は、よくもまあ見てきたように虚構の物語が浮かぶものだと敬服する。
例えば、最近読んだ「蒼穹の昴(浅田次郎)」にしても、中国清の西太后慈禧 の生涯についての作者の構想力には恐れ入る。当然ながら、とてもマネは出来そうにない。
だが、「嘘がつけないとウツになる(酒井和夫ベスト新書)」そうだが、それならば、ウツでない(と思っている)私は、下手な嘘くらいはつけるはずだ。
すると、もっともっと上手に嘘をつく工夫をすれば、ひょっとして、そこそこのモノは書けるのかもしれない、と楽観的に思う。
家人は「浮気がばれたときの上手な言い訳の仕方でも考えたら…」と言って笑う。

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【紀行文】(平成16年10月18日)
   「三国志史跡巡り」
 平成14年7月下旬、中国の長江三峡下りと三国志ゆかりの白帝城・赤壁をたずねるツァー(8日間)に参加した。
 上海から重慶まで国内航空で2時間余りのフライトであ)る。陸路だと44時間かかる。
 重慶から北斗号という船に乗り、2泊3日で長江を下る。北斗号は3900トン、船室は通常のホテル並で、ほとんど揺れもない。
 最初の夜の船長主催のウェルカムパーティで、関空から一緒だったM子さんとK美さんのペアと同じテーブルになる
(以下敬称 略)。 M子はルノアールのモデルを思わせる色白でふくよかな風貌、一方、K美は楚々として目元が涼しい。K美はビ ールを飲み、M子  はウーロン茶を飲みながらでの相互のやりとりが、当今の若い女性らしからぬ丁寧な言葉遣いで傍目にも 感 じがいい。 
 「お二人は飲み友だちでもないようだけど…」と声を掛けると、二人は一瞬顔を見合わせて、K美が「私達、ネット友だちなんで  す」という。三国志関係のホームページの掲示板を通じて知り合い今回が2回目のペア旅行という。
 好きな武将は、K美が「周瑜。呉の建国のために欠かせない武将です」、M子は「メジャーでないけど、徐庶。母親孝行で、劉備 に諸葛亮を推薦しました」と即座に答える。
 二人とも、三国志については、相当造詣が深いことが伺われる。私はといえば、十八史略物語の拾い読みと、最近、「三国志」 (北方謙三著)を読みかけている程度でしかない。
 そこで、早々にかぶとを脱ぎ、二人の魅力的な軍師に教えを請うことにして、入門を依頼し快諾を得た。
 クルーズ2日目の朝、ランチに乗り換えて白帝城へ上陸。
 九百段の階段があるが、割合歩きやすい石畳みで約30分の行程。噂に聞く程ではない。 白帝廟の門をくぐると正面に「托孤  堂」があり、劉備が諸葛亮に「後事を托す」塑像がある。
 白帝城には、劉備・諸葛亮の戦いを描いたタイル画がたくさん展示されているが、K美は、漢文の注釈を見ながら、「これは、劉 備が大敗北した夷陵の戦い」で、「右が陸遜と朱然、左が劉備を助ける趙雲…」、等と流暢に説明をするものだから、いつの間 にか人だかりがして本物のガイドが驚く。
 午後は長江クルーズのハイライトである三峡(瞿塘峡、巫峡、西陵峡等)を巡って、夕刻、三峡ダムの工事現場横を通過する。
 ダムが完成すると、100米程水位が上がり、この付近一帯の景観は一変し、白帝城の階段もほとんど水没するという。
 クルーズ3日目、若き軍師二人から、デッキで涼しい風に吹かれながら教えを受ける。
 K美は、「陳寿の『正史』を少し読んだので、『演義』系の吉川『三国志』よりも、正史にかなり忠実な北方『三国志』の方が好き  です」とサラッという。
 M子は、「小説は小説として面白ければいいんで、私はあまり正史にこだわりません」と、おおらか。
 沙市で下船して烏林へ向かう。烏林は曹操が陣を構えた所。ここから小船(地元民の連絡船)に30分程乗って長江を横断し、対 岸の赤壁へ渡る。救命具なし、雨模様で少し波があってスリリング。
 曹操軍の船団が、孫権・劉備の連合軍の「火攻め」に遭って岩壁が赤く映えたという赤壁であるが、実際の現場は、赤い字で
 「赤壁」と書いてあるだけで少々あっけない。
 広場には、高さ9米の周瑜像が長江へ顔を向けて立っている。
 K美は、贔屓の周瑜像に対面して、「ヒゲがなくてやっぱり周瑜んはいい」、「湖北省最高的人物像」の紹介文も気に入った様子。今回の参加者は、このツァー(普通のツァーは赤壁は企画しない)を選ぶだけあって、それぞれ三国志に一家言を持っていて、  いい刺激を受けた。特に、K美・M子さん、ありがとうございました。

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【あの時(2)】(平成16年9月27日)
  「ここで死の(う)か」
   「お母ちゃん、ここで死の(う)か」
  と7歳(当時)の私がボソっと言った。
  昭和20年7月3日深夜から4日早朝にかけて、姫路市は2回目の空襲を受けた。その時の逃避行でのことである。
  自宅は姫路城の東南1キロ余の処にあった。少し北の東西に走る国道2号線まで逃げてきた時、既に北方と南方は燃えてい  た。
  母は、実家のある西方向へ乳母車(4歳の妹が乗っていた)の向きを変えようとしたとたん、乳母車の車輪が鉄線に絡まった。
  前月の1回目の爆撃で被弾した陸橋の残骸に引っかかってしまったのだ。
  母は焦った。もがいている姿をあざ笑うかのように西方にも火の手が上がった。
   「ウァー、どないしょう…」
  途方に暮れた母だったが、子供の「死のか」との声に、
   「アホ!こんなとこで死んでどないすんの」
  と怒鳴りつけ、必死で乳母車を東に向けて、親子は唯一の暗い方向へ逃げた。
  30歳過ぎで戦争未亡人になった母は、
   「お父ちゃんの50回忌までは死なれへん」
  というのが口癖だったが、空襲の話になると、
   「あの時、アンタに『死のか』と言われて一遍に背骨がシャンとした」
  と述懐した。  
  死ぬことの意味を知らない子供の一言が、めげそうになる大人に生きる力を与えた。
  あの時から60年、いま私は「どのように死ぬか」を模索している。

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【あの時】(平成16年9月13日)
  「ビギナーズ・ラック」
  ふとした出会いがその後の人生の彩を変えることがある。
  私の川柳とのつきあいも、ほんのちょっとしたきっかけと幸運から始まった。
  母は、生前短歌に親しみ、妻は、「お義母さんとは別のもの」と俳句を始めていた。
  そこで、私は、漠然と「川柳をやろうかな」と思い始めていた矢先、平成7年12月頃、川柳作家時実新子さんのご講演を聴く機  会があった。講演会の直後、たまたま日経新聞の川柳募集記事が目に留まったが、その日が締め切り日の最終日だった。
  その時応募した句が、平成8年1月1日付の同紙にかなり大きく掲載された。まさにビギナーズ・ラックという他はない。
  そして、丁度その頃創刊された川柳雑誌に毎月投稿を続けることになり、入選句が掲載されるのを楽しみにして今日に至って いる  あの時、講演を聴かなかったら…、あの時、入選していなかったら…、多分、私の川柳との縁は深くはなっていなかった と思う。
  もっとも、当時から関心のある分野に向けては、自分なりのアンテナを張っておくようにはしていた。それが、川柳との出会いに ついて功を奏したことになる。
  たまたまと思える出来事も、「アンテナを張っておいたおかげ」とすると、やはり「蒔かぬタネは生えぬもの」だと思う。

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【あの人】(平成16年8月30日)
 「R子」
 R子から「神戸市展で入選しました」とのメールが届いた。遠慮がちに「もし、都合がつけば見に来て下さい」とある。
 今年の3月20日11時頃、会場で落ち合った。
   「去年の尼崎市展の時とは画風が変わったんと違うん?明るなったなぁ」
   「ウン、ちょっと意識して変えたんよ」
   「題は『ありふれたこと』か…」
   「7〜8人の人達のありふれた幸せとか、退屈を描いたつもりなんやけど…」
 昼食の時、イタリアワインを「誕生日と入選のお祝いや」といって渡した。その日は、R子の誕生日だった。
   「ワインが好きなことを覚えててくれてありがとう。ところで、アンタの創作の方はどうなん?」
   「書きあぐねてる…」
   「ときめくような恋をしたらエネルギーが湧くのんと違う?」
   「同感やなぁ」
   「でも、アンタは昔から優等生で行動力がないからはがゆいわ」
 数日後、R子から、いかなごのくぎ煮が届いた。「意外に家庭的なんで見直した」とお礼のメールを送った。
 R子の返信には、「真面目で、ありふれた主婦ですけど、『らしくない』生き方にもあこがれてます」と書いてある。
 R子は、数年前にガン手術を受けて後、「らしくないこと」からエネルギーを貰ってガンを克服しつつある。
 本人は色黒を少し気にしているが、すっきりとした一重瞼で笑うとえくぼができる。
 共に60歳代後半を迎えた。これからの人生を、お互いに大切にしような!
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【近江商人の理念】 (平成16年7月15日)
 「三方よし」に学ぶ                
  20世紀はモノ、21世紀はココロの時代といわれて久しい。  20世紀は、その前半は戦争、後半は工業化、高度成長、バブル 崩壊、不況定着、不祥事多発といった現象の中で、日本人(社会)は大切な何かを失った。
  「不易流行」といわれるように、時代を経ても変わらぬものと、時代と共に変わるものがあるはずだが、日本人(社会)は、20世 紀のモノの時代を通じて、不易のココロを忘れたのではないか。
 ココロとは何か。それは社会的存在たるヒト(個人)や組織(国、自治体、企業、学校、病院等)の徳・品性といってよい、と思う。 さて、M自動車工業(株)は、今や欠陥車ではなく欠陥社とまで酷評される。 かつて、同社の経営理念は、「いいモノを長く、オー プンでクリーン、処事光明」というすばらしいものであった。  
  ところが、2000年7月クレーム隠しが発覚し同年11月、当時のK社長は引責辞任して相談役に退いた。
  しかし、このリコール隠し事件発覚後も、92年7月の山口県で起きたクラッチ系統の欠陥については、上層部が、リコールを見送り、違法な「ヤミ改修」で対応する従前からの方針の継続を指示したという。 K元社長が業務上過失致死容疑で今般(去る6月10日)逮捕されたのもむべなるかなと思う。  
  2000年に策定された同社のミッションには「お客様にワクワク、ドキドキするクルマ、心のこもったサービスを提供しよう」とある。しかし、現在の同社のホームページの冒頭には、現社長名で、「元社長逮捕」(6月10日付)、「横浜地検による当社起訴についてお詫び」(5月27日付)記事が掲載されている。  
  何とも空しい。経営理念が、単なる外向けのPR文句に陥っていて、組織内部(特に経営者)の行動基準として全く機能していない。 経営理念こそが企業のココロである。その表現は企業によりそれぞれ多岐にわたるが、意図するところは不易のココロであろう。  
  ここに我々は、歴史を学び、先人の知恵に学ぶ意味がありそうである。 我が国には、近江商人という商業の先駆者がいる。 その起源は、遠く鎌倉時代にさかのぼり、戦国時代、徳川時代を通じて、日本各地にその活躍の場を求め、時に海外へも雄飛した。更に、幕末・維新の激動期をもくぐり抜けて、現在の総合商社や多くの老舗企業の礎を築いている。
  近江商人の経営理念に普遍性や先見性があることは、幾多の異なる政治体制と対応しながらも、その系譜を引く企業が今尚数多く存続していることからもわかる。
  従って、近江商人の経営理念には、現代につながる商業の原点があるといっていい。 その中で、とりわけ「三方よし」の精神、つまり、「売り手よし、買い手よし、世間よし」という考え方は言い得て妙である。  
  「売り手よし、買い手よし」までは誰にでもわかる。双方の利害が一致しなければ、取引が成り立たないから当然のことではある。
  これに「世間よし」と同格で続くのが近江商人のすごいところである。生産者も消費者も含めて、世間(社会)全体がよしとしなければ、取引の永続性は期待できないという。  
  250年前、中村治兵衛が遺した家訓は、現代の企業の在り方そのものである。  
  企業の社会的責任、コーポレートガバナンス(企業統治)等の用語は、「三方よし」の精神の現代語訳といってよい。
(社団法人仙台中法人会機関紙「せんだい」Vol.284)
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【楽】(16年7月12日)
「愛すること」     
  「愛することは楽しむことだが、愛されることは楽しみではない」これは、ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉だが、その種の経験が乏しい私にはよくわからない、と常々思っていた。
  先日、漫画界の大御所杉浦幸雄さんが亡くなった。その追悼文のなかに「杉浦さんは『僕は何度も女に惚れました。でも恋愛したことはないんです』…」とある。そして、杉浦さんの口癖は「嗚呼、楽しきかな人生」だった。
  「惚れる」≒「愛する」とすると、杉浦さんの生き方は、アリストテレスのそれと同じではないのか。少し分かったような気になったが、それにしても「惚れる(愛する)」が、何故「楽しい」のか、やはり分からない。
  一方、ゲーテは「人は、ただ自分の愛する人からだけ、学ぶものだ」という。
その意味は、「惚れ込む人からでなければ情熱も湧かず、従って本当に大事なものは学べない」ということらしい。
  どうやら「学ぶ」と「愛する」と、そして「楽しむ」とは、密接に関連しているようだ。
  つまる処、先哲のいわんとすることは、「惚れて、情熱を持って学ぶことが、楽しみにつながる」ということであろうか。
  私の今後の人生の過ごし方も、杉浦流の「惚れて、楽しきかな」をモットーにしたいと思う。もっとも、「惚れられる楽しみ」にも大いに魅力はあるが …。
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【哀】(平成16年7月12日) 
「アダルトサイト」
  新聞の人生相談欄で30代の主婦が「夫が、インターネットのアダルトサイトの画像を深夜早朝に眺めている…夫の心理が理解できず、心が寂しい…」と訴えている。
  回答者は、作家のT・Kさんだ。曰く夫は仮想空間で遊んでいるだけです…夫は正直ともいえ、幼児的ともいえます…」
  読んでいて「夫の心もわかる」としながら「幼児的」という回答者の表現に引っかかった。私ならこんな風にアドバイスしたい。
   「あなたの夫は仕事にも意欲的だし、家族も大切にしているので、エスカレーターで手鏡を使って覗き行為をしようとした著名なエコノミストUさんなんかよりはるかに健全です。アダルトサイトには女性向きコーナーもありますのであなたも一度のぞいて見られたら…」
  とはいえ、最近のアダルトサイトでは局部モロ出しの鮮明な画像があるわ、あるわ…。
  音響付きの動画もある。その迫力に引き込まれて、私も暫く仮想空間で遊んだ。 
  しかし、同じ様な画面を見続けると、そのうちに厭きてくる。
  「歓楽極まって哀情多し(漢武帝)」とは、酒池肉林の宴の後での実感であろう。五感を堪能させた歓楽でさえ哀感を伴うのである。   まして、仮想空間での視覚と僅かに聴覚だけの刺激等、むなしさとある種の後ろめたさだけが残ってしまう。
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【怒り】(平成16年6月7日)  
  「リコール」
 「またもM自動車から国土交通省へのリコール届け出」との6月3日付新聞記事が目に留まった。2日に公表された26件とは別の欠陥、とある。
 少しばかり気になるので、同社のホームページを調べた。所有の車体番号を入力するとリコール対象か否かが検索できる。
 予感は当たった。平成10年の暮れに買って、現在は次男が乗っている車種が対象になっている。もっとも、「方向指示器の電球内部のオレンジ色の塗装材料の耐久性が不十分なため、使用を続けると方向指示器のの色が落ちて無色になってしまう」とのことなので、さしあたり緊急性はない。
 しかし、今回の届け出は、経営陣の刑事事件にまで発展したタイヤ脱落等の欠陥隠しから、いわば、いもずる式に届け出されたものである。もし、M自動車の隠蔽体質が続いておれば当然ながら頬かむりされたまま放置されたであろう。そして、そのうちの何件かは、ひょっとして次男が、交差点での右・左折時の事故に遭遇したかもしれない。
 組織が、信用を守ろうとして都合の悪い情報にふたをしようとするのは、内部告発が常態化した社会では、結局は大きく信用を失うことになる。
 近江商人の「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」の精神を、現在の大企業も改めて学ぶ必要があろう。
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【喜び】(平成16年5月24日】 
 「ハ・メ・マラ」
 私(66歳)の余命は、統計的には、後17年程(83歳)となっている(平均余命表)。
 さて、80過ぎまで生きるとして、当然ながら健康でないと周囲に迷惑をかけるし、第一、自分が楽しくない。
 そこで、健康目標として、80-20運動(80歳で20本の歯を残す)、老眼鏡無しで本を読む、足腰を丈夫に保つこと等を目指している。
 その為に、就寝前に15分間、歯間ブラシでゴミを取り、歯茎をブラッシングする。行きつけの歯科医は、そのようにして歯周病を予防すれば、20本は残せるという。
 目の運動としては、眼球をグルグル回して毛様筋(水晶体の調節筋肉)に刺激を与える、ときどき遠景へ視点移動する等を心掛ける。
 そして、毎日の生活ではなるべく歩き、ゴルフ・コンペにも積極的に参加する。
 平たくいえば、俗にいうハ(歯)・メ(目)・マラ(摩羅)の機能維持のために、密やかで涙ぐましい努力を試みている。
 その訳は、その様にして60代後半から80歳過ぎまで健康を維持し、かつ、諸事に好奇心を失わず、異性への関心と恋心をも持ち続ければ、新人文学賞も夢ではない、と信じているからである。
 私にとっての喜寿(77歳)は、そんな夢を実現させて、文字通り「長寿を喜ぶ」ものでありたいと思っている。
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【自由課題】(平成16年3月15日) 
 「太田知事はんへ」
  土俵の上での知事賞授与の件でっけど、今回も仕切り直しになったそうで、相撲ファンのわたいもほっとしてます。
  ただ、今年は「知事を土俵に上げないんなら、府は知事賞(約50万円)の差し止めをせなあかん」という府民からの監査請求に対し、監査委員はんが「差し止めを検討しなはれ」というきつい勧告を出さはりましたなぁ。
  なんでも府では、これまで公金返還などの監査請求があった場合、それについての勧告(12件)には全部従ってはるんでんな。お役所で前例を破るのは勇気がいりましたやろ。
  そうでっか、北の湖理事長はんが、「入場者にアンケートすること」を約束しはったんでっか。ともかく知事賞を続けてもらうことになったんで春場所の混乱はおまへんなぁ。
  ところで、知事はん、これからのことで折り入って相談がおますねんけど…。
  すもん取りは本場所以外でもマゲを結い、冬でも浴衣で歩く、男だけの特殊な世界でっしゃろ、昔から男女の区別は あるところにはおまっせ。ひな祭りは女の子の節句ですわな。トイレも風呂も別々やし、この頃は女性専用車もできてますなぁ。  そやったら、土俵は男だけの世界に残しておいてもろてもええのんとちゃいまっしゃろか。
  エッ、知事はんが穢れてはるなんて、そんなこと滅相もおません。
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【小さな疑問】(平成16年3月8日)
  「イヌの気持ち」           
  最近、私の住む団地でもイヌを飼っている家が多い。休日などに家を出ると、たいていイヌを連れて散歩している人に出会う。
  ペットフード工業会の調査によると、現在日本では約千百万匹のイヌが飼われているという。ほぼ東京都の人口に匹敵する数のイヌが飼われていることになるから驚く他ない。
  私も子供の頃は、イヌを飼っていたから嫌いではないが、毎日の世話や不在時のことを考えると、当分の間は飼う気にはならない。
  ところで、イヌは飼い主に忠実でよくなつく習性があるが、どの程度の感情表現をするものなのだろうか?
快・不快や喜怒哀楽は、かなり明確に態度で示すのでわかる。嫉妬心もあるようだ。
  しかし、人を恨むことはしないと思われる。南極の昭和基地に置き去りにされたタローとジローは、元の飼い主に1年ぶりに再会したとき、単純に喜んだだけである。
  又、ホームレスさんに飼われたイヌが、我が身の不幸を嘆いたり、車に乗せられたよそのイヌを羨ましがったりはしないと思う。
  一方、ヒトは、しょっちゅう他人を恨んだり、羨んだりする。途方にくれて自ら命を絶つこともある。これらは大脳前頭葉の働きによるといわれているが、同じく細胞の塊でありながらヒトの脳だけが、何故そのような感情や意志を持つのだろうか?

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【大阪と私】(平成16年2月11日)   
「御堂筋」
  御堂筋は、いうまでもなく大阪のメインストリートであるが、その建設は昭和12年と聞く。当時の関市長(現市長の祖父)は、「船場の真ん中に飛行場を作るつもりか」と非難されたが、その炯眼のお陰で現在の大阪がある。
  私は、40年余りの会社生活の大半を淀屋橋、本町周辺で過ごしたが、中年になってからは、御堂筋を梅田から職場まで、原則として往復共歩いた。片道で30分余りかかるので、自宅から最寄り駅までの10数分と合わせて、毎日1万歩は歩くことにしていた。
  春先から初夏にかけてイチョウが芽吹き、新緑になる頃はいい。やがて梅雨になり夏ともなれば、朝職場に着くと汗びっしょりだ。
  特に、顔、首筋、背中等上半身がひどいので、下着とワイシャツの替えを用意しておいて着替えた。汗の出具合でその日の気温と湿度がまさに体感できた。
  秋になるとイチョウがだんだん黄色になり、時々銀杏の実が歩道にも落ちている。それらを横目に見て、川柳の投稿句を考えたり、ヒアリングテープを聴きながら歩いていた。
  バブル崩壊後は、沿道の銀行の看板が随分覚えにくいものに変わり、また、多くの支店が閉鎖されて跡地に新しいビルが建った。
  御堂筋は、私にとって、移りゆく四季や変わり行く世相を、肌で感じさせてくれる存在であり続ける。
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【もう一人の自分】(平成16年2月7日)
  「飲んだとき」
  「飲むと人が変わる」と嫌がられている人が時々いる。いわゆる酒癖が悪い人だ。
  私の場合、嫌がられるほどではない(と自分では思っている)が、やはり変わるようだ。 飲み会では、少し冗舌になる。舌が滑らかになり、ギャグが出やすくなる。
  素面では、自分から積極的に話題を提供するタイプではない。子供の頃から人見知りする方だった。
  飲み会の帰路、本屋に立ち寄ると、目についた本をつい5〜6冊買ってしまう。
  普段は、買ったままで未だ読んでない本が無くなれば、次を買うように努めているのだが、アルコールが入るとおおらかになる。
  しかし、翌日、以前に買っていた本とダブって買ったものもあることに気がついた時は実に不愉快だ。
  ところで、飲んだときの発想が全部悪いというものではないと思う。
  そこで、飲み会の帰路の電車の中では、当日の会話で気がついたこと、対人関係でのアイデァ、川柳雑誌への投稿句等思い付いたことをメモしておくようにしている。
  翌日読み返すと、実にくだらないものが多いが、たまには率直な本音が顔を出していて素面でも納得感があり採用可のものもある。
  それは、もう一人の自分の生の声であるといえなくもない。
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【わが至福のとき】(平成16年1月19日)
 「トクをした気分」
  能勢電鉄日生ニュータウンから阪急梅田までの直通特急を時々利用する。
  私は、平野駅(始発から三駅目)から乗車するので当然座れない。乗車すると、素早く、しかし、さりげなく目線を走らせて直ぐに降りそうな客の前に立つ。
  サラリーマンやOL風の通勤客は避ける。ダウンのコートやジャケットを着ている年配の男女がお目当てだ。
  彼(女)等が予想通り次の川西能勢口かその次の池田駅で降りると、「待ってました」という態度ではなくおもむろに座る。
  平野〜梅田間は30分余りなので立っていても耐えられないことはないが、座れるとトクをした気分になる。
  座ると、文庫本の続きを読むことになるが、眠くなって数分間ウトウトとして、「梅田…}のアナウンスに起こされることもある。
  そんなときは、アタマがすっきりして少しばかり幸せな感じで改札を通る。
  その他に最近幸せな気分になるのは、買った株が上がる、思わず頁をめくってしまう面白い本に出会う、傑作な川柳が浮かぶ、ゴルフや囲碁の試合に勝つ等である。
  ヒトは、期待通りにコトが運んでトクをすると幸せを感じる。今年は、応募した各種作品が入賞して賞金を稼ぐような経験をしたいものである。
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【産経新聞エッセーコンテスト応募】(平成16年1月15日)
  「天城越え」
  私のカラオケの十八番は「天城越え」である。石川さゆりさんの10年以上前のヒット曲だが、ご本人が度々テレビ出演して歌うので今でも陳腐化しないのがいい。     
  1番から3番までのさわりのフレーズ「あなたと越えたい天城越え」 の「あなた」の部分に同席している女性の名前を入れると案外受ける。人は誰でも名前を覚えて貰って呼びかけられると悪い気はしないらしい。
  友人が連れていってくれた初めてのスナック・バーで例によってママさんの名前を入れて歌ったところ、ママさんからの義理の拍手が大きかった。
  ママさんを憎からず思っている友人は、大いにむくれて、始めのおごってくれる約束を翻して勘定を半分持たされた。
  私は、以前カラオケが全く苦手だった。順番が回ってくるのがイヤでパスすることもあった。どうにも逃げられないときは、学生時代に覚えた「琵琶湖周航の歌」や「北帰行」等でお茶を濁していた。
  仕事が管理部門から営業部門へ変わってから2次会でカラオケ店へ行く機会が増えた。 一念発起して音楽テープを購入した。作曲家の先生が章節ごとにポイントを指導している。例えば、「天城越え」の出だしの部分
  「隠しきれない移り香が…」は、「歯切れよく伸ばさずに」とか、
  「恨んでも恨んでもからだうらはら…」は「ヤマ場だから思いを込めて」等々。
  購入してしばらくは、通勤時の車中や休日のウォーキングの際にはウォークマンを愛用してテープを聴いた。
  楽譜を見て直ぐ声に出せる器用な人がいる。私はとてもそんな芸当は出来ないので、テープをひたすら聴くことにした。
  歌を覚えることは語学の学習と同じだということがよく判った。要は、繰り返し耳を慣らして口に出すことである。
  カラオケ店での実戦経験も重ねると、前奏に続き遅れずに声が出るようになった。採点付きのカラオケ機でも高得点が出るようになって、だんだんカラオケが楽しくなり順番が待ち遠しくなってきた。
  といっても、素面で歌う気には絶対なれない。適度にアルコールが入ったとき、その発散のためにはカラオケで騒ぐのが健康的だ。
  次第に持ち歌も増えたが、ここ一曲となると、やはり「天城越え」である。
  石川さゆりさんの和服姿とアクションもさりながら、前奏に始まるメロデーや効果的な鼓の音を聞くと歌詞が口をついて出る。
  比較的難しい曲なので同行のメンバーとバッティングすることがほとんど無いし、コミュニケーションツールとしても好都合だ。
  「演歌」を覚えたお陰で、人前で歌うことに消極的であった私が積極的になった。
  とりわけ「天城越え」は私を変えた。
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【15年度心斎橋大学修了制作】(16年1月6日)  
 「パーソナリティ」    
  異業種交流会を通じての友人、高下慶三氏(以下敬称略)は、20数年来ビーガンベジタリアン(最も厳しい菜食主義)を実践している。
  その理由は、相互に違っているはずの人間なのに、同じ食事が身体によい、という栄養学の考え方に疑問を持っているからである。
  高下(昭和11年生)は、つとに法華経の教えに帰依し、その影響を受けて、「自分は何をする為に生まれてきたのか」のテーマについて、20数年間様々な角度から自分自身と向き合って、考え、体験し、探求してきた。 
  そして、その探求の旅は、死ぬまで続くとしながらも、現在、自律への教え(自分を救うものは自分しかない、という法華経の教義)を中核に据えて、女性を対象とするカラースクール(色彩専門教育機関)を主宰している。
  高下は、平成2年、従来から手掛けていた色彩教育事業を、さらに充実発展させるため、エッグ株式会社(大阪市西区 現在年商3億円)を設立した。
  バブル景気により思わぬ大金を手にした高下は、この不労所得は何かをするために天から与えられた、と思った。
  そして、バブル崩壊後は時代がどう動くかを徹底的に研究した。各種セミナーへ積極的に参加し、アメリカへも数回出かけた。
  そのなかで経営者向けのパーソナルカラーの講演が、受講者を魅了しているのが不思議に思えたが新鮮で興味を引かれた。
慎重な検討の結果、21世紀を女性台頭の時代と設定し、新しい時代における女性の在り方についての教育事業こそが、自分の生涯の仕事(使命)だと確信して新会社を設立した。
  社名エッグの由来は、「地球上の人類の生命の源は、女性の一つの受精卵(エッグ)である。」というにある。そして、「人類も自然の摂理により、宇宙のサイクルの中で生かされている」というのが同社の基本理念で、法華経の教義(悠久の宇宙をも説明している)を取り込んでいる。
                                 
  その事業内容は、多くの女性に「真の女性の役割、より女性らしい人格」の大切さを気付いてもらえる環境の創造、具体的には、女性を対象としたカラーアナリスト、カラーセラピスト講座の運営である。
  高下は、カラー分析を通じて、「客観的に自分を見つめる」、「自分自身の役割と使命に気付く」、「それらは、自分が出会う人々との縁の中でなされる」ことを説いて自己実現を目指す女性をサポートしている。
  高下は、各人のパーソナルカラー(肌・髪・目の色と潜在意識下の個性)を13タイプに分類した上で、「もし、生まれながらにしてその人だけが持つ『色(個性)』と『人格』に近づくことが出来れば、その人の『生まれてきた理由』、『この世での役割』が判る。」のではないかと考えている。
  その為に、色彩に対する深層心理分析や人間の発する波動を画像化する装置による解析を行い、心理学やカウンセリング手法を駆使して受講生の内面を追求している。
  最近、その手法を応用して癒しのための色彩心理講座、自分を変えることを目的としたマインドカラーセラピスト講座も開設した。 カラースクールの修了者は、開校以来2万人を超えるが、カラーアナリストとして「学んだことを人に伝え、学習を完結させる場」を提供するために、カラースクールの分室や教室を開設するシステムを用意している。

         

  又、高下は、人間それぞれが違うというパーソナリティ論から、摂取する食物についてもユニークな持論を展開し、実践している。
  つまり、それぞれの身体に合った食物を食べることにより、身体の全ての機能が活性化される、という考え方である。
  高下は、消化系・免疫系機構等の研究を徹底して行った結果、人間の身体には、有害な物質を識別して排除するすぐれた防衛機構があり(免疫系の役割)、人間が摂取する食物も異物としてチェックするが、その遺伝的要因(血液型)によって人の代謝機能には大きな差があることを知った。例えば、A型(祖先は農耕型)は、O型(同狩猟型)に比べて胃液の酸性濃度が30%も薄いのでステーキ(肉)の消化不良を起こしやすいこと等も体験した。
  高下は、自分(人間)の内面を見つめ、人との出会い(縁)を大切にする。そして、学んだことを自分の言葉で他に伝えようとする。
  又、自分の使命を果たすためには、身体の機能が活性化された状態を維持することが重要であり、そのために摂取する食物を自分の意思で選択すべきだ、との信念から、有機野菜と穀類を中心とする菜食主義を続ける。
  ひるがえって、私といえば、目標を決めてその実現に生きがいを見出すまじめなタイプではあるが、家人は「自分のことだけに熱心で…」と冷ややかに批判する。
  高下から見れば、私なぞ「縁無き衆生」という存在なのだろう。
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【私の重大ニュース】(平成15年12月15日)  
 「平凡な生活」
  師走に入ると、「喪中欠礼」のはがきが、かなりひんぱんに届く。
  同窓の友人が妻を亡くした。奥さんは、1年半程入退院の繰り返しで一進一退の病状が続いたそうだが、最後の1カ月間友人は仕事を辞めて病院へ詰めたらしい。
  そのたいへんな時期に幹事として同窓会の計画を進めてくれていたことが「欠礼」の通知で判った。私には多分出来そうにない。
  さて、最近の私の健康診断結果では、中性脂肪がやや多いが、他は基準値の範囲内で「異常なし」とのことだった。妻も、概ね健康で、医者好きで栄養補助食品等を常用してはいるが、日常生活に支障はない。
  今年の秋に次男が結婚して家を出た。結婚して40年近くになるが、その間息子二人の誕生、母との20数年間の同居と見送り、息子達の独立を経て 、最近夫婦二人の生活になった次第だが、振り返ってみると、家庭生活と会社生活のいずれにおいても、波瀾万丈といった出来事は経験していない 。
  辛酸をなめるような苦労はなかった代わりに、魂が高揚するような劇的な出会いもなかった。
  従って、ごく平凡な生活の繰り返しの結果として今日の私がある訳だが、友人の妻の訃報に接して、健康で平凡な毎日の重大さに気付かされた。
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【もう一人の自分】(平成15年10月20日)
  「悪魔の誘い」
   「人間はときに悪魔の誘いにのって生きなきゃ面白くない」(『おとな二人の午後』五木寛之・塩野七生)

  週末の夕方、淀屋橋付近で裏向けにした黄色のチラシを、思わせぶりに配っていた。
   「関西初のエスクラ!!このチラシ持参の方に限り半額1万円。割り切りを求める交際を支持します…。お電話お待ちします」とある。
  悪魔の誘いにのって06-6311-××××へ荷電。
  「ハイ。エスコートクラブです」
   「チラシに『1万円で時間無制限、直接見て選べる』と書いてあるけど…」
   「ハイ。お客様がご指定のホテルへ伺いますので、ご面談の上、もし、おイヤならお断りされても結構です」
   「じゃ、気に入ったら1万円とホテル代だけでいいんだね?」、
   「ハイ。ただ、お客様のご好意でチップをいただく場合があります」
   「顔を見て断ったり、チップをケチったら恐いお兄さんがご挨拶に来るんじゃないの?」
   「当方は、そのような団体とはお付き合いはありません」
   「じゃ、ホテルのチェックインが済んだら、又電話するわ」
   「お待ちしております。アノ、お客様のお名前は?」
   「川西です」

  車内アナウンスが、次の停車駅「川西能勢口」を知らせた。私は、黄色のチラシを、読みかけの本にはさんで席を立った。

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