泉岳寺
泉岳寺
所在地:港区高輪2−11−1(都営浅草線泉岳寺徒歩3分 )
HP:http://www.sengakuji.or.jp/
入場料:(赤穂義士記念館)500円
開館: (4月〜9月)7時〜18時(10月〜3月)7時〜17時
    赤穂義士記念館は9時〜16時



泉岳寺・山門
 


 僕は「忠臣蔵」が大好きである。2006年には、赤穂を、2009年には敵の吉良上野介義央(1641〜1703)の本拠地・吉良を訪ね た。
 東京にも松の廊下跡のある江戸城始め「忠臣蔵」に関する史跡はたくさんあるが、その第一のものは、高輪の泉岳寺だろう。
 ここ泉岳寺には個人的な思い出がある。小学生の頃だった、祖父に連れられて初めて来た。その時以来、すっかりこの場所が好きになった。
   



泉岳寺駅から泉岳寺へ向かう坂
 

 
 泉岳寺は播州赤穂の藩主・浅野家の菩提寺の曹洞宗寺院。赤穂事件の主役である浅野内匠頭長矩(1667〜1701)と、大石内蔵助良雄(1659〜1703)以下の四十七士が眠っている。
  



泉岳寺入口の四十七義士の石碑
 

  
 都営線泉岳寺駅を降りて坂を登るとすぐに泉岳寺へたどり着く。泉岳寺の入口のすぐ左手には古ぼけた石碑が建っている。何とかして読もうと試みたが、「四十七義士…」としか読み取れなかった。
  



泉岳寺中門


 


 泉岳寺の創建は1612(慶長17)年。徳川家康(1543〜1616)が、今川義元(1519〜60)の縁者
(*)である門庵宗関(1546〜1621)を招き外桜田に創立している。その後、1641(寛永18)年の寛永の大火によって焼失。徳川家光 (1604〜51)が毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名に命じて再建し、高輪に移転してきたそうである。

 泉岳寺中門は、1836(天保7)年に再建された門で、切妻造、本瓦葺、一間一戸四脚門とのこと。 また、「萬松山」の額は清の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい/1615〜1702)による書 。

* 泉岳寺にあった説明書きでは「今川義元の孫」となっていたが、義元27歳の時の孫というのは年齢的に無理がある。
      



土産物店
 


 注文をくぐるとすぐ右手には土産物店が並んでいる。忠臣蔵に関するグッズなども売っている。僕も小学生の頃いろいろと購入したので、その一部は今でも家にあるはずだ。
     



泉岳寺山門
 


 泉岳寺山門は1832(天保3)年、34世・大道貞釣(だいどうていきん)の時代に再建されたもの。ということは、赤穂浪士の時代には無かった。二階には十六羅漢が安置され、一階の天井には龍が彫り込まれているが、これは関義則の作だという。「泉岳寺」の額は、晋唐の墨蹟研究者であった大野約庵(1788〜1864)による書。
   



泉岳寺の額


銅彫の龍
 


 山門のすぐ右には大石内蔵助像が建っている。羽織を着て、手には巻物を持つ。もともとは浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門(1873〜1916)の発願により鋳造されたもので、所有者を転々としていたそうである。その後泉岳寺に寄進され、1921(大正10)年12月14日に除幕した。内蔵助が手に持っているのは連判状で、江戸 城の方角である東の空をじっとにらんでいる姿とのことだ。
      





大石内蔵助像
 


 山門をくぐって境内に入る。奥には泉岳寺の本堂がある。もともとの本堂は第二次大戦の空襲で焼失。現在のものは、1953(昭和28)年12月14日に鎌倉様式で再建されたもの。本尊は釈迦如来。他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などがあるそうだ。
     



泉岳寺本堂
 

 
 本堂に向かって左手に建つ建物は講堂。関東大震災後の1925(大正14)年に建築されたもので、かつては赤穂浪士関連の展示物を収めた「義士館」であった。確かに僕も小学校当時この建物に入った記憶がある。
    



講堂
2階に義士木像館がある
 


 現在は1階が講堂として使用される他、2階にはかつて1階にあった赤穂浪士の木像を収めた義士木像館として使用されており、「赤穂義士記念館」と併せて見学することができる。
  



主税梅
 

 
 その講堂の前に植えられた松は「主税松」。大石内蔵助の長男で15歳で討ち入りに加わった大石主税良金(1688〜1703)が切腹した三田にあった松平隠岐守定直(1660〜1720)邸に植えられていた梅とのこと。
  



四十七士墓所への参道
 


 講堂の左の参道の先に四十七士墓所がある。
  



赤穂義士記念館
 


 参道の左手にあるのが赤穂義士記念館。かつて義士館(現・講堂)に収められていた義士関連の資料を展示している。
   



義士木像館入口
 

 
 赤穂義士記念館の入場料は500円。これは、講堂2階の義士木像館と共通である。
 もともと「義士館」であった現・講堂は老朽化したために、赤穂義士討ち入り300年を記念して2001(平成13)年に新たに赤穂義士記念館が建てられた。
   



水琴窟
 


 さて、参道の右手の入口には水琴窟があり、その上には小さな赤穂浪士の像が建っている。柄杓で水を汲んで注ぐと、綺麗な音色が聞こえてきた。
   



瑶池松
 

 
 参道に沿って歩くと、講堂の側にも様々な赤穂浪士関連のものがある。
 そのひとつ「瑶池松」は、義士の墓守をした堀部妙海法尼(1686〜1774)が浅野内匠頭の未亡人・瑶泉院(1674〜1714)から賜った鉢植えの梅を、ここに移植したものという。堀部妙海は四十七士のひとり堀部安兵衛(1670〜1703)の未亡人・ほり (1675〜1720)を自称していたそうだが、実際のほりはは肥後で亡くなっており、偽物であった。ただ、当時安兵衛未亡人であると信じていた人は多かったらしく、佐治為綱は彼女の話を口述筆記して「妙海語」を執筆し ている。実際には堀部家の侍女だったのではと言われている。
    




血染の石・血染の松
 


 血染の石・血染の松は、浅野内匠頭が自刃した田村右京太夫建顕(1656〜1708)の屋敷にあったものとのこと。
  



首洗い井戸
 


 首洗い井戸は、赤穂浪士が仇・吉良上野介義央(1641〜1703)の首を洗った井戸。本所松坂町の吉良邸跡にもやはり首洗い井戸があるのだが、首を2回洗ったということなのだろうか?
   



川上音二郎建立の文字
 


 この首洗い井戸の囲いの右側の柱をふと見ると、「川上音二郎建立」と書かれている。オッペケペー節の川上音二郎(1864〜1911)が意外なところに寄進をしているのだと思ったのだが、なんでも音二郎の墓はもともと泉岳寺にあった(現在は谷中霊園) そうで、泉岳寺と関係が深いらしい。一般観光客は立ち入り禁止の泉岳寺の檀家墓地には川上音二郎一座が欧州公演をした時の記念碑もあるらしい。
   



義商天野屋利兵衛浮図碑
 


 さらに、「義商天野屋利兵衛浮図」碑が建つ。天野屋利兵衛(1661〜1733)は大阪の商人で、赤穂浪士に武器を用立てしたとされる。講談では、幕府側の追求に対して「天野屋利兵衛は男でござる」と口を割らなかった 人物だ。もっとも実際には、赤穂浪士とは関係がなかったそうだが…。
    
     



四十七士墓所入口
 


 いよいよ四十七士墓所へと向かおう。
  






 


 墓所の入口で売っていた線香(一把100円)を購入。
  



四十七士墓所
 


 四十七士墓所には、赤穂藩主・浅野内匠頭夫妻、そして四十七士の墓がある。
  



浅野内匠頭の墓
 


 まずは騒動の原因となった藩主・浅野内匠頭の墓所に線香を手向けた。
  



瑶泉院の墓
 


 ついで内匠頭夫人の瑶泉院・阿久里の墓。
  



大石内蔵助の墓
 

   
 四十七士の墓は、事件後の預け先の別に分かれて配置されている。大石内蔵助ら17名は熊本藩細川家の屋敷に預けられ、そこで切腹している。
  





細川家お預け十七士の墓
 


 もちろん、リーダーである大石内蔵助の墓には囲いがされていて一番立派だ。
  



大石主税の墓
 


 もうひとつ囲いがあるのは内蔵助の長男・主税の墓。
  



松平家お預け十士の墓
 


 最年少15歳だった主税は、最年長77歳の堀部弥兵衛(1627〜1703)ら九士と共に伊予松山藩松平家の屋敷で切腹している。
   



毛利家お預け十士の墓


水野家お預け九士の墓
 


 その他四十七士は十人が長府藩毛利家、九人が岡崎藩水野家に預けられている。
  



寺坂吉右衛門の墓
 


 泉岳寺に葬られているのは切腹して果てた四十六人だけではない。唯一生き残った寺坂吉右衛門(1665〜1747)の墓もやはりこの地にある。寺坂は討ち入り後、内蔵助の密命を受け、広島の浅野本家へ事件の報告のために 一党を離れたのだとも言われている。彼を主人公として池宮彰一郎(1923〜2007)の小説「最後の忠臣蔵」が書かれた。
   



萱野三平の墓
 

  
 泉岳寺には赤穂浪士の墓は48ある。入口の左手前、大高源吾(1672〜1703)の墓の横にある墓には戒名「刃道喜剣信士」と刻まれている。
 かつてこの墓は村上喜剣のものだとも言われていたそうだ。村上喜剣は講談などに出てくる人物で、討ち入りを悟られないように京都の茶屋・一力で放蕩を尽くす内蔵助を罵倒する。後に、討ち入りを知ると、その行為を恥じて内蔵助らの眠る泉岳寺で切腹して果てたという。
 現在ではこの墓は、萱野三平(1675〜1702)のものだとされている。萱野は浅野内匠頭刃傷の報を、早水藤左衛門(1664〜1703)と共に赤穂に知らせる使者の役目を負った人物であるが、仇討ちの連判状に名を連ねながらも、親に士官を勧められ、忠義と孝行の板挟みに合い、自刃している。48番目の義士とされることが多く、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」では二枚目・早野勘平として登場する。結局、村上喜剣というのは、単に 彼の戒名から連想されて生み出された人物に過ぎないのではないか。

 なお、48個の墓のうち、萱野三平、寺坂吉右衛門そして間新六(1680〜1703)の3名は遺体が埋葬されていないそうである。一党とは別の場所で死んだ萱野と寺坂は当然としても、間新六の場合は義兄の中堂又助によって引き取られ、築地本願寺に葬られている そうだ。討ち入りには新六の父・喜兵衛(1635〜1703)、兄・十次郎(1678〜1703)も参加しているのだが、なぜ彼だけ別に葬られたのか。新六は幼くして養子に出され、しかも養父との折り合いが悪く江戸に姉の夫である中堂又助を頼って江戸に出奔して浪人したという経緯があったから らしい。
   



山門を境内から眺める
 

 
 高輪泉岳寺を訪ねたのは久しぶりである。10年以上は経っているだろうか…。最近の若者たちの間に「忠臣蔵」の知名度 はどれほどのものなのだろうか。ひょっとしたらほとんどの人は知らないのかもしれない。だが、彼らの生き様は我々日本人の心の中に刻まれたものである。未来に語り継がれていかなくてはなるまい。
      

(2012年7月29日)

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