門前仲町
富岡八幡宮(深川八幡)
所在地:江東区富岡1−20−3(地下鉄 門前仲町)
HP:http://www.tomiokahachimangu.or.jp/
入場料:(資料館)大人500円 小中学生300円
開館:(資料館)10:00〜15:30

 

富岡八幡宮本堂
 


 深川不動尊のすぐ隣が富岡八幡宮(深川八幡宮。
 1627(寛永4)年、御信託により創建された、江戸最大の八幡様である。この富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として知られている。1684(貞享元)年から約100年に渡ってここの境内で春と秋に本場所が執り行われたそうである。その後、本所の回向院に移ることになるのだが、境内には相撲関連の碑が数多く残っている。
 



富岡八幡宮の大鳥居
 


 相撲関連の碑では、本堂の脇にある「横綱力士碑」がまずあげられる。1900(明治33)年、第12代横綱陣幕久五郎(1829〜1903)を発起人に、歴代横綱を 顕彰するために建立された碑で、高さ3.5メートル、幅3メール、重さ20トンという横綱を顕彰するにふさわしい堂々とした大きさを誇っている。
 



横綱力士碑
 


 伝説上の横綱である初代明石志賀之助から、現役の68代朝青龍明徳(1980〜)にまで至る歴代の横綱の名と、横綱にはなれなかったものの、勝率9割6分2厘で史上最強力士と称される大関・雷電為右衛門(1767〜1825)も「無類力士」として別枠で顕彰されている。なお、横綱の代数には諸説あるが、全日本相撲協会では、この「横綱力士碑」に刻まれた代数を基本としているそうである。
 


63〜66代横綱の名前
旭富士、曙、貴乃花、若乃花
   


 横綱力士碑の左の前には「超五十連勝力士碑」もある。11面体の石の柱で、江戸時代の谷風(63連勝)、梅ヶ谷(58連勝)、明治〜大正の太刀山(56連勝)、昭和の双葉山(69連勝)そして千代の富士(53連勝)の5人の名前が刻まれている。ちなみに大鵬は45連勝で止まったため、名前は記されていない。ちなみに朝青龍の記録は35連勝が最高。
 

 

超五十連勝力士碑
 

 一方、横綱に次ぐ地位である「大関力士碑」も大鳥居のすぐ脇にある。こちらは割りと最近の1983(昭和58)年10月5日に建立されている。1898(明治31)年に9代目市川団十郎(1838〜1903)と5代目尾上菊五郎(1844〜1903)が寄付した2個の仙台石に刻まれている。
 



大関力士碑
 


 大関というのは、1909年に横綱が地位として制度化されるまで、番付上の最高位で、横綱はあくまで名誉称号であった。この碑には、現存する最古の番付である1757(宝暦7)年10月のものに、大関として記されている雪見山堅太郎を初代とし、横綱に昇進した者や、名前だけの看板大関を除き、最近の小錦(1963〜)、霧島(1959〜)まで計107名の名前が刻まれている。引退した大関ではその後も、貴ノ浪(1971〜)と武双山(1972〜)がいるのだが、彼らの名前はまだ刻まれていない。
 ちなみに看板大関とは、江戸時代に大関不在の際の穴埋めとして、体が大きくて見栄えがするだけという理由で番付上に載せられた大関のこと。土俵入りだけで相撲は取らず、全休あるいは、千秋楽の看板大関同士の取り組みのみ行なうということも多かったらしい。初代大関・雪見山は、大関を務めたのは1場所のみで、どうやらそういった看板力士であったようであるが、実力を兼ね備えていたらしくその後も関脇や小結として活躍していることから、現在大関の祖として認められているそうである。4代目横綱谷風梶之助(1750〜95)も最初は看板大関から出発したそうである。
 



巨人力士身長碑
 

 
 大関力士碑のすぐ左隣には「巨人力士長身碑」があり、江戸時代からの長身力士12名の名前と身長が刻まれている。最高は江戸時代の生月鯨太左衛門(1827〜50)で7尺6寸(約230センチ)。現役の大関・琴欧州(1983〜)の204センチよりもはるかに高いことになる。今より平均身長が低かった江戸時代の日本人にとっては、さぞかし大きく見えたことだろう
 黒い釈迦嶽等身碑は、7尺5寸(223センチ)だった釈迦嶽雲右衛門(1749〜75)の等身大の碑なのだそうだ。釈迦嶽は最高位は大関として活躍したが、26歳で急逝。13回忌に弟の稲妻咲右衛門(1754〜1804)によって建てられた。
 



釈迦嶽等身碑
 


 さらに、右隣にある「巨人力士手形足形碑」があり、6人の手形と足型がある。どれだけ大きいかは、自分の手と比べてみればよくわかる。
  



巨人力士手形足形碑
 

やっぱり大きい
 


 また、「強豪関脇力士碑」もすぐそばにあり、大関にはなれなかった名関脇の名前が刻まれている。ここに名前が残るのはあまり名誉な記録ではないのだが、江戸時代から昭和までの約50人の名が刻まれている。
 僕が直接知っている力士はいないが、日本プロレスの元祖・力道山(1924〜63)や、相撲解説者緒方昇(1923〜2002)の北の洋の名前があった。 この碑が建てられたのは1957(昭和32)年なので、高見山大五郎(1944〜)や安芸乃島勝巳(1967〜)、琴錦功宗(1968〜)といった最近の強豪の名は刻まれていない。
   



強豪関脇力士碑
 


 相撲関連以外では、大鳥居を潜ってすぐ左手に「伊能忠敬銅像」がある。伊能忠敬(1745〜1818)は言うまでも無く、日本で最初に精密な地図を作成した人。彼は当時深川黒江町(現・門前仲町1丁目)に住んでいたが、測量旅行の際にはこの富岡八幡宮に無事を祈願したという。1800(寛政12)年4月19日にここに参ってから蝦夷地(北海道)測量に出かけたことを記念して、2000(平成13)年にこの像は建立された。
  



伊能忠敬銅像
 


 境内には全部で17もの末社が存在している。そのうち11社が境内の東側にある。
 とりわけ印象的なのが、弁天池の中にある(七渡弁天)。
  



弁天池


七渡神社
 


 また、花本社のご祭神は「松尾芭蕉命(まつおばしょうのみこと)」。つまり、あの松尾芭蕉(1644〜94)が祀られているのである。芭蕉1680年に深川(現・江東区常盤)に芭蕉庵を設け、1689年に弟子の河合曾良(1649〜1710)と共に「奥の細道」の旅に赴いている。その関係で、深川周辺には芭蕉に関連する跡が多くある。 伊能忠敬と松尾芭蕉。日本を代表する2人の旅行家が共に深川の地に住み、この地から旅立っていったというのは面白い偶然である。
  



稲荷神社


8つの末社
 


 末社の周りにもいくつかの碑がある。「木場の角乗碑」。「角乗り」とは、鳶職人が水に浮かべた角材を乗りこなして筏を組む職人芸である。
   



木場の角乗碑
 


 富岡宮司寿像。1949年に、富岡八幡宮を再建した元宮司らしい。
  



富岡宮司寿像
 


 本殿の前にある神馬像。
  



神馬
 


 本殿の左手に手水舎の水盤は、1803(享和3)年に奉納された、江東区指定有形文化財。
 神田の鋳物師・太田正義の作。
  



手水鉢
 


 本殿の西には「力持碑」。力自慢が持ち上げて技を競ったとされる力石も奉納されている。55貫目(約206kg)だという。
 



力持碑
 


 神社の西にも3つの末社がある。
 3つの末社があるが、そのうち真ん中のものが重要。恵比寿宮と大黒宮が合祀されている。とくに恵比寿宮は、「深川七福神」の1つとなっている。それにしても、大黒宮もあるばかりか、弁財天を祀る七渡神社のほうがはるかに立派なのに、なぜ恵比寿なのだろう。疑問が残る。
  



西側の末社
 

(2006年4月10日)



横綱力士碑に刻まれた白鵬の名前
 


 先日、久しぶりに富岡八幡宮を訪ねてみた。横綱力士碑には、2007年7月場所に昇格した69代横綱・白鵬翔(1985〜)の名前が新たに刻まれていた。
 もっとも大関力士碑のほうは、その後も栃東(1976〜)、出島(1974〜)、千代大海(1976〜)、魁皇(1972〜)が引退しているが、相変わらず霧島が最後のままだった。
 また、「超五十連勝力士碑」にも2010年1月場所14日目〜11月場所初日までの白鵬の63連勝が刻まれていない。
    

(2012年7月8日)


 さらに、その後また行ってみると、横綱力士碑には2012年に昇進した70代横綱・日馬富士公平(1984〜)の名前が追加されていた。
  



新たに日馬富士の名前も刻まれた
 


 さらに大関力士碑にも、貴ノ浪、武双山、栃東、出島、千代大海、琴光喜(1976〜)、魁皇、雅山(1977〜)と8人の名前が新たに追加されていた。
 



大関碑に8人の名前が追加された
 

(2014年1月19日)


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