日本一周第1回「いい日旅立ち」 

10日目「恋する城下町〜秋田県 ・山形県〜」
 

2006年7月5日(水)

 
 

〈角館〉

 
 


 今日も朝から温泉につかった。
 温泉のロビーのテレビでは、昨日から日本列島を飛び越えて太平洋に打ち込まれた北朝鮮のミサイル・テポドンのニュースを引っ切り無しに放送していたが、ここはそんな緊張感からも無縁の場所だった。
 角館はみちのくの「小京都」と呼ばれる。城こそ残っていないものの、武家屋敷が数多く現存し、城下町の雰囲気を今に伝えている。そうした武家屋敷のいくつかは現在公開されていて入ることができる。

 角館に最初に城を築いたのは、菅(角館)氏で、南北朝時代の後半、14世紀のことであった。その後、1423(応永30)年、戸沢家盛が菅氏を滅ぼし角館に入城。戸沢政盛(1585〜1648)は、関ヶ原の合戦、大阪の陣を通じて徳川方につき、その功績で常陸松岡藩に転封。その後・出羽新庄藩主となる。
 水戸54万石を支配していた佐竹義宣(右京太夫/1570〜1633)は、関ヶ原の合戦の際の中立的態度を徳川家康に咎められ、久保田21万石に減転封され、初代久保田藩主となる。その際、角館城を与えられたのが、義宣の弟・蘆名義広(のち義勝/1575〜1631)であった。
         

 
  ◆小田野家  
 



小田野家武家屋敷
 

 
 
 さっそく武家屋敷を観て回わろう。まずは小田野家へ。

 ここで角館の歴史を簡単に説明。最初に角館城を築いたのは、菅(角館)氏で、14世紀のことであった。その後、1423(応永30)年、戸沢家盛が菅氏を滅ぼし角館に入城。戸沢政盛(1585〜1648)は、関ヶ原の合戦、大阪の陣を通じて徳川方につき、その功績で常陸松岡藩に転封。その後・出羽新庄藩主となる。
 水戸54万石を支配していた佐竹義宣(右京太夫/1570〜1633)は、関が原の合戦の際に中立的態度を徳川家康に咎められ、久保田21万石に減転封され、初代久保田藩主となる。その際、角館城を与えられたのが、義宣の弟・蘆名義広(のち義勝/1575〜1631)であった。
 小田野家は初代藩主・佐竹義宣が常陸水戸にいた頃から佐竹家に仕えていたということから、相当に由緒ある家臣ということになる。秋田蘭画(秋田派)の祖で、「解体新書」の図版を書いた小田野直武(1750〜80)もこの小田野家の出身である。
       
 
 



小田野家
 

 
 
 当時の建物は1900(明治33)年に焼失し、明治後半に再建されたものだが、いかにも武家屋敷らしい雰囲気が漂っている。

  

 
 



豪華な襖絵
 

 
  ◆河原田家  
 



河原田家武家屋敷
 

 
 
 小田野家の隣に河原田家武家屋敷がある。1900年の小田野家の火災の際は、広い庭があったため難を逃れたと言う。

  河原田家は、久保田藩主初代藩主・佐竹義宣の弟・蘆名義広(のち義勝)の家臣。関ヶ原の合戦後、改易となり角館にやって来る。河原田家は義広が会津にいた頃 からの家臣であった。
    

 

 



角館武家屋敷資料館
 


 
 
 河原田家の敷地内には「角館武家屋敷資料館」がある。入場料は300円。嫁入り道具などの調度品を展示している。
  
 
  ◆岩橋家  
 



岩橋家武家屋敷
 

 
 
 岩橋家も、河原田家同様、会津以来の芦名家の家臣である。角館にやって来た岩橋又右衛門は、蘆名氏再興に奔走するが叶わず、義広の子・蘆名盛俊(1631〜51)が若死にすると、その後を追って殉死した。そして、その家督を継いだ盛俊の子・千鶴丸(1650〜53)も3歳で事故死し、蘆名家は断絶してしまう。 蘆名家に代わって佐竹氏の一族である佐竹北家が角館に入り、岩橋家もその配下となった。
 河原田家同様、1900年の大火から難を逃れ、江戸時代の武家屋敷の趣を今に伝えている。山田洋次(1931〜)監督の映画「たそがれ清兵衛」(2002年松竹、他)ではロケーションに使われたそうである。
    
 
 



岩橋家
 

 
  ◆松本家  
 



松本家武家屋敷
 

 
 
 松本家武家屋敷は、萱葺き屋根の農家風屋敷。「たそがれ清兵衛」で清兵衛(真田広之)が余吾善右衛門(田中泯)と果たし合うクライマックス・シーンのロケが行われた場所である。いかにも質素な、下級武士の生活ぶりがうかがい知れる場所だ。
  
 
 



松本家
 

 
  ◆青柳家(角館歴史村)HP  
 



青柳家武家屋敷・薬医門
 

 
 
 青柳家武家屋敷は角館歴史村として公開されている。ただ武家屋敷を観るだけではなく、「秋田郷土館」や「武家道具館」「幕末写真館」など、さまざまな角度から、角館や武士の生活を知ることができる。その他、邸内にはレストランや土産物屋などもあって、テーマパーク的な楽しさがある。
 青柳家はまず何よりも入り口の立派な門が見所である。この薬医門は、青柳家の藩への功績が認められて、1860(万延元)年に建築が許された。 
   
 
 



青柳家
 

 
 
 邸内には小田野直武の像があり、絵と共に彼の業績が紹介されていた。なぜ小田野家ではなく青柳家に彼の像があるのかと思ったら、そもそも小田野家と青柳家は姻戚関係にあったらしい。
   
 
 



小田野直武像
 

 
 
 お土産物屋を覗いていたところ、「角館名物 なると餅」というものを売っていた。生ものでもあるし、お土産に買うというわけにはいかないが、せっかくなのでおやつ代わりに買って食べてみた。
    
   
 
 



なると餅
 

 
 
 なると餅を買うために売店にいたところ、流れていたBGMがどうも気になった。

 ♪春の日差しに化粧が似合う 枝垂(しだれ)桜の恋心
   そうよ私の大事なあなた  どこの誰より好きだから 
   いいでしょう そうでしょう 心あずける角館…

どうも角館のことを歌っている歌のようである。そこで売店の人に聞いてみたところご当地ソングで「恋する城下町」というそうだ。
 そこで、東京に帰ってさっそく聞いてみた。2001年発売、歌っているのは小桜舞子(1978〜)。なかなかいい歌ですっかり気に入ってしまった。ただ、発売当時ヒットしたのは秋田県だけで、全国的にはほとんど売れなかったそうである。
  
 
  ◆石黒家  
 



石黒家武家屋敷
 

 
 
 今回、観て回った武家屋敷の中で、僕にとって一番印象的だったのは石黒家だった。
 石黒家は角館の武家屋敷の中で現存最古のものとのことである。石黒家がこの地に移転してきたのは1853(嘉永6)年のこと。門には1809(文化6)年の矢板がある。
   
 
 



石黒家
 

 
 
 石黒家は、実際に中に入ることができ、つかの間だが武家の生活の雰囲気を味わうことができる。
  
 
 



壁の細工
 

 
  ◆西宮家HP  
 



西宮家
 

 
 
 西宮家は古くから佐竹氏の家臣であった。現在公開されている屋敷は武家屋敷では無いが、明治・大正期に建てられた、地方の実力者の栄華をうかがい知ることのできる屋敷である。
 
 
 



母屋
 

 
 
 母屋は明治中期の建設、現在は食事処になっている。
   
 
 



米蔵
 

 
 
 1910(明治43)年に建てられた米蔵はお土産物売り場になっている。文庫蔵は1894(明治27)年に建てられた現存最古の建物だが、文化財や冠婚葬祭の際の食器類などを展示している。
  
 
 



文庫蔵
 

 
  ◆安藤醸造元  
 



安藤醸造元
 

 
 
 角館にあるのは武家屋敷だけではない。商家もある。安藤家は江戸時代の享保年間(1716〜35)から続く地主。1853(寛永6)年から味噌・醤油の醸造を開始した。
 現在公開されているレンガ造りの蔵座敷は1891(明治24)年に建てられたものである。
  
 
 



蔵座敷
 

 
 
 蔵座敷は24畳の書院造で、明治の郷土画家・西宮礼数の手による花鳥風月の襖絵が飾られている。
   
 
 



文庫蔵入り口
 

 
 
 文庫蔵の中では、自家製の漬物や味噌汁を味わうこともできる。
   
 
  ◆神明社  
 



神明社
  

 
 
 武家屋敷ばかりでなく、神社仏閣のたぐいも観ておきたい。
 神明社は、元和年間に蘆名義勝によって創建されたという。ここの境内には、「菅江真澄の道」の碑が立っている。ここは、江戸時代の旅行家・菅江真澄(1754〜1829)の終焉の地である。菅江は信州・東北・蝦夷地と旅をしてまわり、多くの紀行文を執筆している。晩年は秋田に住み、角館で亡くなっている。後に柳田国男(1875〜1962)によって「 民俗学の祖」と評価された。 
  
 
 



菅江真澄の道の碑
 

 
  ◆常光院  
 



常光院
 

 
 
 角館城主・佐竹北氏の菩提寺であるのが常光院。本堂は1765(明和2)年に建てられている。
  
 
 



常光院本堂
本堂前の像は村野孝顕像
 

 
 

  
 佐竹氏は、関が原の合戦で中立の立場を取ったことで佐竹義宣が徳川家康に疎まれ、秋田へ転封させられている。そのため、佐竹氏の徳川家への忠誠心は低かったという。戊辰戦争においても当初・奥羽越列藩同盟に所属したものの、すぐに脱退して明治政府側についている。そのため、奥羽越列藩同盟は裏切り者として久保田藩を執拗に攻撃。角館も激戦地となった。何とか、終戦まで持ちこたえたものの、秋田の荒廃はすさまじかったそうである。
 常光院は、戊辰戦争の際には病院となり、戦後、西軍戦没者の墓地が 建てられた。葬られているのは、久保田藩以外の16人。内訳は大村藩7人、平戸藩7人、長州藩1人、薩摩藩1人。墓地の正面には「少年鼓手の碑」があるが、父に代わって出撃し戦死した15歳の大村藩士・浜田謹吾を顕彰している。出陣に際して母が贈った和歌、

  二葉より手くれみずくれまつはなは
       君がためにそ咲けやこのとき

が刻まれている。
    

 
 



戊辰戦役戦没者墓地
  

 
  ◆成就院薬師堂  
 



成就院薬師堂
 

 
 
 成就院薬師堂は、角館で最も古い神社とのことで、市民には「お薬師さん」の愛称で親しまれている。戦国時代に角館を支配していた戸沢氏が、眼病になった際にこの神社に祈願したところ、ご利益があり、そのため成就院薬師堂と名づけられたそうである。
  
 
 



角館麦酒
 

 
 
 お待ちかね、昼食の時間。すでに武家屋敷を見学している時からあちらこちらで「角館麦酒」の看板を見て、気になっていたので、さっそく注文してみた。黄色いラベルが可愛らしいが、味のほうも口当たりがいいのにコクがあって、なかなか美味であった。
  
 
 



稲庭うどん
 

 
 
 「稲庭うどん」はここ角館が本場。ごまだれで食べる麺はつるつるシコシコ。
 いよいよ、東北最後の県・山形県に向かって出発である。
   
 
 


13:17 角館 →(こまち)→ 大曲 →(奥羽本線)→ 新庄 →(つばさ)→ 天童 16:03
 

 
 


〈天童〉

 
 
 秋田県と山形県は隣同士で近いはず。しかし、新幹線で移動する限りそんな気がしない。秋田新幹線の南端・大曲から、山形新幹線の北端・新庄までは、奥羽本線で2時間近くもかかる。なぜ、2つの区間が新幹線でつながれていないのだろうか? まさか、秋田と山形は仲が悪いのでは? そういえば戊辰戦争で久保田藩が早々と寝返ったのに対し、米沢藩は最後の最後まで旧幕府側で抵抗していた。その時代までさかのぼるのでは無いか…そんな想像までしてしまった。
  
 
 



時計までが将棋の駒の形
 

 
 
 山形県の天童に到着。ここは、僕にとって思い出の深い町。1994年8月、僕は自動車免許を合宿で取るために、ここ天童に来ていた。それから12年ぶりの天童である。
 天童といえば、将棋の町として有名。駅構内にはいろいろと将棋にまつわるオブジェがあったりする。例えば、駅構内の時計の形が将棋の駒をしている。
  
 
 



天童駅の左馬
 

 
 
 そして、 将棋版のオブジェ。書かれた文字は「左馬(ひだりうま)」。「馬」の文字を逆さに書いたもので、天童独自のものである。「うま」は逆さに読むと「まう(舞う)」となるからとか、馬は左から乗るもので、右から乗ると落馬してしまうからとの理由で、縁起のいい文字となっている。
   
 
 



ビジネスホテル中央
 

 
 
 基本的に僕は宿にはこだわらない。贅沢は求めないので、ちゃんと寝られればいいぐらいに考えている。だから、ホテルも安いビジネス・ホテルか旅館を選んでいる。
 しかし今回、天童でだけは、どうしても泊まりたい宿があった。それが、「ビジネスホテル中央」。
    
 
 



天童自動車学校
 

 
 
 1994年8月、僕は天童自動車学校での免許合宿で自動車免許を取得した。その際の宿泊が、自動車学校に併設するビジネスホテル中央であった。
 
 
 



 懐かしの教習所
 

 
 
 約1ヶ月を過ごした思い出の場所。12年ぶりだったがあまり変わっていない。もちろん、教習所も見学してきた。ホテルの人に聞いたところ、時々僕みたいな卒業生が泊まりに来ることもあるのだそうだ…。
  
 
 

哀しみ本線日本海〜秋田県〜

さくらんぼ〜山形県〜  

                              
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