Japanese Self Defence Force / Type 89 Assault Rifle |
自衛隊制式小銃 89式アサルトライフル 後に阪神淡路大震災と名付けられるこの大災害において、自らの身を省みる事無く被災者の救助にあたり、身を粉にして被震災者の為に尽力した人々が居た。 それこそが日本を守る防人こと自衛隊である。 当時の日本は「戦後最悪の内閣」と呼ばれる村山富一首相を頭とする社会党が牛耳っており、かの政権下では自衛隊は冷遇を余儀なくされていた。 だがこの阪神淡路大震災を機に、自衛隊は真に国民から信頼される組織へと変貌するのである。 午前5時46分。地震観測至上最大規模となる直下型地震が発生。近畿地方は一瞬にして瓦礫の山と化した。この震災第一報はトップニュースで伝えられ、日本全土が緊張に包まれた。 同時刻、自衛隊は非常呼集をかけると共に、持てる全ての装備と人員を終結させ、直ちに震災地への派遣準備を整えた。地震発生から僅か2時間という記録的速さで出動準備を整えた陸海空全ての部隊は国会からの出動要請を待った。 午前7時30分。地震発生から2時間後になってようやく村山富一内閣総理大臣に震災の第一報が入る。それと同時に、自衛隊が既に出動待機状態に入っている事と派遣を求めている旨も伝えられた。 しかし。村山首相を始めとする社会党幹部の出した結論は「前例が無いから自衛隊は派遣できない」という常軌を逸した回答であった。 自衛隊は困惑した。災害救助は自衛隊の仕事であり、国民を守るのが彼等の任務である。にも関わらず政治家は「行くな」と言う。これは一体、どういう事か?ともかく国の命令無しに動くわけにはいかない。自衛隊はまんじりと出動命令が下るのを待った。 午前9時。マスコミが現地に入り始め、次第に震災の規模と悲惨さが伝えられるようになった。そのスケールは想像を絶するものであり、一体、どれだけ多くの人間が犠牲になったのか、また犠牲になりつつあるのか見当もつかなかった。 自衛隊は再度、被災地への出動を官邸に求めた。だが村山首相は「規模が分からないし憲法にも自衛隊派遣の項目が無い。責任問題に発展する決断を、首相一人で下せない」と再度、派遣を拒否の姿勢をとり続けた。それと同時に社会党や共産党から「そもそも自衛隊を派遣しては周辺諸国に不安を与えることになる。自衛隊の派遣は避けるべきだ」と派遣否定派の声が上がり始める。 ……貴重な数時間が失われた。自衛隊は装備を固め、今や遅しとばかりに命令を待つ。だがそれが来ない。数千人の犠牲者。焼け落ちる家々。倒壊するビル。着の身着のままで避難所へと駆け込む人々。しかし命令が来ない。いたずらに時が過ぎ、人の命が消えていく。再三の要請。だがそれも拒否される。村山首相は現地入りさえも拒否し、国は何の対策も講じなかった。 午後1時。マスコミによる決死の報道が諸外国にも伝わり、世界がこの惨状を知る。また多数の日本人がボランティア組織を組み、独自に行動を開始し始めた。 この状況に至っても尚、自衛隊は動けないのだ。彼等は厳正な国の管理下にある組織であり、命令無しには動けない。それが法律なのだ。当然、自衛官の中からは独自に行動すべきとの声が上がった。だが駄目なのだ。絶対的に憲法に縛られる組織として編成された自衛隊は、どんなに正しい行為であっても命令無しには動けない。なんという現実なのか。この時、多くの自衛官が悔しさの余り泣き、犠牲者の為に頭を下げたと後に多くの人間が伝えている。 ……午後7時50分。国ではなく兵庫県知事から自衛隊に災害派遣要請が届く。国が前例が無いのを盾に拒み続けたこの要請を、県知事が出したのだ。すぐさま海自の補給艦が母港を離れ救援に向かった。それと同時に全部隊が一斉に行動を開始、続々と被災地へと入り始めた。ようやく自衛隊が職務を全うする時が来たのである。 震災から24時間が経過した。このような大規模震災では、震災発生から24時間が最も重要な時間と言われる。だがその24時間は無駄に失われた。国は何もしない。今や自衛隊とボランティア、そして震災下で団結し、共にこの惨状を切り抜けようとする人々の力だけが頼りだった。 完全に崩壊した街の中で、自衛隊による必死の救命活動が続いた。負傷者の移送から物資の運搬、災害状況の把握など、およそ想像出来得るあらゆる行動を、自衛隊は黙々とこなし続けた。「被災者の前で食事を取れない」と自らの糧食を被災者に分け与え「今も瓦礫の下敷きになっている人がいる。眠れる訳が無い」と3日の間一睡もせず、体力の限界を超えて救助に当たったのである。この時の様子についてはもはや多くを語る必要は無いだろう。数限り無い程多くの本や人間が、如何に自衛隊の行動が素晴らしかったか、献身的であったかを語り継いでいるのだから。 ……その後。阪神淡路大震災は死者約6400名、負傷者約44000名という大惨事である事がまとめられた。多くの人間が自衛隊に助けられ、命を繋いだのは揺ぎ無い事実として語り継がれている。自衛隊は震災後100日の間、現地に留まり、避難民と生活を共にした。そして感謝され、惜しまれつつも被災地を後にしたのである。 この震災は二つの異なる結果をもたらした。一つはこの件により自衛隊の献身と努力が国民に認められ、多くの人々が自衛隊を信頼するようになった事と、震災を生き延び、かつて自衛隊によって助けられた少年少女達が現在の自衛官になっている事実だ。 そしてもう一つは震災時に何ら効果的な手を打たなかった村山政権の崩壊である。震災後、国民の怒りは無能な村山政権に向けられ、社会党は空中分解する形で消滅。その残党は現在の民主党へと落ち延び、尚も自衛隊に牙を向く存在として暗躍しているのである。 今日では震災発生時における国の対策プログラム等も充実してきている。それは取りも直さず、震災下で身を粉にして職務を全うし、後世にノウハウを残した自衛官達の働きがあったからに他ならない。 |