Purple Heart Medal
 Purple Heartこと名誉負傷勲章は米軍の陸海空軍に所属する兵士が戦闘行為で負傷した際に与えられる勲章である。アメリカ独立戦争の前、産業革命以前の時代、かつて紫色は貴族や高貴の者達を表す「名誉的な色」だった。米軍はこの伝統に則って国の為に戦い名誉の負傷を負った者に「Purple Heart = 名誉の心」の名前を持つ勲章を授けるようになったのである。
 しかし現実の戦闘は名誉的なものとは程遠いものである。特に表に出ることの少ない「捕虜」という立場を経験した者達と名誉は程遠い存在だろう。しかし実際はどうなのだろうか?以下の物語は戦争末期に大日本帝国軍に捕らえられたある米軍兵士の実話体験談である。

【捕虜か死か】
 時は1945年初頭。大日本帝国の絶対防衛圏であるサイパン島を奪取した米軍はB-29長距離爆撃機を用いて、日本本土への空襲を開始した。より日本本土に近い沖縄と硫黄島は依然日本軍の勢力下にあり、B-29のパイロット達は多大な危険を冒しての長距離爆撃任務に就かなければならなかったのである。
 パイロット達が何よりも恐れていたのは日本軍に捕らえられる事だった。日本軍は「捕虜にならない。捕虜を取らない」を旨としているため、一度捕らえられたが最後、生還は望めなかったのだ。その為、被弾時にクルーに残された選択は二つだ。機体と共に運命を共にするか、日本軍に捕らえられて殺されるか。心理的なプレッシャーが米軍パイロット達を締め付けていた。
 1945年1月27日。日本本土空襲作戦に就いていた1機のB-29「Rover Boys Express」が撃墜された。その機のクルー「Ray "Hap" Halloran」はパラシュートで脱出。それを見た地元市民は彼のパラシュートを追跡し、彼を捕らえた。市民達はレイを激しく棒で打ち据え、石を投げつけ彼を痛めつけた。やがて憲兵隊が到着すると、憲兵はレイが気絶するまで殴り続け、ボロきれのようになった彼を捕虜収容所へと引き連れて行ったのだった。

【彼等は私を獣の檻に入れた】
 捕らえられた私は人々の前に引き出され、彼等の前で謝罪する事を強制された。市民達の鬱屈を晴らさせる為だろうと思う。東京の下町に連れ出された私は石を投げ付けられ、棒で酷く叩かれた。何度も何度も殴られ、痛めつけられる日々が続いた。私は全身血だらけで寒さに震え、痛みで眠れない日々を何日も過ごし、絶望の中に深く沈みこんでいた。
 私の他にも捕虜達がいた。だが彼等は皆、殺された。医者を名乗る男が緑色の液体を「これは薬だ」と言って注射する。だがその液体は毒物で、これを注射された6人の捕虜達は皆、死んだ。私も注射をされたのだが、運が良かったのか効かなかったのか、私はかろうじて命を繋ぎ止めていた。
 数日後、憲兵隊が全く歩けなくなった私を連れ出した。彼等は私を獣の檻に入れた――。檻の中ではいつくばり、犬のように頭を下げ、殴られ続けた。ほんの少しの食事と繰り返される暴力。これを地獄と言わずして何というのだろう。
 悔しくて悲しくて、自然と涙が出た。私は泣いた。今の私に出来る事はただ一人で泣く事だけだった。おお、神よ。何故私がこのような目に遭わなければならないのか。私は常に闇の中に放置され、日差しを見られるのは憲兵に殴られる時だけだった。そして私は気が狂いかけていた。闇の中に居るよりも殴られる方がましだった。憲兵が私を殴りに来るのを心待ちにし、彼等が去るのを悔やんだ。
 檻の中で、文字通り私は犬になった。

【誰が悪いのか?】
 このような捕虜生活の中で鮮明に覚えている事がある。1945年3月10日。その夜、私は上空に聞きなれたB-29のエンジン音を見つけた。サイレンが鳴り、人々が慌しく行き来する気配が伝わってくる。その直後、爆弾が炸裂する音が私の檻を大きく揺さぶった。檻の背後にあった小窓から真っ赤な閃光が飛び込んでくる。そこから見えたのは鮮血のような空と竜巻のような黒煙、火炎が街を焼きつくす地獄絵図だった。
 私は恐怖に怯えた。この火炎が私を焼こうとしている!私はここで炎に包まれて死ぬのか。外から聞こえて来るのは母親の悲鳴と子供の叫び声。この収容所の真向かいにある皇居の堀に飛び込む人々達が見える。人々は炎と熱から遠ざかろうと次々と身を投じる。爆発で吹き飛ぶ人々と建物。気が狂いそうになる程の破壊音。私は空襲の間中ずっと恐怖に震えていた。
 翌日。生き残った私の元に紳士がやって来た。完璧な英語で話しつつも、声に抑えきれない感情をにじませ彼は私にこう告げた。「昨日の空襲で数え切れない程の市民が死んだ。通りには何重にも重なった死体が散乱しており、川から東京湾にかけては黒焦げの死体が浮かんでいる。この光景はこの世の地獄そのものだ」私には被害の程は想像出来ない。だが、あの恐怖は良く分かる。何しろ、自分も空襲で殺される寸前だったのだから。
 紳士は私の顔を見て続けた。「レイ、君を処刑する事になった」私の頭をハンマーで殴られたような衝撃が伝わった。「君を含めたB-29のクルー全員だ。このような結果になってしまい残念だが」
 遂に来たるべき時が来たか……。捕らえられた日から覚悟は出来ているつもりだったが、私の心臓は冷たく凍りついた。
 「捕虜の殺害は戦時条約で禁止されている筈だ」無駄と知りつつも私は言った。それに対して紳士は皮肉な笑みを浮かべて答える。「では聞くが、その戦時条約は市民を殺す事も禁止している筈だ……アメリカは戦時条約を守っているのだろう?では何故、空襲で市民を殺した」私は何も答えられない。「アメリカの正義とは東京を焼け野原にする事なのか?それとも日本人を皆殺しにする事か?戦争の勝利者は何をしても良いというのか?」私は何も答えられない。「レイ、君はアメリカ人で軍人でB-29のクルーだ。君は直接的に市民を殺す事に加担した人間だ。今や日本人に出来る事はその人間を処刑する事だけなのだ。それが我々の正義だ」

【処刑】
 処刑の宣告を下されてから数日後。私は目隠しをされ両手を縛られ、トラックに乗せられた。東京動物園でおろされた私は虎の檻に入れられ、市民達の前に引きずり出された。私の檻を取り囲んだ市民達に向かい、憲兵が叫ぶ。「見よ、B-29とて恐れることは無いのだ。奴等は超人ではない。こんなにも哀れなのだ」檻の中で痩せ細り、血と泥にまみれた私に侮蔑の視線が注がれる。私に出来た事は、勇気を振り絞って彼等を睨み返す事だけだった。
 その後、上野動物園でも同じように人々の前で晒された私は他のB-29のクルー達と合流した。我々捕虜の一団は東京湾の小島にあるオオモリ捕虜収容所へと移送された。ここが私の処刑場となるのだろう。
 この場所で私は一人の空軍パイロットと出会った。彼も同様に憲兵達によって激しく暴行され、動物園で檻に入れられていたという。Robert Goldsworthyと名乗った彼は言った。「レイ、お前が先に帰ったら俺を迎えに来るんだ。俺が先に帰ったら、お前を迎えに来てやるよ」そう遠くない将来、戦争が終わるのは分かっていた。日本にこれ以上の継戦能力が無い事は明らかだった。だが、それまで生きていられる保証も無い。今や我々ははっきりと処刑を宣告され、死を待つだけの身分なのだ。
 その後も空襲は続いた。幸運な事に我々が居る収容所は東京の下町から離れており、爆撃の被害を被る事は無かった。
 やがて夏が来た。捕虜の内の誰かが処刑されたかもしれない。だが私とロバートはまだ生きていた。うだるような暑さの8月、我々の元にある情報が届けられた。「広島にて新型爆弾が炸裂。市民20万人が死亡」詳細は分からないが、圧倒的な数字だ。それに続けて「長崎でも同種の爆弾が炸裂。市民7万人が死亡」との報も届いた。
 我々は恐れた。この爆弾の報復の為に処刑される可能性があったからだ。だが実際は違った。この「原子爆弾」を機会に大日本帝国政府は降伏を連合国に打診。降伏に向けての算段を整えつつあったのだ。そのような状況で捕虜を処刑すれば立場が悪くなるだけだ。皮肉にも我々の命は原子爆弾によって失われた30万人の命と引き換えになったのである。
 そして1945年8月15日。大日本帝国は連合国に無条件降伏。戦争は終わり、私は収容所から解放された。
 私は生き延びた。

【戦後とは】
 私は故郷のウェストヴァージニア州へと送還された。駅で両親と出会ったが、彼等は酷く痩せ細り狂気を瞳に宿した私を遠ざけた。その後病院に移された私は充分な治療を受けたものの、塞ぎ込み誰とも交流を持とうとしなかった。だが唯一、話をする事が出来たのは私と同じ負傷兵達だった。彼らもまた他人には話せない体験と傷を負っており、我々負傷兵の間には同じ体験をした戦友だという意識があったからだ。だから私はこの病院を出ることをとても恐れた。何故なら私はこの負傷兵達以外とまともなコミュニケーションを持てると思えなかったからだ。
 1953年。私はこの過去を忘れ去るべく様々な努力をした。仕事にも就いたし妻もめとった。やがて子供を持ち家庭を築いた時、過去のいまわしい記憶がゆっくりと蘇ってきた。私は眠るたびに悪夢を見るようになり、闇を極度に恐れた。私を閉じ込める檻と真っ赤な炎が私に迫り、人々が私を殴りつける。私は混乱し、夜の街を徘徊するなど家族にもひどい迷惑をかけるようになってしまった。
 私は二度と――絶対に二度と!日本へは戻りたくなかった。だがこのままではいけない。私はこの過去を克服しなければならない。私は自分が何を見たのかを探求する旅へ出る決意を固めた。再び日本へと戻り、過去を清算するのだ。
 日本へと発つ前、私は一人の憲兵をアメリカに呼び寄せていた。あのひどい暴力の中たった一人だけ私の身を案じ、人間的に振舞ってくれた恩人だった。私は彼に対して恩義があると考えていたのだ。人間的な行動には人間的な恩を返さなければならない。私は彼をイリノイ大学へと招いた。今後、彼が私の過去と現在を繋ぎ止める楔となってくれる事だろう。
 私は彼と共に日本の帝国ホテルへと赴いた。かつてこの地に私を捉えた収容所があったのだという。私はあの時の血と暴力の空気を感じ取り震えた。深夜、私は帝国ホテルの中庭を一人で散策した。一体、私は何を探しているのか。あの収容所か、それとも私を痛めつけた憲兵隊か。恐らく両方だろう……。
 だが今、この場所には私を閉じ込める檻も私を殴る人間も居ない。私は今、自由なのだ。そう思うと、ふと私の胸を締め付けていた何かが消えたような気がした。

【人としての道】
 私は電車で日本全国をまわる旅を始めた。静岡という街に到着した私をある紳士が出迎えてくれた。医者だという彼は完璧な英語でかつてこの地でも大空襲があり、B-29が撃墜された事等を語ってくれた。
 私はこの話にとても感動した。戦争末期、地元の仏教僧が撃墜されたB-29の残骸から2名のアメリカ人の遺体を発見し保護したという。遺体を引き渡せと詰め寄る市民をしりぞけ、僧は手厚く彼等を葬った。そしてB-29撃墜の地に碑を建立し、彼等の冥福を祈ったという。これこそまさに正しき人間の行いだ。私と医者は碑に備える花を持ち、神秘的な空気が漂うその地を訪れた。
 医者は言う。「私は日本人としてアメリカ人の為に祈りましょう。レイさん、貴方はアメリカ人として日本人の為に祈って下さい」そして花を捧げた私は知った。B-29が撃墜されたその日の空襲で、2000人もの市民が殺されていた事を……。
 医者は2名のアメリカ人の為に祈り、私は2000名の日本人の為に祈った。静かで厳粛な時が私達を包んでいた。
 この旅の後、私は様々な角度から日本の事を見られるようになった。私の心はいまだ冷たく、最終的な決断を下せる状況にない。私の心には依然として悪魔が巣食っている。だが、私は少しだけ救われたような気がするのだ。
 その後、私は何度なく日本を訪れた。多くの日本人の親友を作り、彼等の事を学んだ。彼等の中に狂気は見られない。誰もが親切で礼儀正しく、私の事を心配してくれる。あの戦争の最中に見た人々はもう居ないのだ。私の心の中に、怒りという感情はもう残っていなかった。
 だが私はこう思うのだ。私は少し自己的ではないのか、と。私はかつて私を痛めつけた人々を利用し、自分を慰めている気がするのだ。
 何が正しいのかは分からない。だが私はあの地獄を生き延びたのだ。私の一生を捧げても、正しき道を探し出す価値はあるだろう。

 この文章は「D-Days in the Pacific」の本文中P325-P375に記述されているRay Halloran氏の体験談を意訳・加筆したものです。