Imperial Japanese Navy - Officer's Dirk
 海軍士官短刀こと御下賜品の短剣は、旧帝国海軍の士官・将校の制式装備である。任命時に帝国海軍、又は天皇より御賜される一品で、旧帝国海軍ではこれを持つ事が何よりも名誉とされていた。
 さて、大東亜戦争をはじめとする第二次大戦の最中には、船にまつわる幾つもの伝説や悲劇が生まれた。処女航海中に撃沈された伝説の空母「信濃」、世界初の神風特攻機により沈没した空母セントロー、そして原爆輸送艦を沈めて生還した伊号潜水艦58潜などなどである。
 しかし歴史上初、そして最後になるであろう特異な最後を迎えた艦が一隻存在する。
 「護衛空母ガンビアベイ」彼女とその乗組員が辿った数奇な運命を語ろう。

【大日本帝国海軍、真珠湾を奇襲攻撃】
 1941年12月8日。米軍太平洋機動艦隊の母港である真珠湾基地を、大日本帝国海軍機動部隊が襲撃。帝国空母群より放たれた数百機におよぶ艦載機は真珠湾に停泊中の機動艦隊を撃滅。ここに大東亜戦争が勃発した。
 米軍は早くから真珠湾攻撃を察知していたが、帝国海軍の実力を甘く見たため大敗。主力戦艦を含む大部分の艦艇を喪失し、事実上、太平洋の覇権を大日本帝国に明け渡す事となった。
 だがひとえに米軍のミスとも言い切れない事実もあった。帝国海軍は世界第三位の海軍戦力と、空母と艦載機の実力なら世界一とも言える驚異的な戦力を率いて真珠湾を攻撃したのである。仮に米軍が万全の体制を敷いて迎撃したとしても、大損害を被る事は必至であった。
 しかし何よりも米軍を震撼させたのは「歴史上初の空母と艦載機を主力とした敵基地爆撃」だった。柔軟な思考と大胆な部隊運用、何より大艦巨砲主義を根底から覆す空母の運用術には米軍も舌を巻いた。
 真珠湾は米国民に深い復讐心を植え付けると共に、失われた海軍を再建する事が米軍の急務となるのであった。しかし初戦で手痛い打撃を受けた米軍は以後、半年の間、大日本帝国軍の跳梁を許す事となる。

【護衛空母造船計画】
 開戦から半年の間、大日本帝国軍は破竹の勢いを持って東南アジアを席巻した。米軍は初戦において失われた機動艦隊の建て直しに必死で、とても防衛に割く兵力が無かったのだ。
 だが米軍が何よりも恐れたのは、帝国海軍の超弩級戦艦と空母の艦載機による奇襲攻撃だった。一対一では最強の戦闘力を持つ超弩級戦艦に対抗できる艦は無く、その上、空母艦載機である零式艦上戦闘機は驚異的な性能を以って米軍戦闘機を撃ち落した。ここに米軍と米国民は辛酸を舐める事になる。
 1942年4月18日。苦渋に満ちた米国を歓喜に沸かす事件が起きる。日本列島の東約1100kmの位置に侵入した正規空母ホーネットから長距離爆撃機B-25が出撃。日本本土を爆撃するという奇襲攻撃が成功したのだ。開戦以来、負け続きであった米国はこの事件により心機一転し、打倒帝国軍を旗印に新戦略を打ち立てたのである。
 その戦略の一つが「護衛空母の大増産」であった。真珠湾の一件は空母の機動性と有用性を証明する良い事例であった。そこで一撃離脱を目的とした小型で機動力に富む空母を大量生産して太平洋中に浮かべ、圧倒的な機動力を持つ部隊を創設するという大計画が立案された。
 護衛空母は約30機の艦載機を持ち、乗員は正規空母の約1/3。最低限の武装と装甲を有するが、直接戦闘力は事実上皆無。その分、正規空母よりもずっと安価で機動性に富むというものだった。大艦巨砲主義の終着を感じ取った米軍は、今後の海戦は空母と艦載機による波状攻撃並びに奇襲攻撃が中心になると考えたのだ。この考えを元に「潜水艦、駆逐艦と相互に連絡を取り、発見した敵艦艇を護衛空母艦載機により雷撃する」一撃離脱戦法が編み出され、米海軍の基本戦術となったのである。
 米軍は造船史に残る驚異的な速度で護衛空母群を建造。計画着工からわずか半年で試作艦を完成させた。1943年の初めには護衛空母群の乗員の訓練が開始され、1943年の半ばには多くの護衛空母が太平洋の荒波に向けて出航した。

【護衛空母ガンビアベイ】
 カサブランカ級護衛空母319番船体ガンビアベイ。彼女は一連の護衛空母造船計画によって誕生した護衛空母である。護衛空母には米国の湾の名前が付けられ、彼女は姉妹艦のキトカンベイ、カリニンベイと共に作戦の一翼を担う事となった。
 乗員のほとんどは新兵……それも18〜20歳の若者達で構成された。米国海軍は慢性的な人不足であり、このような若者を戦場に送らざるを得ない状況であったのだ。
 新兵達は不慣れな海の生活に懸命に耐えると共に、一人前の水兵になるために激烈な訓練を受けた。また空母艦載機のパイロット達も同様に、夜間発着訓練や緊急出撃訓練を日に何度もこなし、来るべき戦いに備えた。
 過酷な訓練の中で乗員は団結し、僅か数ヶ月前までただの少年であった面々は急速に海の男として成長した。彼等はガンビアベイを自分の達の家のように愛し、彼女を母親と呼んで家族のようにまとまったのである。
 1944年の初旬。ソロモン海を完全に掌握した米軍は一気に攻勢に転じ、東南アジアから大日本帝国軍を駆逐する作戦に出た。1944年6月にはガンビアベイは姉妹艦と共に訓練充分、実戦参加可能と判断され、戦線への投入が決まった。艦載機を最新の機体に換装すると共に、遂にガンベイアベイは戦場であるサイパンへ向けて出航したのだった。

【サイパン島攻略作戦】
 護衛空母ガンビアベイを含む、総勢50隻からなる大艦隊が大日本帝国占領下のサイパン島に向けて進撃していた。サイパン島は戦争初期に帝国軍により占領され、帝国軍の絶対国防圏として要塞化されていた。帝国陸海両軍による必死の防戦が予想されるサイパン島攻略に向けて、米軍は手持ちの護衛空母群を一斉に投入。空から大規模攻撃を加える事でこれを撃滅しようと計画した。
 6月13日。サイパン島近海にて壮絶な海戦が開始された。帝国海軍は伊号・呂号潜水艦を投入し駆逐艦狩りを開始。これに対抗すべく米軍駆逐艦も24時間に渡る爆雷攻撃を敢行。空からは帝国軍艦爆機をはじめとする無数の航空機が飛来し、米軍艦載機と空中戦を展開した。ガンビアベイも哨戒機を出撃させ対潜防御網を構築し、友軍艦を擁護しながらサイパン島に向けて姉妹艦と共に突き進んだ。
 6月15日。海兵隊による上陸作戦が決行される。頑強な日本軍の抵抗と大戦車隊による反撃を受け上陸作戦は頓挫。海兵隊は釘付けにされ、一歩も動く事が出来なくなった。
 この状況で活躍したのが護衛空母群の艦載機による地上掃射であった。ガンビアベイから出撃した艦載機が日本軍の地上部隊を攻撃し海兵隊を援護した。絶え間無く艦載機を繰り出すと共に、被弾した友軍機を着艦させ、多くの人命を救った。ガンビアベイは攻守共に活躍し、護衛空母の実力を如何無く示したのである。
 だが6月18日、ガンビアベイは危機に晒されていた。駆逐艦の対空砲火を潜り抜けてやって来た帝国艦爆機が至近弾を次々と落としていく。足が遅く装甲の薄い護衛空母は良い的でしかない。ガンビアベイの乗員は全ての対空砲を四方に向けて撃つと共に、全艦載機を投入して自身の防衛に当たった。やがて未帰還機が出始め、遂に負傷者も続出した。ガンビアベイ自身は無傷でも、数日の間連続で戦闘を続けている乗員は肉体・精神共にもはや限界だった。
 友軍艦にも炎が立ち上り、皆が撃沈の恐怖を思い描くようになった頃、遂に勝利の時は来た。海兵隊が橋頭堡を確保、内陸に向けて侵攻を開始し、制空権を掌握したとの事だった。
 激戦の果てにガンビアベイの初陣は終わった。喜びにひたる乗員達であったが、不可解な事があった。
「俺達が戦ったのは潜水艦と戦闘機じゃないか。敵の戦艦はどこに居るんだ?」
 超弩級戦艦をはじめとする帝国海軍の主力はサイパン近海には現れなかった。確かに作戦は成功したが、帝国海軍の主力部隊を討ち取れなかったという不安が残った。この一軒が災いし、後にガンビアベイに悲劇が降り注ぐことになるのだが……。

【更なる戦い】
 サイパン島攻略作戦を終えたガンビアベイと姉妹艦は休息もそこそこに次の作戦に赴くことになった。テニアン、そしてフィリピン解放作戦である。太平洋の各地で戦果を挙げた護衛空母は、今や正規空母と同等の扱われ方をされていた。米海軍の戦略の中心に据えられ、日増しに過酷な任務が下されるようになったのだ。しかし多くの護衛艦は未だ実戦経験に乏しかったため、ガンビアベイをはじめとする護衛空母群は疲労をひきずったまま作戦に従軍することになった。
 圧倒的な物量を最大限に活用し、米軍は次々と作戦を成功させた。ガンビアベイも相次ぐ出撃要請に答え、艦載機パイロット達は分単位での空爆に参加、戦果を挙げた。
 しかしここで思わぬ誤算が生じる事となった。先を急ぐ駆逐艦と護衛空母、そして米軍の進攻速度など様々な要因が重なり、艦隊行動に亀裂が生じるという事態が発生した。一箇所に大量の艦艇を配備し次々と作戦を行ったが故に、東南アジアの海域は一種の交通渋滞のようになっていたのである。
 またこの時期、帝国海軍が一大反抗作戦を計画しているという噂も米海軍の混乱さを拍車させる事となった。最近の帝国海軍の動向はまったくの不明であり、どれだけの戦力が残されているのか、いつどこで反抗作戦を開始するのか謎だったのだ。
 ガンビアベイの乗員は不安に苛まれながらもレイテ沖に進出し、その地で帝国海軍を待ち受ける事となった。
 そして遂に、ガンビアベイは運命の日を迎える。

【敵の名は大和】
 1944年10月24日。ここ数日の間、帝国海軍は繰り返し大規模攻撃を仕掛けてきた。戦闘機や爆撃機が大挙して各地の港や飛行場を襲撃、米軍は相当の打撃を受けていた。米軍はこれを例の一大反抗作戦と断定。諜報活動から得られた情報と照らし合わせ、これを「捷号作戦」と位置付け、帝国海軍を返り討ちにすべく、各所に艦隊を配置して警戒にあたった。
 1944年10月25日。ガンビアベイはルソン島南部で駆逐艦・姉妹艦と共に哨戒任務に就いていた。その日は夜明け前から霧が発生し、視界が著しく悪かった。
 午前6時30分。突如ガンビアベイのレーダーが光点を捉えた。光点は艦隊に程近い場所に位置し、その数も異常な程多かったが、この頃のレーダーは誤認が多く島や鳥を船と見間違えるくらいであったから、レーダー監視員はいつもの誤認だと思い報告の優先度を下げた。念の為、付近を哨戒中の艦載機が監視に向かったのだが、深い霧の為「それ」に気付かなかった……。
 午前6時45分。運命の時。哨戒機から悲鳴のような声で報告がもたらされた。
「帝国海軍の大艦隊を発見!戦艦4、巡洋艦8、駆逐艦13!どこから出てきたんだこいつら!?」
 ガンビアベイをはじめ、米艦隊の誰もが唖然となった。戦艦を含む大艦隊が接近中などと!戦闘力を持たない護衛空母と数隻の駆逐艦がかなう相手ではない。
「艦隊の中央に一際大きな艦が居る!信じられないほどデカい……まるで島だ!畜生、何だこの化け物は!」
 パニックのような無線は直ちに全艦に向けて送信され、艦隊のレーダーが一斉に目的の海域を照らした。その瞬間、艦隊の誰もが絶望を感じた。
「糞ったれ……これは帝国海軍の主力艦隊だ!我が方の戦力では絶対に勝てないぞ!なんてこった……」
 順風満帆の日々から急転直下、一瞬にして絶望が訪れた。ガンビアベイらは即座に煙幕を放ち進路を反転、友軍艦隊に向けて転進を始めた。だが足の遅い護衛空母だ。敵の駆逐艦から逃げられる筈が無い。撃沈はもはや必至……。その彼等に追い討ちをかけるような事実が無線から流される。
「中央の戦艦は【大和級戦艦大和】帝国海軍旗艦の超弩級戦艦だ!嗚呼……神よ!」
 このような場所で伝説の艦に遭遇した不運に皆が天を仰いだ。この事実が語る事はただ一つ……死だ。
 そして、開戦を示す砲雷が鳴り響いた。

【死闘の果てに】
「上げられる機はすべて上げろ!一人でも多く出撃するんだ!」
 ガンベイアベイと姉妹艦は、持てる全ての航空戦力を投入。敵艦隊への攻撃を企画した。しかし余りにも時間が無い。中には機銃弾しか持たず飛び出していった機もあった。それでも出撃が間に合わない機は、船の重量を軽くするために海へ投機された。
 必至で逃げる護衛艦を守るため、友軍の駆逐艦3隻が猛然と敵艦隊に向けて突進していった。だが結果の分かった突撃だ。彼等は生きて友軍と合流する気は無いのだろう。すかさず敵巡洋艦と激烈な砲戦が開始された。また空母艦載機は特攻とも言える肉薄攻撃を敵艦に向けて行い、次々と撃墜された。その戦いぶりは鬼気迫るものがあったという。
 だがそれでも護衛空母群は逃げ切れない。ガンビアベイの周りに着弾観測用の塗料が広がり、少しずつ着弾位置がガンビアベイに近づいてきた。乗員は悩んだ。「このままじゃ姉妹艦もろとも撃沈される……」せめて姉妹艦だけでも生き残らされなければ、艦隊は全滅だ……。
 そこで彼等は決断した。「これよりガンビアベイは艦隊の最後続を走り、敵の囮になる。皆、一人でも多く生き残ってくれ」朗々たる艦長の声が響く。そう、彼等は友軍艦を守るために盾となったのだ。
 ガンビアベイは煙幕を張ると共に、全ての砲を撃ちまくった。無論これで敵の駆逐艦に損害を与える事など出来ないのが、注意を引くことは出来る。途端に敵の巡洋艦が凄まじい勢いで接近し、至近距離から主砲を撃ち込んで来た。
 主砲弾は上部甲板を貫通、その勢いを失わず反対側へと突き抜けていき、ガンビアベイに大穴を空けた。とてつもない威力だ。乗員は日本軍の主砲の破壊力に恐怖し、戦意を失う者が続出した。やがて敵弾の一発が最重要防御区画を貫通、これによりガンビアベイの主動力が喪失した。ガンビアベイは数十発の直撃弾を受け、もはや沈む寸前だった。
「キトカンベイとカリニンベイは逃げられたか!」
「僚艦とも敵機と交戦中!ですが敵艦隊からは着実に離れていきます!」
 目的は達したのだ。ガンビアベイの命と共に。事を見届けた艦長は最後にこう言った。
「総員退艦!我等の母に祝福を!ガンビアベイ!ガンビアベイ!ガンビアベイ!」
 船乗りに伝わる別れの言葉を口にすると、艦長をはじめ乗員は右舷より脱出の準備を始めた。多くの乗員が右舷に集まり、脱出の時を待つ。
 その時、敵の重巡洋艦利根級がガンビアベイに横付けし、怒涛の砲撃を加えた……しかし、乗員が集まる右舷だけは避け、ブリッジと艦の前部にのみ砲弾を撃ち込んだ。
 いぶかしむ乗員だったが、ともかく脱出のチャンスが訪れたのだ。生存者達は肩を寄り添い、海へと逃れていった。
 同日午前9時40分。護衛空母ガンビアベイは友軍艦を救う盾となり、その短い生涯を終えたのだった……。

【敵と味方と水兵と】
 ガンビアベイが撃沈された直後、多くの者は筏を作って漂流し、救助を待ちわびた。士官達は怪我人を励まし、どうにか助かる術を模索した。
 しかしその時、思いもよらない事件が起きた。向こうから敵の重巡洋艦利根級が接近してくるではないか!こちらは水に浮いているだけの集団だ。反撃する術など無い。船が接近してくるにつれ、ガンビアベイの乗員は「俺達はここで射撃の的にされて死ぬんだ」という絶望に支配された。
 身を堅くして重巡洋艦利根を見詰める漂流者達。だが船の側舷に戦闘制服で立つ水兵達は「勇敢なる敵兵に向けて、総員敬礼!」の合図と共に、一糸乱れぬ見事な敬礼を漂流者に向けて贈ったのである。
 唖然とする一行を尻目に重巡洋艦利根は去っていった。初めは混乱していた彼等だったが、次第に事の内容が分かってきた。
 帝国海軍は敵である我等の勇敢さを認め、見逃してくれたのだという事を……。そして艦を脱出するあの時、敵は脱出者を守るために、わざと右舷を攻撃しなかったのだという事を……。ガンビアベイの漂流者は日本海軍の武人精神に対して、深く頭を下げた。
 その後の漂流を経て、ガンビアベイの生き残りは友軍艦に救助されたのである。

【生き残った英雄達】
 世界初の艦砲射撃により撃沈された悲劇の護衛空母ガンビアベイ。彼女は瞬く間にニュースになると共に、軍部でも護衛空母の運営方針を見直すべきだという論争が巻き起こった。その結果、護衛空母の運用は細心を極めるようになり、以後、二度とこのような撃沈が起こる事は無くなったのである。それはとりもなおさず、ガンビアベイで散った220名近い命が生んだ教訓であったのだ。
 そして今、ガンビアベイは米海軍の戦史の中に確実に名を刻まれると共に、彼等の戦闘を学ぶ事は空母乗りの義務とされた。現在でも存命中のガンビアベイの乗員は、彼等の特異な経験を未来に活かすべく、あちこちで公演を行っている……敵であるはずの我々を救った、日本帝国軍の寛大さと共に。