Go For Broke - M1 Bayonet

Go For Broke - M1 Bayonet
442連隊用銃剣 M1バヨネット

 「Gor For Broke」は、第二次大戦時の米軍主力小銃「M1 Garand rifle:M1ガーランドライフル」用の銃剣である。ここでは「米軍の銃剣」を手に「アメリカのために戦った日系兵士」達の活躍を述べるとしよう。

《日系人とアメリカ》
 時は1900年代の初め。日本から海を渡ってアメリカ領内、特にハワイに多数の日系人が移民として渡って行った。彼等は白人から差別と偏見を受け、貧困の中で辛い生活を送ることを余儀なくされたものの、自分達の子供には苦労をかけたくないという一心から懸命に働き、努力を重ね続けた。
 彼等の子供達、つまり日系二世達が成人を迎える頃には、アメリカにおける日本人社会はかなり巨大なものとなっていた。日系人達はアメリカでも最高の教育水準を誇り、医者や弁護士、教師といった社会的地位の高い職種に就いていたのである。
 しかし1940年になると、アメリカ内での対日感情は日増しに悪いものとなっていった。日本がアメリカを攻撃してくるという報道が連日のように流れ、日系人達はいわれの無い非難を受ける事となったのだ。
 そして1941年12月8日。日本軍による真珠湾奇襲攻撃が敢行されると、日系人達はまるで犯罪者の如く扱われ差別と弾圧の対象にされた。またアメリカ国内の日系人達を敵性民族として監視の対象とする「敵性外国人法」が施行され、全ての日系人達は財産を没収された上で、強制収容所へ連れて行かれた。

《日系二世》
 これに敢然と異を唱えたのが日系二世達である。アメリカで生まれアメリカ文化の中で育った彼らにとっては、日本は遠い外国の国であり、アメリカこそが祖国なのだ。「差別の中にある今こそ、アメリカに忠誠を見せる時だ」日系二世達は忠誠の証として軍隊に志願してアメリカのために戦う道を選んだ。
 軍部は懐疑的な視線を向けたものの、日系二世達の余りに強い声の前についに折れ、日系人だけで構成された部隊「第100歩兵大隊」を設立した。この部隊には志願者が殺到し、定員の数倍に及ぶ日系人達が集まったという。
 ハワイ出身者を核とする第100歩兵大隊はアメリカ本土にて訓練をおくることとなった。軍部は「どうせ大した事は出来ないだろう」とタカをくくっていたのだが(歩兵大隊は第1、第2、第3隊から成り100大隊というものは本来なら存在しない。つまり「お前達などいらない」という蔑視が含まれていたのである)訓練を開始すると同時に、第100歩兵大隊は目覚しい記録をあげ続けた。米軍のエリート部隊である空挺部隊顔負けの成績を残し、トップクラスの実力を示したのである。また非常に高い規律と戦意を持ち、基地付近の住民と共に災害救助にあたるなど風紀も最高であった。
 日系二世兵士達は、自分達が日系人の代表であるという事を誇りに思い、自分達の行動が日系人の地位向上に繋がると信じていたのである。そのため不平一つ洩らさず、どんな任務にも従って結果を出し続けた。しかし何より、自分達の両親は強制収容所にいるのだ。もし第100歩兵大隊が活躍せねば肉親に害が及ぶかもしれない。だから絶対に失敗するわけにはいかないのだった。
 軍部は、いまや米軍でも指折の実力を持つに至った第100歩兵大隊の存在を無視することが出来ず遂に数千人規模の大部隊である「日系兵士部隊442連隊」の創設を認めた。442連隊は新設部隊とは思えない勢いで実力を身につけ、出陣の時を待つに至ったのである。

《イタリア戦線 モンテ・カッシーノの戦い》
 1943年8月20日。442連隊に先駆け、第100歩兵大隊は北アフリカに向けて出陣した。欧州解放戦線の一端であるイタリア戦線への投入が決まったのだ。
 しかし「なぜジャップがこんな所にいるんだ!」友軍からは奇異の視線で見られ、第100歩兵大隊は激しい差別を受ける事となった。彼等を傘下に加えようとする部隊などおらず、第100歩兵大隊はほとんど独立部隊として各地を転戦する事を余儀なくされたのである。
 イタリア沿岸に上陸した第100歩兵大隊は、初陣から激戦に見舞われる事となった。敵は世界最強のエリート部隊、独軍降下猟兵。しかも精鋭中の精鋭で知られる第1降下猟兵師団だった。
 このため第100歩兵大隊は上陸後わずか一週間で死傷者40名を出すに至った。しかし友軍が戦線を放棄して撤退する中、第100歩兵大隊だけは頑として戦線を離れず、壮絶な銃撃戦の果てに勝利をもぎ取ったのである。
 この勇敢で献身的な行為は友軍に広く伝わり「イタリアに第100歩兵大隊あり」と新聞で大きく報道された。また彼等の「銃剣を着剣して全力で敵に肉薄する突撃戦法」は「バンザイ突撃」と呼ばれた。(本家日本軍のそれは自殺戦法だったが、第100歩兵大隊の場合は実に効果的に敵を殲滅したそうだ)
 ローマを目指して連合軍の進撃が始まり、第100歩兵大隊は、ノルマンディー、バルジ、硫黄島と並ぶ激戦「モンテ・カッシーノの戦い」に加った。独軍は機甲師団を主力に、降下猟兵師団、装甲擲弾連隊、重砲陣地といった圧倒的な戦力で連合軍を待ち構えており、激戦は必至だった。
 1944年1月17日。遂に連合軍の総攻撃が開始された。だが開戦と同時に激しい砲撃を受けた連合軍は早くも敗色が濃厚となっていた。あちこちで戦線が崩れると共に、補給線は消滅して物資が届かず、負傷者の後送すら出来ない。命令系統は寸断され、下士官が部隊を指揮するという、混乱の極地に達していた。
 第100歩兵大隊も強力な砲火に晒され、負傷者が続出した。さらに悪いことに、両翼の英軍、仏軍は全滅し、第100歩兵大隊だけが戦線に取り残されるという最悪の状況であった。弾も食料も尽き、医薬品も全く無く部隊には負傷者しかいないという極限の中、第100歩兵大隊は深く塹壕を掘り、ただひたすらに戦い続けた。
 連合軍の部隊のほとんどが敗走し再編成を行っている中、最前線にはいまだ第100歩兵大隊の姿があった。いまや第100歩兵大隊は連合軍に唯一残された橋頭堡となっていたのだ。
 物資が尽きた独軍が後退を開始すると、第100歩兵大隊は先陣に立って追撃を開始した。この攻撃が呼び水となり、連合軍は一気に独軍を攻撃し、モンテ・カッシーノの戦いに勝利する事が出来たのである。
 ようやく友軍と合流できた第100歩兵大隊を見た軍の上層部は、最前線が如何に凄惨なものであったのかを知る事となった。第100歩兵大隊は負傷率97%、死亡率50%という大損害を出しながら戦っていたのである。通常60%以上の被害を受けた部隊は「全滅・戦闘続行不可能」とされ部隊の再編成が行われる。また米軍では60%を超える損耗を受ける部隊は稀であった為、第100歩兵大隊の97%という被害は尋常ではなかったのだ。
 しかし彼らは尚も進撃を主張し、前線から離れなかった。これにはさすがの上層部も「もういい!お前達は充分、よくやった!もうドイツ野郎は逃げちまったよ!」と後方での休養を勧めたものの「俺達が戦っているのはドイツ軍じゃない。俺達は差別や偏見と戦っているんだ。それに勝つには命をかけて頑張るしかないんだ」と言い放ち、進んで前線に立ち続けた。また部隊の負傷者達は病院を抜け出し、すぐに原隊へと復帰していった。
 ……そしてローマ解放時、最前列には第100歩兵大隊の姿があった。戦史上では英軍が一番乗りをはたした事になっているが、実際には第100歩兵大隊が居たのであり、政治的な思惑で彼等の存在は闇に葬られたのである。
 その代わりといっては何だが、第100歩兵大隊はイタリア戦線で一番初めに大統領から表彰された部隊となった。

《442連隊の出撃》
 イタリア戦線での活躍は広く友軍に知れ渡る事となった。新聞が日系兵士集団の事を大々的に報じた事もあり、彼らは一躍有名人となっていた。この実力も知名度もある部隊を自分の部下に加えたいと、あちこちの師団から誘いが来るほどであった。いまや日系兵士達は押しも押されぬ英雄になっていたのである。
 1944年6月。イタリアのナポリに上陸した442連隊は第100歩兵大隊と合流し陣容を整えた。第100歩兵大隊が戦場で養った技術は速やかに連隊に伝えられ、短期間で442連隊の錬度を向上させたのだった。
 またこの時、連隊章である「Go For Broke - 自由の女神のたいまつを象った、442連隊だけの徽章」が生まれ、男達の間で伝説となった。
 その後、442連隊は34師団「レッドブル」に編入され、部隊はイタリア北部からフランスを経由してドイツ国内に進撃する「ドイツ侵攻作戦」の一翼を担う事となった。
 1944年8月。442連隊はドイツ軍の防衛線を突破する任務を与えられ初陣を飾った。これまで、どの部隊も攻略できなかった防衛線を、442連隊はたった半日で突き崩し、怒涛の勢いでドイツ軍を駆逐した。余りの戦闘能力の高さに、同行した友軍は唖然となった程である。
 しかし、この戦果が裏目に出た。これ以降、442連隊は常に最前線に送られると共に、結果を出す事を義務付けられたのだ。たちまち442連隊では負傷者が続出し、特に第100歩兵大隊は大きな被害を出す事となったのだが、それでも442連隊は不満を口にする事無く任務を達成し続けた。

《バルジ反抗戦 ブリエアの解放》
 1944年9月。連合軍のマーケット・ガーデン作戦が大失敗に終わった隙を突いて、ドイツ軍は大反撃に出た。ドイツ本土決戦用に温存されていた戦車隊を連合軍の前線に突っ込ませる大反抗作戦「バルジの戦い」が始まったのである。
 不意を突かれた連合軍は大混乱に陥り、補給戦は寸断され、各地で部隊が孤立した。442連隊もこの混乱に巻き込まれ、ドイツ国内への侵攻は断念された。代わりにフランスの地方都市ブリエアの解放を命じられた442連隊は、取るものも取らずフランスへと向かったのだった。
 ブリエアを守備するドイツ軍は高地と市街に陣を据え、万全の体制で442連隊を迎え撃った。さらに442連隊にとっては運が悪い事に、ドイツ軍は降下猟兵や武装親衛隊など熟練兵を集めた集団であったのだ。
 またこの年、数十年に一度という大寒波が欧州を襲った。急な出撃で物資が不足していた442連隊は、たちまち酷い寒さと飢えに襲われる事となった。そこをドイツ軍の熟練兵が攻撃したため、被害は甚大なものとなったのである。だが442連隊への援軍は無く、彼等は独力での戦いを余儀なくされた。
 1944年10月。442連隊は惨めな生活とドイツ軍の砲撃に懸命に耐えながら、確実に包囲の輪を狭めていった。そして同月19日、ついに総力戦に転じ全部隊でドイツ軍を強襲した。第100歩兵大隊を先頭に、高所に陣取るドイツ軍に向けて突撃が行われたのである。ドイツ軍が有する強力な火砲の前に多数の死傷者が出たが、442連隊の兵士は怯む事無くドイツ軍に立ち向かって行った。そして壮絶な市街戦の果てに、ついにブリエアの解放に成功するのである。
 実に4年ぶりにナチの圧制から解放された市民達は歓喜したが、それを見る442連隊の兵士達は複雑な心境だった。フランス人は解放されたが、自分達の家族はいまだ強制収容所にいるのだ……。
 日系兵士達の悲惨な境遇を知ったブリエア市民は大いに驚き、彼等のために涙を流した。そしてせめてもの恩返しになればと、ブリエアの大通りの名前を「442連隊通り」に改名し、盛大な式典を催して兵士達を慰労したのだった。

《戦後の英雄達》
 欧州での戦いを終え帰国した442連隊を待っていたのは「強制収容所での軟禁」という悲劇的なものだった。対日戦の勝利は間近とはいえ、彼等はいまだ敵性民族であったのだ。「命を懸けて戦ったというのに、何も変わらないのか」人種差別という壁が大きく立ちはだかり、信じていたアメリカに裏切られた兵士達は深く絶望した。
 だが終戦間際になって、442連隊があげた戦果が凄まじいものであると分かると、状況は一変した。
 「個人勲章獲得総数18000個・全米軍部隊中1位」「累積死傷率320%・全米軍部隊中1位」「名誉負傷勲章獲得者6700名・全米軍部隊中1位(一人あたり平均2個)」という前代未聞の大記録であった。
 この記録は大々的に公表され、アメリカ全土で広く報じられた。同時に日系人が置かれた状況も広く報道され人々はアメリカの暗部を知る事となったのだ。
 終戦後の混乱が一段落すると、時の大統領トルーマンは国民に向けてある演説を行った。その内容は「戦中、我々は日系人に対して不当な差別を与えてしまった。これはアメリカ史における最大の汚点であり反省しなければならない過去だ。それに気付かせてくれたのは442連隊の勇敢な日系兵士達であり、彼等には特別の感謝の気持ちを伝えたいと思う」といったものだった。
 ……この時、442連隊は遂に差別という敵に打ち勝ち、真のアメリカ人になったのだった。
 日系人達は強制収容所から解放され、国は賠償金を支払った。彼等が戦中に失った名誉を回復するための運動が各地で始まり、歴史は見直された。
 442連隊の元兵士達はホワイトハウスに招待され、大統領直々に感謝状を手渡された。また第100歩兵大隊の故郷ともいえるハワイには博物館が建造され、彼等の勇気と献身を永久に語り継ぐよう記録の保管が始まった。
 そして現在、442連隊の戦史を学ぶ事は米国陸軍の必修課程となり、多くの軍人が彼等の活躍を知る事になったのである。

 442連隊の合言葉「Go For Broke - 打ち砕け!」
 敵と共に差別を打ち砕いた男達の伝説は、永久に不滅であろう。