生きて死ぬ智慧日々の生活の中で「原始仏教 根本仏教」の言葉を聴くと耳を傾けることが多い。
何気なくつけたテレビからこの言葉が出ると聞き入ることになる。
番組表を見たわけでないが、目が覚めスイッチを入れるとNHK教育の「こころの時代」の生命科学者の柳澤桂子さんの「生きて死ぬ智慧」という著書を中心にした話が放送されていた。
自己の運命での般若心経と出会い、原始仏教における仏陀の言葉、本当に仏陀が言いたかったことは何であったのだろうかとの究明。
病気との闘いや、日常生活の中で出会う人から受ける言葉とそれに対する自己の反応と深められる智慧。
と、ひきつけられる内容であった。
知識のみでは机上の空論に終始してしまい、知行合一でないと欠陥人間となる。また、人生における智慧は、享楽と苦行の間の中道への流れ、聖道のみならずの浄土への道。
柳澤さんは、病苦との戦いの中から智慧を積まれた。
「人間本来罪深い存在」であり、何故に罪深いのか、そこに執着があるからで執着を滅することが一つの悟りである。
行き交う人が車椅子に乗った自分(柳澤さん)を見て「大変ですね。」という言葉をかけられたときに「哀れみの目で観られている」という感情を自分自身の心に留めたときの「いやな気持ち」に、何故そう感じるのか。
柳澤さんは、その時に「自我をすてる」という仏陀のいった言葉の意味を智慧として得られた。
言葉で知っていても知識に留まっている限り無駄ではないが、片手落ちである。
宇宙は一枚の布、すべて織り成す糸で繋がっている。生命科学者であるから自己の経験と知識との照合は、一つの証明でもあるので柳澤さんの言葉には重みがある。
原始仏教では梵我一如、魂、輪廻転生も無記である。
司会者が「神」の存在に対する質問をされた時、柳澤さんは最終的には「もやもや」の存在と答えられていて、無記に近い表現をされていたように思う。
ユングは、「神は居ようが居まいが存在する。」といった。 存在するならば存在すると表現すべきところをそのようにいっている。形而上学的な存在は証明することはできない無記が最大のよりどころ表現で、「絶対存在」の主張は、執着から生ずるものである。
スリランカは今回の地震による津波被害で相当の犠牲者がでた。災害被害の報道は、いまだに行われているが、その中で気になるのは児童の売春目的の誘拐である。
この国は南伝仏教国で原始仏教に近いとされている。
この国の宗教団体(原始仏教であるが輪廻転生を説く)は日本にもあり人気を集めているようである。
南伝仏教は僧侶の権威が強く、托鉢(応量器を使う)の際は、決して布施者に対する礼はしない。
権威も執着である。慈悲は対他的実践、戒律は対自的なもので戒律に固執しすぎると何かが崩れるのである。
足下を照らすことを忘れては成らない。
煩悩具足の輩 高史明さんという方を知って、ウェブを検索していると著書の「ことばの知恵」の批評が目にとまり、その批評を読むと最後の部分に気になるところがあった。
「泣くべきときに泣けないような考え方が、はたしてこの地球上に生きる者として正しいものなのか、という疑問」
と高さんの生き方の解説後に、作者である高さんと直接話したわけではなく書物だけからの知識を基にした、「だが」ではじまる文章である。
高さんの教えは「泣くべきときに泣けないような考え方」という短絡的なものではない。 悲しむべき時に悲しむのは当然で、涙も出ない悲しみも当然ある。
批評家のいうとおり「マザーテレサの姿」のすばらしさは当然尊敬をはるかに超えたものである。 そしてそのことをすばらしいことだと感ずる人間性を兼ね備えることは、今の人類にとって一番必要なことである。
ところが、世の大半の人間は煩悩具足の悪人なのであって、今日只今どうにかこうにか、生得する僅かな遺伝的素因とその後習得した道徳性により生きている。
したがって、箍(たが)が外れる者もいるから世の中の喧騒は絶えることない。「喧騒」と穏やかな表現を使うが、戦争も喧騒も根は同じである。
婚姻後の子のDNA血液検査が法律により禁止されるとのこと。
現在、子の父親が戸籍上の父親と違う場合が1%あり今後増えることが予想され、個人情報の観点から法規制が行われるということである。
この場合、1%の事実をつくりだす人間も個人情報の保護を発想する人間もそしてそれを是認してしまう我々も同じ煩悩具足の善人モドキであることを認識する必要がある。
善人になりたがる批評家、評論家が巷には多すぎる。小生然り。
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