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自灯明・法灯明 「己こそ己の寄る辺、己を措きて誰に寄るべぞ、よく整えし己にこそ洵、得難き寄り辺をぞ獲ん」長部経典 「さればアーナンダよ。ここに自己を燈明(洲)とし、自己を依処として、他人を依処とせず、法を燈明(洲)とし、法を依り処として、他人を依処とせずして住せよ。」 は、仏陀の教えとされる自灯明・法灯明、自帰依・法帰依である。中村元訳の真理のことば(ダンマパダ)160では、 「自分こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自分をよくととのえたならば、得難き主を得る。」 となる。寄り辺とする処を己(自己)と法に分けられているが、己は、一生涯の実践の主体でありまた法の実践で整えられた己でもあるという意味で寄り処はこの己に尽きる。 あるとき仏陀のところにコーサラ国の王が訪ねてきたときに語った話に、四方から己に迫り来る巨大な岩石の話がある。 迫り来る岩石に、軍勢であろうが、金品財宝があろうがなんの役に立たない。これは自分に迫り来る老・病・死であり、 「王よ、何をしなければならないか(自ら)考えなければならない。」 というような話で、最終判断は己で下すことになる。自分の周囲のものがすべて死んだ時、頼るべき親子兄弟、親戚友達、そして国家など自分を取り巻くすべてを失った時、寄るべき処は己だけである。 よく己を整えた人は、神や仏を心の安らぎの中に見る。 怒りの中に神を見る者は、勝利の中に神を見る者と同じく、己の整えを失った者で偽りの神を見ることしかできない。 己を失う理法をかかげる宗教は、偽りの宗教である。 「己を失っていることに気がつくものは幸いである。」 なぜなら己を整える道があるからである。
一夜賢者の偈 「今今と今と言う間に今はなく、今と言う間に今は過ぎ行く」 という道歌がある。正受禅師の「一大事とは今日只今のことなり」 も思考の根底にあるものは同じである。一日、その瞬間、今というその瞬間の大切さは、人の意識が時間とともに流れ行き、留まらないものであるかを考えさせられる。 仏教では、留まらない意識だからこそ自我というものは固定されず。個の存在は生来無自我であると説く。自我の無いところに、言葉を変えれば、固定された個が無いところに魂の存在はなく、輪廻転生はありえないのである。 しかし、仏法も方便で 「悪いことをすれば地獄、善を積めば天国、畜生的な人生を過ごせば動物に生まれ変わる。」 などと教化してきた。これらの教化は、流れ行く現代に至って、SF的な現象は全て、今という瞬間においては現実ではないのに、可能性を秘めた現実と錯覚させ、人類に今という現実、瞬間のもつ重要性を見失わせてしまった。 留まりの無い意識の中での個の正義の判断は、同じく留まりの無い意識の中での不正義という相依する概念の認識があって成立しているのであって、真理では無い。 「人を殺しては成らない。」というのは、瞬間の真理であり 「神の名においての殺人行為、聖戦による殺戮行為」 は流動的な思考がもたらす産物であることが解る。「過ぎ去れることを追うことなかれ。いまだ来たらざるを念(おも)うことなかれ。過去、そはすでに捨てられたり。未来、そはいまだ到らざるなり。さればただ現在するところのものを、そのところにおいてよく観察すべし。揺らぐことなく、動ずることなく、そを見きわめ、そを実践すべし。ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ。たれか明日死のあることを知らんや。」 南伝中部経典一夜賢者偈より
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